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发表于 2007-2-24 17:59
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邓小平秘录:邓对赵紫阳发警语说中国不能乱. v1 {# y3 {! P- I% {9 l
(中央社记者杨明珠东京二十四日专电)8 v# ?4 U* r4 C
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日本产经新闻正在连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年三月四日身为中央军委主席的邓小平与总书记赵紫阳会谈,其中提及「中国不能乱」一事,等于是邓给赵的警讯,这也成了邓、赵两人的最后对话,四十二天后改革派前总书记胡耀邦猝死,引发天安门事件悲剧。人在德国 社区- L5 l. \* S+ }0 g; ?2 x6 e; Y
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秘录中提及,中国前外长钱其琛于二零零三年所出版的「外交十记」一书相当出色,其中透露了一九八九年天安门事件(第二次)之后的七月初时,美国总统特使史考克罗密访中国的内幕。文中指出,美国总统布希盼邓小平理解他所承受来自国会的压力,要求邓小平能软化强硬的姿态。, j# G8 ~4 v: _& V
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但是邓小平直言,中华人民共和国的历史若加上抗美援朝的二十五年间,牺牲了两千万人的性命才好不容易获胜,中国的内政不容外人干涉,任何势力都无法取代中国共产党来领导中国。
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, S# h( q7 p) i9 C8 L0 C/ {( z产经刊载的秘录说,这是邓的绝对信念,与中国保守派元老看法相同,所以必须镇压足以危及一党独裁的要求自由化、民主化声浪。一九八八年秋天以后,改革派因不满赵紫阳失权而动作频频,共产党内于是开始出现将赵拉下台的动作。
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秘录中提及,邓小平于八九年一月二十一日从北京出发赴上海,期间与政治协商会议主席李先念密谈。二零零四年出版的「邓小平年谱」写说邓、李于一月二十三日会谈,但未写出内容。秘录中说,邓停留在上海直至二月十六日,期间做了重大发表,亦即苏联共产党书记长戈巴契夫将于五月访中,此事对六四天安门事件具有决定性的影响。
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秘录也指出,八九年二月二十六日邓小平与来访的美国总统布希会谈时,表明「压倒一切才能安定」,这也是后来上台的江泽民政权的口号。此事收录于一九九三年出版的「邓小平文选」第三卷,其中言及避免对毛泽东晚年的错误做过度的批评,因为否定毛泽东形同否定他所建立的共产党中国。, `: M4 e$ Z3 e. ~) w
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秘录说,「邓小平年谱」写道当年三月四日邓小平将赵紫阳叫到自家会谈,「邓小平文选」也以「中国不能乱」为题收录,只是注中写的是「与中央责任同志的谈话」。
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秘录写道,邓小平是在对赵紫阳发出警语,告诉他说实施现代化也好、改革开放也好,最重要的是安定。邓小平说,中国不能乱,若三百六十五天搞示威,什么事都做不了,外资也不会进来。
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+ w: K8 x# h- m1 I% A& Q6 l4 |csuchen.de秘录说,邓小平并非对赵紫阳完全失去信赖,但这番话却成了两人的最后对话,在这四十二天后,改革派的前总书记胡耀邦猝死,悲剧就此开始。) ? V0 ?, J1 T( V/ b( C9 v. G5 p g! J
# M6 n/ E$ J% M8 p8 W' w% z& y【トウ小平秘録】(11)第1部 天安門事件 最後の会話 1980年代以降の中国外交を担った銭其●(●=王へんに深のつくり)(せんきしん)元副首相が現役引退後の2003年に刊行した「外交十記」(世界知識出版社)は、内容の豊富さにおいて、元高官の回顧物では出色だ(以下、肩書は当時)。$ r: p1 f4 A% X; `# A) T
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その中で、天安門事件(第2次)直後の89年7月初め、スコウクロフト米大統領特使が極秘訪中した内幕が明かされている。ブッシュ大統領(現大統領の父親)は、対中制裁実施を要求する議会の圧力を受け、中国側に強硬姿勢を軟化させようと特使を派遣したのだ。
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「中国は乱を許さない」- [6 E7 L1 A) _+ v
7月2日、スコウクロフト氏と会談したトウ小平(しょうへい)氏は、大統領が置かれた厳しい状況の説明を聞いた後、きっぱり言った。
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「中華人民共和国の歴史は、中国共産党が人民を指導し22年間、抗米援朝を加えれば25年間戦争をし、2000万人以上の犠牲者を出してやっと勝ち取ったものだ。中国の内政にはいかなる外国人の干渉も許さない。中国ではいかなる勢力も中国共産党の指導にとって代わることはできない」
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「共産党の中国」はトウ小平氏の絶対的信念であり、保守派長老との共通点でもあった。一党独裁を危うくする自由化や民主化要求を抑圧してきた理由だ。
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( Y! `% _! S# k" b' F+ O/ T9 m 88年秋以降、趙紫陽(ちょうしよう)総書記の失権に反発、改革派の活動が活発化する中で、趙氏降ろしの動きが始まる。csuchen.de( f9 o5 K+ A% J, Y+ Y7 K( t
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89年3月6日付の毎日新聞朝刊は1面トップで次のように報じた。
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「北京の消息筋は5日、今年2月の春節期間中に上海で最高実力者、トウ小平・中央軍事委員会主席と李先念(りせんねん)・政治協商会議主席が秘密会談し、李主席が趙紫陽総書記の退陣を迫ったことを明らかにした。李氏は『趙総書記のやっているのは資本主義だ』『陳雲(ちんうん)顧問委主任の考えが正しい』と述べたが、トウ氏は不快感を示したという」
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/ T9 B* _! X# r1 d 私もしばらく後、ほぼ同じ情報を入手したが、トウ・李会談の事実さえ定かでなかった。それが04年に刊行された「トウ小平年譜」で確認された。' @0 c# M7 Y( D, Z5 ^" v
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それによると、トウ氏は89年1月21日、専用列車で北京を離れ、22日上海に到着。春節を上海で過ごすのは例年のことだった。「年譜」には翌23日、「李先念と会話」とあるだけで、内容には触れていない。
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, r3 b* m5 s& y# X% A4 _2 ^ 当時の取材よると、トウ小平氏は李先念氏が「長老の一致した意見」として要求した趙氏の解任に同意せず、「代えるべき適任者がいない」と擁護したという。李氏との意見対立も、趙氏擁護も公表には不適と判断されたと思われる。
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トウ氏は2月16日まで上海に滞在した。その間に、4カ月後の天安門事件(6月4日)の展開に決定的な影響を与える発表があった。
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ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の5月訪中である。2月4日、トウ氏がシェワルナゼ外相と会談した後、やっと合意に達した重大事だった。
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「外交十記」は、82年3月のブレジネフ書記長のタシケント演説にトウ氏が着目し交渉が始まった経緯を詳述している。トウ氏の中ソ関係正常化への熱意は強烈で、ゴルバチョフ訪中による正常化を花道に、完全引退する考えを固めていた。
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89年1月初めに天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏が民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を要求する公開状を出して以来、知識人や学生の民主化要求の動きが強まったことや、訪中したブッシュ米大統領の夕食会に方氏夫妻が出席を阻止されたことは本連載の前半で書いた。人在德国 社区2 A- J! _- ~/ O2 Y
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夕食会のあった2月26日の午前、トウ小平氏はブッシュ氏と会談した。そこでのトウ氏の発言は、後の江沢民(こうたくみん)政権のスローガンになる「一切を圧倒するのは安定」とのタイトルで93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)に収められている。
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: j0 V* v' ^2 G- @ その中でトウ氏は、毛沢東晩年の過ちへの「行き過ぎた批判」を戒めている。その理由は「このように偉大な歴史上の人物を否定することはわが国の重要な歴史を否定することを意味し、思想の混乱を生み、政治的不安定を招く」からだ。
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それはトウ氏の持論である。毛沢東を否定することは、毛がつくった「共産党の中国」、つまり一党独裁を否定することなのだ。しかし、毛沢東遺制の変革を目指す知識人たちは、批判の矛先をトウ氏にも向けていく。csuchen.de4 e9 @1 {9 U! `1 |
) @) D* p0 L2 h! f3 h/ Xcsuchen.de 3月4日、トウ小平氏は自宅に趙紫陽氏を呼んで話す(「トウ小平年譜」)。「文選」には「中国は乱を許さず」のタイトルで収録されているが、注には「中央責任同志との談話」としている。
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* j$ ^2 ?1 s: `, f5 K7 n7 u 「現代化も改革・開放もカギは安定だ。ブッシュに話したが、一切を圧倒するのは安定の必要だ。安定を妨害するものにはすべて譲歩したり妥協したりしてはならない。中国は乱を許さないとの信号を発しろ」人在德国 社区8 ?1 C7 o/ O; V7 C. {" \
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「違法デモを取り締まり、気ままにデモをするのを許すな。365日デモになれば何もやり遂げられない。外国の資金も来なくなってしまう」
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それは趙氏への警告だった。趙氏の改革派ブレーンたちの影響が知識人や学生のサロン活動を導いているとみられたからだ。トウ氏の趙氏への信頼が完全に失われたわけではなかったが、2人だけで会話したのは、この89年3月4日が最後になった。人在德国 社区0 l8 c5 f+ E. T% c4 \0 i3 e
( n s* e9 `9 b; P' h+ N- u その42日後、改革派の胡耀邦(こようほう)前総書記が急死し、悲劇のドラマが始まる。(伊藤正)
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# s+ G4 V) b5 q' {/ C1 B/ O" T【用語解説】抗米援朝
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1950年6月勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争の中国の呼称。米国に抵抗する北朝鮮を支援するという意味で、同年10月に中国軍が参戦、義勇軍を派遣すると同時に、反米・愛国意識を高揚する抗米援朝運動という大衆運動が組織されて以来、朝鮮戦争の呼称として定着した。現在でもよく使われる。朝鮮戦争は53年7月に休戦協定締結。$ n5 e2 ^9 g6 g2 ]
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1988年12月、モスクワで会談する中国外相(当時)の銭其シン氏(左端)とソ連外相(同)のシェワルナゼ氏(右端)。中ソ関係正常化はトウ小平氏の長年の懸案だった |
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