邓小平秘录:保守派斗倒胡耀邦但未全面胜利/ m( i# B7 Y7 Y8 f- ?9 v- h

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+ l4 {& _- ?. i     根据日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」,中国共产党保守派虽在一九八七年一月斗倒党总书记胡耀邦迫他下台,但由于邓小平让总理赵紫阳接下胡耀邦留下的空缺,保守派并未全面获得胜利,后来保守派和革新派升高对立,元老们决定设法把赵紫阳也搞下台。
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# h8 f! u5 \# V# @3 V* Z3 o     文中指出,一九八七年一月中共高层在对胡耀邦进行斗争会议的「民主生活会」上,对胡以最严厉口吻最长时间的演讲展开攻击的是当时的保守派理论家,党中央书记邓力群。随胡耀邦之后,中央宣传部长朱厚泽也被解职,但是,由于邓小平选赵紫阳接任胡耀邦,保守派并未全面胜利。
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     当时传闻赵紫阳曾坚决拒绝就任代理党总书记,他于一九九五年十二月接受前新华社记者杨继绳的访问时表示,他真的不想成为总书记,希望(以总理身份)从事经济改革,但同时表示,他未坚持自己的意见是由于认为在当时的情况下,只有他是比其他人较佳的继任人选。不过,曾是胡耀邦智囊的阮铭(目前住在台湾)和吴江则认为胡耀邦下台是赵紫阳搞的阴谋。
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2 o: Q. y4 V& P9 v6 R3 b- I- G, @; d     秘录指出,邓小平针对思想和文化面的问题是支持保守派,但并未让保守派担任要职,对邓氏来说,经济建设才是一切,因此需要的不是保守理论家,而是改革的务实家。# Y. l; `1 a$ n! P1 M5 Z+ Q

0 J) a# h1 G1 r     担任代理党总书记的赵紫阳在同年十月召开的第十三届党大会的政治报告强调改革开放,主张全力提高生产力的必要性,和邓小平的想法完全一致。根据杨继绳的著作指出,保守派重镇陈云希望邓力群能担任总书记,王震察知陈云的意见而为有利邓力群展开活动。改革派的党中央组织部副部长李锐发觉此一动向而怀有危机感,遂和赵紫阳的秘书鲍彤商量,致函邓小平。
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     李锐在信函中除指出邓力群是一贯反对改革开放的极左主义者之外,并暴露他在延安时代曾私通自己太太的恶行,反对邓力群担任中央的职务。邓小平经由赵紫阳获得此信后指示:一,解除邓力群的职务;二,让邓力群成为政治局后补委员;李锐不要对邓力群进行报复。人在德国 社区; K$ [, Q' s9 J7 R4 H

2 F" Y9 U8 P5 g( Z' e6 l4 \人在德国 社区     在党大会前内定的新领导阶层草案中,邓力群原被列入政治局委员的名单内,成为候补委员是相当于降级,结果,党大会时,邓力群在中央委员选举落选,不要说是总书记,连政治局后补委员都未当上。陈云对此极为不满,大叫全都是李锐和鲍彤搞的鬼。第十三届党大会之后,保守派和改革派的裂缝加大,党元老们决定设法把赵紫阳搞下台。
中央社
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【トウ小平秘録】(7)第1部 天安門事件 暗闘 保守派の完勝ではない* x; e% {$ P/ R- O* X

( D! Z5 y6 c) ]; h胡耀邦(こようほう)氏を弾劾した1987年1月の「民主生活会」で、最も厳しく最も長い演説をしたのは、保守派の論客、トウ力群(りきぐん)・党中央書記(当時=肩書は以下同)だった。トウ氏は回想録「十二個春秋」(以下「トウ書」)に、「3時間半かかった」演説全文(29ページ)を載せている。人在德国 社区7 P$ Y; E3 R8 ]& g# c
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 その中でトウ力群氏は、70年代末以来の自由化との闘争を詳述。「反精神汚染」などの運動後もブルジョア自由化が蔓延(まんえん)し続けたのは、胡氏が自由化を擁護したためと厳しく批判した。トウ氏は演説をこう締めくくる。人在德国 社区# Q6 q/ N3 @% Z( y  v

% M" X, `( ?& p: @  q7 c 「耀邦同志が主導的、積極的に誤りを清算し、思想上の消極面を克服するよう心から望む。特に耀邦同志と同じ観点を持つ同志は、耀邦同志(が誤りを正すの)を助け、自らもそうするように」, i9 M' V% |# i
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 弟子に説教するような口調に、勝利感があふれる。それは陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記をボスにする保守派に共通する思いだったろう。過去に多数の「自由主義者」を血祭りに上げてきたが、ついに「頭目」を仕留めたのだ。% n' ]( J5 D% y3 b2 W

$ P4 O1 y7 O& { 胡氏に続いて朱厚沢(しゅこうたく)中央宣伝部長も解任された。朱氏は85年に胡氏に呼ばれ、貴州省党書記から転任していた(後任は胡錦濤現国家主席)。
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. P; ?" a4 D5 U. s% _/ ?人在德国 社区 かつて共産党内の改革派で、胡耀邦氏のブレーンだった阮銘(げんめい)氏(現在台湾在住)の著書「トウ小平帝国」によると、トウ力群氏は87年1月28日、後任部長の王忍之(おうにんし)氏を連れて宣伝部に行き、朱氏に引き合わせた。3 l" B9 }* W" h: C4 k. _

9 n* E. p) ^7 z' l/ J& A 朱氏「1年余り仕事をしたが、その是非は、歴史が評価するだろう」
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 トウ力群氏「歴史の評価を待つまでもない。今評価してやる。胡耀邦の失脚が結論だ」  g5 a( }, o4 z) M
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 しかし保守派の「完全勝利」とはいかなかった。トウ小平氏が、胡氏の後任に趙紫陽(ちょうしよう)首相を選んだからだ。
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 元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は著書「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で「当時、陳雲がトウ力群を後任にするとの伝聞があったし、可能性もあった」とする。人在德国 社区# w0 ~9 f( H. L* T8 c

5 e8 }& H$ p/ a4 Q' g6 A 「トウ力群のマルクス主義理論の水準は高く、1975年のトウ小平批判運動のときの態度もよかった。子女に腐敗のうわさはなく、陳雲の思想にも忠誠だった。陳雲陣営からすれば、理想的な人選だった」(「楊書」)
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 一方、趙紫陽氏は総書記代行就任を固辞したと当時伝えられた。趙氏は95年12月、楊継縄氏のインタビューに「本当に総書記にはなりたくなかった。(首相として)経済改革をやっていきたかった」と述べ、さらにこう話している。
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. X% O: `; y3 [! ^csuchen.de 「自分の意見を押し通しはしなかった。当時の情勢下では、後任には私しかいなかったし、私の方が(他の人より)ましだろうと考えた」
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 それなら固辞しなきゃいいのに、と思えるが、そこは趙氏のしたたかなところで、後に長老らが問題にするある約束を取り付けていた。胡耀邦氏のブレーンだった呉江(ごこう)、阮銘両氏はいまも、胡氏解任について趙氏の陰謀説を唱えている。/ N$ {0 L9 j: r* u# g; Q* e
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 《ひっくり返った党人事》
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; E! \, F) H/ Z 思想や文化分野で問題が生じる度、トウ小平氏は保守派を支持する一方、保守派を主要ポストに登用することはなかった。トウ氏にとって、経済建設こそがすべてで、それに必要なのは保守理論家ではなく、改革志向の実務家だったからだ。
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4 ]; P% ?. @8 r* X2 E$ K0 {人在德国 社区 保守派は、趙紫陽氏を新たな「標的」に巻き返しに出る。
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: P- t, y# z! } 5年に1度の党大会(第13回)が秋に迫っていた。施政方針を示す政治報告の起草段階で、保守派は反自由化の徹底を主張、それに対し趙氏は経済建設が中心と反論するなど暗闘が続いた。+ K# `4 h5 `" k3 O( \3 v! I
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 10月に開かれた13回党大会で、総書記代行の趙紫陽氏が行った政治報告は、改革・開放が基調になった。特に中国の社会主義を「初級段階」と規定、生産力の向上に全力を挙げる必要を説いた点が内外の注目を浴びた。それはトウ小平氏の考えと完全に一致していた。% F  B' [  l  j0 M; F$ ?

8 J1 \, s" p$ N/ ?; Q 「楊書」によると、保守派の重鎮、陳雲氏はトウ力群氏の総書記就任に望みを寄せていた。その意を察し、王震(おうしん)中央顧問委副主任が多数派工作に動く。それを知り危機感を抱いた改革派の李鋭(りえい)中央組織部副部長は、趙紫陽秘書の鮑●(ほうとう)氏と相談、トウ小平氏あて書信を書く。6 K1 {/ t# O/ q6 m8 l3 e
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 その中で李鋭氏は、力群氏が改革・開放に一貫して反対してきた極左主義であることなどに加え、延安時代に李氏の妻と密通した旧悪も暴露し、彼を中央の職務につけることに反対している。; G- b0 r/ M2 ~9 d% B/ i! V

0 I& I9 Y$ F8 k% q0 ]: T# p1 I 趙紫陽氏経由で書信を受け取ったトウ小平氏は、(1)力群の職務を解く(2)政治局候補委員にする(3)李鋭同志は復讐(ふくしゅう)しないこと-と指示した。
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 このうち(2)は、党大会前に内定した新指導部案で政治局員リストに入っていたトウ力群氏を候補委員に格下げするという意味だ。ところが、党大会でトウ力群氏は中央委員選挙で落選、総書記はおろか政治局候補委員にもなれなかった。9 R  Z7 E& D& d0 W; D6 r& q: m+ m8 m0 h

5 D' U) H# p4 A+ `3 a: o; ncsuchen.de 陳雲氏はこれに強い不満を漏らし、「すべて李鋭と鮑トウが裏で画策した結果だ!」と叫んだという。13回党大会で、保革の亀裂は深まり、長老らは趙紫陽氏追い落としの決意を固めていく。(伊藤正)* D7 D/ D/ l$ i9 i% H" f. \. F

& }$ }" D& ]# l: h ■精神汚染 暴力やポルノなどを扱った小説、映画などの作品からディスコ、ジーンズ、パーマなどの風俗、さらには理論、学説まで欧米の影響を受けた現象のこと。83年から批判キャンペーンが展開されたが、トウ小平氏が84年初めに終息を指示した。理論界では人民日報副総編集長の王若水氏の「社会主義の疎外論」がトウ力群氏ら保守派からブルジョア自由化の影響と攻撃された。
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 ■陳雲(1905~95年) 上海生まれ。25年に中国共産党に入党。中華人民共和国成立後、副首相として長年経済、財政政策を担当。文革中は一時失脚したが、78年に党副主席に就任、トウ小平氏と並ぶ指導者として80年代の中国政治に大きな影響力を発揮した。市場経済を鳥、計画経済を鳥籠にたとえ、鳥は鳥籠の中でのみ羽ばたかせるとの「鳥籠経済論」で有名。csuchen.de+ C$ p7 ~; S3 j8 e
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 ●=彫の周が丹
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(2007/02/20 07:26)
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5 {2 `- v  O; B- H* j% t2002年8月、北京にオープンした蝋人形館。トウ小平氏と並んで陳雲氏の蝋人形(左)が展示されている

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邓力群

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邓小平秘录:邓和赵紫阳合作深谋改革
0 Z  V6 A; a" p# ~$ w. v: m(中央社记者张芳明东京二十一日专电)日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,邓小平和赵紫阳合作深谋改革,中国在政经面大胆改革是两人的合作,背后是两人的信赖关系,但是后来如何发生变化成为一九八九年天安门事件的重点所在。
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; G2 b3 [! @* t人在德国 社区文中指出,保守派理论家邓力群在一九八七年秋天的第十三届党大会不仅在中央委员选举落选,连中央顾问委员会常务委员选举也落选,相对地,一月被解任的胡耀邦则以高票当选中央委员并在随后的一中总会获选党政治局委员。
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邓力群后来在回忆录中指摘赵紫阳是阴谋家,并指出赵紫阳的目的若没有邓小平的支持是无法实现,邓力群的指摘就整体看邓小平决定武力镇压民众的天安门事件具有重要的意义,中国在政经面大胆改革是邓小平和赵紫阳的合作,背后是两人的信赖关系,后来如何发生变化成为天安门事件的重点所在。/ [( L2 a' @# v$ U
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第十三届党大会包括邓小平和陈云在内的中共八名元老有七名引退,只有政治局委员杨尚昆获选连任,这是邓小平迈向实现很早就主张的废止终身制和干部新陈代谢的一步。* G2 [$ N* D# f- n, o- }( ^# O% B

) H+ \2 s, T; p1 V: ?6 g5 A$ d邓小平早在一九八零年接受义大利记者访问就强调废止终身制的必要性,八二年设立老干部退休制度,同年九月的第十二届党大会新设由老干部组成的中央顾问委员会,但是老人统治并未改变,政治局员二十五人中只有一人未满六十岁,政治局常委六人中,只有胡耀邦和赵紫阳未满七十岁。
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胡耀邦的智囊吴江在著作中指出,中共在邓小平主导下于一九八六年开始检讨领导人年轻化等改治制度改革。赵紫阳曾在一九九五年十二月接受新华社记者杨继绳访问时透露,一九八六年二月,胡耀邦拜访他,传邓小平指出,「(我)将于十三届党大会辞去政治局常委和顾问委会主任,你也辞去党总书记来接顾问委会主任。」胡向赵接著指出,若是如此,将可带动大批老同志退休。( i( z/ K& |7 N* |3 w& W7 b

' P5 p/ I+ M0 C2 y7 kcsuchen.de邓小平在十三届党大会率先辞退中央委员,其他元老追随而实现大幅年轻化,邓氏只留任中央军事委员会主席,新的政治局常委是赵紫阳、李鹏、乔石、胡启立和姚依林,除赵紫阳以外都是新任。邓小平曾提议让积极改革派的万里和田纪云也成为常委,但遭保守派反对而作罢。后来在处理天安门学生示威,赵和胡是柔软派,李和姚是强硬派,乔石则是中立派,反映出政治局常委人事是保守革新两派妥协的产物。
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由邓力群的落选显示,若在改革派大优势之下进行投票选出政治局常委的话,姑且不论被内定为下任总理的李鹏,七十岁的姚依林势将落选,如此一来将引起保守派的反弹而对改革造成妨碍,八十三岁的邓小平把「富强中国」的梦想寄托在赵紫阳身上,为营造实行改革的环境而绞尽脑汁。

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; d; _0 ^: Z  L  t2 X, Q! x+ ]: e人在德国 社区【トウ小平秘録】(8)第1部 天安門事件 第13回党大会
" W) d* i0 R! C/ Hcsuchen.de「左王」と呼ばれ、胡耀邦(こようほう)総書記解任でも活躍した保守派理論家のトウ力群(りきぐん)・元党宣伝部長が、1987年秋の第13回党大会の中央委員選で落選したことは前回書いたが、中央顧問委員会常務委員選でも落選した。187票中85票しか得られない惨敗だった。
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! u9 [( _2 f1 ^) b; N1 ^5 mcsuchen.de改革へ深謀、トウ・趙合作
) G- [. T, \7 }$ D, o8 `9 c' h) p
: @6 X6 }# p8 C- p 対照的に、その年1月に党総書記を解任された胡耀邦氏は中央委員選で上位当選。党大会に続いて開かれた第1回中央委員会総会(1中総会)では、投票総数173のうち166票を得て政治局員に選ばれた。反対7票のうち1票は胡氏自身だった。人在德国 社区: @3 T% T# {7 T6 N8 Y1 W

, ~& @: d3 V1 N2 e$ e4 |3 {, f- x 党歴40年以上の長老で構成する中央顧問委員会(主任はトウ小平(しょうへい)氏。党大会後に陳雲(ちんうん)氏を後任に選出)さえ、「左」を支持しなかった。その屈辱を、トウ力群氏は2005年に香港で出版した回想録「十二個春秋」で「その晩はよく眠れなかった。数日間、気分は優れず、不公平だと感じた」と書く。csuchen.de# l4 L6 W4 y" }6 H

' G  a6 e! [" `人在德国 社区 トウ力群氏は、自分が指導していた中央書記処研究室が87年7月に解散させられたことなど、「趙紫陽(ちょうしよう)氏とその配下による引き落とし攻撃」を列挙。趙氏を「陰謀家」と決めつけ「その目的はトウ小平の支持なしには実現できなかった」と述べている。
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% ^! ?  M# I, X  [' ]& ] トウ力群氏の指摘は、トウ小平氏が大衆への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)全体を見渡したとき、重要な意味を持つ。13回党大会は、政治・経済両面で大胆な改革策を打ち出したが、それはトウ小平、趙紫陽両氏の合作だった。両氏の強い信頼関係が背景にあった。それがどう崩れたかが、天安門事件のポイントになるのである。csuchen.de& \5 X; j8 F) b/ C- {

% h  T6 j4 U5 n, Q人在德国 社区 党大会ではトウ小平、陳雲両氏以下、長老のほとんどが中央委員会から引退し、8大長老のうち再選されたのは楊尚昆(ようしょうこん)氏(政治局員)だけだった。トウ氏が早くから主張していた指導者終身制の廃止と幹部の若返り実現への一歩だった。' v: ~) W2 z$ Y: Q- x! L( m
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 トウ小平氏は80年8月、政治局拡大会議での演説で、毛沢東の晩年の過ちを、「一言堂(ワンマン)」や個人崇拝を生んだ制度の欠陥に帰し、その直後に会見したイタリアのオリアナ・ファラチ記者にも終身制廃止の必要を強調している(「トウ小平文選」第2巻)。& v" t3 M' _  j
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 その最初のステップとして82年2月、老幹部退職制度を設け、同年9月の12回党大会では、老幹部で構成する中央顧問委員会を新設したが、老人支配に変化はなかった。政治局員25人中、60歳未満は1人、政治局常務委員6人中では胡耀邦、趙紫陽両氏以外は70歳以上だった。7 w8 F1 F" f! y3 z, E

& J: E% \4 k9 c' c) C" t5 B ≪長老たちは引退せよ≫4 q% q3 @# S4 o8 a1 c& g4 w4 a

6 u) o- ^$ \1 V" V. A% D 胡耀邦氏のブレーンだった改革派の呉江(ごこう)氏は、香港で出版した「十年的路」で、1986年になって指導者の若返りなど政治制度改革の検討が本格化したとする。そのきっかけはトウ小平氏がつくった。
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# s' ^; P' y: g: ^, u: r+ `# l トウ氏は86年9月、米CBSテレビのインタビューにこう話す。csuchen.de( ?1 ~+ T5 _/ u) k7 T; x
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 「(80年に会見したイタリアの)ファラチ記者に85年までで引退するつもりだと話したが、1年超過してしまった。早く引退したいが、党内も人民も承知してくれない。来年の党大会で引退すべくみんなを説得中だ」
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 趙紫陽氏は95年12月に行った新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏とのインタビューで、こう明かしている。
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  n  I- O( J- x- X4 j, O; q 「86年2月、胡耀邦が訪ねてきて、トウ小平から『13回党大会で政治局常務委員と顧問委主任をやめる(中央軍事委主席には触れず)ので、君も総書記をやめて顧問委主任を引き継げ』といわれたと話した。そうすれば、大勢の老同志も引き連れ引退させられる、と」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)9 i2 r& q# \' E# c% a4 Q3 @- E
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 13回党大会ではトウ氏が率先して中央委員を辞退、他の長老たちも追随し、大幅な若返りが実現した。トウ氏は中央軍事委主席に留任、陳雲氏は顧問委主任、李先念(りせんねん)氏は全国政治協商会議主席、王震(おうしん)氏は国家副主席と、政治局員でも中央委員でもないヒラ党員が要職に就く変則的な「引退」だった。
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 新しい政治局常務委員は趙紫陽、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)、姚依林(よういりん)の5氏で、趙氏以外は新任だった。後に学生デモへの対応で趙、胡両氏の柔軟派と李、姚氏の強硬派、喬氏が中立と分かれたように、保革の妥協の産物だった。& D0 E5 y# T7 @  N* @& T7 s

1 V/ C3 }4 k& @6 A5 R 「楊書」によると、トウ小平氏は当初、積極改革派の万里(ばんり)、田紀雲(でんきうん)両氏も加えた7人制にすることを提案したが、保守派が難色を示し、断念したという。5 ?0 c: m/ _: B; l0 R- w2 ^
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 これについては田紀雲氏は04年6月、北京の炎黄春秋雑誌社の幹部との懇談で、こう話している。
: k* Z& F5 e$ u. I- b  t% K+ x# {6 r6 M
# ]) K2 W3 }, c. e- P 「トウ小平は大胆な構想を持ち出した。中央委員に投票させ、得票の多い順に7人を選んだらどうか、と。一部の長老が同意せず、小平は押し通さなかった」4 u( Q: m! |8 M/ y0 x% ]8 b9 A& |1 ^
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 トウ力群氏の落選が示すように、改革派大優勢の中で投票で決めたら、次期首相に内定していた李鵬氏はともかく、陳雲氏の弟子で70歳の姚依林氏は落選したに違いない。そうなれば、保守派は反発し、改革の妨げになりかねない。
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 トウ小平氏は「富強の中国」の夢を趙紫陽氏にかけ、改革実行の環境づくりに、83歳の力と知恵をふり絞っていた。(伊藤正)
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 【メモ】csuchen.de# w% L9 s4 z2 [( D- d# e5 P: b

) C+ E1 b' Q  N) |0 f 中国共産党の基本路線は5年に1度開かれる全国代表大会(党大会)で決定され、少なくとも年に1度開かれる中央委員会総会が具体的な政策と方針を決定、指導する。中央委総会閉会中は政治局および政治局常務委員会がその職権を代行し、党の最高機関となる。このシステムは、第13回党大会(1987年)以降定着した。) o1 \) a! T" m% M
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 中央規律検査委員会は党規違反や汚職などを摘発。中央軍事委員会主席はトウ小平氏以降、事実上の最高権力者のポストとみなされている。直属機関には中央宣伝部、中央組織部などがある。csuchen.de' ]9 O  `# @! Z6 n' A$ o, ]

( h9 o0 a  r9 ]4 S9 @/ P 中央顧問委員会は1982年、トウ小平氏が老齢化した革命第1世代の古参幹部を引退させるために発足させ、長老たちを受け入れた。最盛期には約200人の委員が就任し、党指導部に対して大きな影響力を与えたが、92年廃止。7 e2 o6 e. V6 }3 w  m  h

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% t9 W, z7 s$ T% B人在德国 社区csuchen.de6 U" T$ a* `% J. |2 F2 ^$ X8 M
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: B7 U9 U1 ?6 f1 J: G, K# x人在德国 社区1987年11月、北京・人民大会堂で行われた第13回中国共産党大会の開幕式に出席したトウ小平氏(前列中央)。向かって右は趙紫陽氏、左は陳雲氏

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邓小平改变了整个世界5 G5 ?! E  q8 [3 j+ r# Q- F3 G

( A, k& L2 ^3 U  C& Q英国《泰晤士报》驻京记者发自北京,题为《中国缅怀改变世界的人》
' c, y$ k1 w9 m) j上世纪70年代邓小平复出的时候,中国最高的建筑物是18层的北京饭店。如今,53层的京广中心高耸入云,而且,到了2008年,高330米的国际贸易中心将超越京广中心,成为北京最高的建筑物。要不是邓小平决心实行对外开放和透过进行经济改革摆脱贫困的话,中国的建筑物或许依然不会很高。
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  不过,尽管邓小平在改变中国的过程中起到了如此关键的作用,但对邓小平逝世10周年的纪念很可能会像他本人一样低调。今天是邓小平逝世10周年纪念日。 $ N1 }+ p% B9 u2 c
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  她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。  9 k4 l4 t" k7 G% `" H; b; }
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邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。”   c7 ?1 {6 ^/ ~7 g: ~

- w$ C1 Q6 D4 j; H5 N7 o: A  生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 9 p  y5 r' u3 U2 V( t

6 a& ~( [7 ?0 o0 g1 y, G( M1 t! U人在德国 社区  邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。
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/ o% ]  X7 S5 Q4 I  她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。
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  她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” 人在德国 社区# T' Q+ L6 x! ]# v$ p: w

4 G. y" H3 F; Y& O人在德国 社区  在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 csuchen.de' G8 {- J6 _. U

7 ^5 t6 W2 d0 h  [, Y, _; R  邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。
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* m1 C! }/ l( b* `( {- X人在德国 社区  香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。”
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  他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。
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  在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 csuchen.de# j( N* n8 U, c& Z
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  邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。

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2 ~5 u+ d* j9 P$ [# i) j5 L+ uChina honours man who reshaped worldcsuchen.de/ f% c; F9 X* q; m
When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. csuchen.de. u. }% s" U: b" Y: N% U/ A

. Y( u9 m- [6 h6 Y: l8 Q人在德国 社区China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms.
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But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. csuchen.de# n$ M+ g* \4 ^, t5 M

) ~6 Z; b: v! Z% e  i& F人在德国 社区His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school.
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“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.”
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: v; U% l1 w. F. B2 @csuchen.deMemorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point.
& T( A" w9 o6 v人在德国 社区
! R/ s+ z/ h' ^2 ^' t# W8 P人在德国 社区Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. csuchen.de2 |4 y+ x0 y, F4 m
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She said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.”
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Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right.
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Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. $ y) O5 m; r/ P6 x: E* ^1 f
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David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.”
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0 m) ?) q" `+ DHe understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back.
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Mr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.”
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) z0 N6 O; K6 K( A9 O6 _( r7 f人在德国 社区Ms Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. csuchen.de, F% u7 I- B4 l2 E- ~' |

* e- i' s* G- }+ y9 ZBut he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens.
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His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” 9 d$ t% n. G2 K0 k' E5 {# K0 Z' l

, P( u4 t& n- U& zLong road to riches
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Now
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6 r$ b5 D8 x/ U+ \1 ZPopulation in cities: 550 million
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: n6 E8 p5 k& `3 n! X2 O/ v人在德国 社区Gross domestic product: $10 trillion 人在德国 社区. F/ @7 F; Y5 Z' q: b

# z/ J  r' I( g6 v* Z9 Vcsuchen.deOil consumption: 6.5 million barrels a day
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Exports: $954 billion # |( D6 {/ o: a3 j! v6 {: f4 C

7 v' |7 n( s! F% e) O0 s- r# F人在德国 社区Population below the poverty line: 130 million
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* `, H4 R3 h% M: R( Z' U8 u% ATen years ago4 U0 R: P4 W- `+ X% h0 b) D$ `

; u6 o! C* i  o* |Population in cities: 370 million
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Gross domestic product: $4 trillion
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Oil consumption: 3.9 million barrels a day " o' w; c0 j7 l  N2 @, I3 j
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Exports: $182 billion
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. N5 l3 q. n9 ZPopulation below the poverty line: 120 million 人在德国 社区5 Z+ ?5 ^) U  \5 P7 G9 ?
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Sources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies人在德国 社区4 b  z2 {" S! e# o
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1 ~6 r' r' ~( P- b人在德国 社区“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。
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[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]

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邓小平秘录:赵紫阳认为中国需民主政治csuchen.de; o8 ^+ J9 D: D4 ]
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(中央社记者张芳明东京二十二日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳对于中国的政治改革,认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根,邓小平表示同意,只反对引进西方国家的三权分立,后来由于物价改革引发的风波,造成担任党总书记的赵紫阳失去实权。文中指出,赵紫阳担任党总书记时代的政治秘书鲍彤由于一九八九年天安门事件而系狱七年,出狱后曾向二零零四年十月在美国哥伦比亚大学召开的“赵紫阳与中国改革”研讨会提出文章,文中指出赵紫阳曾在政治局常务委员会上向与会者请教“何谓社会主义?”csuchen.de# ^1 n6 p$ [; w% f) H  o0 n$ G3 \

) c( s4 X7 r' j6 o7 D( O赵紫阳这项发言显然是针对保守派重镇陈云嫡系的副总理姚依林而发。他的发言受到以马克斯主义作为后盾的保守派干涉而表示不满,发言加以讽刺。
, h: f+ @; \; u+ m; e: }人在德国 社区
+ E4 q2 k9 F% \7 J. i' Ecsuchen.de赵紫阳由于一九七零年代后半在四川省农村改革展现实绩而于一九八零年被提拔为总理,他和邓小平在推动改放,保障人民衣食住丰足的看法相同,但两者在政治改革有微妙的不同。
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鲍彤在前述的文章中指出,邓小平曾于一九八六年询问赵紫阳对政治改革的看法。邓小平主张在党政分离、机构精简化和官僚主义等的改革只限于提高效率和增加生产作为目的,赵紫阳则认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根。csuchen.de; a9 X# ?/ P2 Z7 M

4 N; @  t1 K' M人在德国 社区鲍彤在文中指出,邓小平对赵紫阳表示同意,但是,加上一句话“不要有西方国家的三权分立。”赵紫阳在十三届党大会的政治报告加上邓小平的这句话,其余内容则完全未加以修改。
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9 T% r! v7 f' `' q( `6 D赵紫阳以邓小平的信赖作为后盾,全面推动改革开放,一九八八年三月召开的全国人民代表大会,就任总理的李鹏的活动报告内容清一色是改革开放,并提到物价改革的必要性。当时,中国有国家的统制价格和市场价格的双重物价制度,引起日增的不满,邓小平决定加以自由化。
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一九八八年五月,中国开始肉类等四种食品的价格自由化,结果引起抢购的现象,不过,邓小平还是示意推动。八月十五日至十七日,党政治局召开大会,完成有关“价格改革和工资改革初步案”,十六日赵紫阳还自信满满地对一个日本媒体代表团表示物价改革的决意。
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: U. E. D0 b2 r1 k1 O未料,十九日国营电视台播放政治局的决定后,全国出现抢购的情形及大量前往银行领取存款的举动,赵紫阳为此全面负起责任,在九月下中旬的党中央委员会大会把经济政策的权限交给李鹏总理和姚依林副总理,此事发生在他被选为党总书记还不到一年。
csuchen.de* h5 F$ \$ ?* ]" N0 w3 f* I

+ _+ o: `& Q, E- M( g( e【トウ小平秘録】(9)第1部 天安門事件 劉トウ路線 「社会主義とは何か」
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趙紫陽(ちょうしよう)氏の総書記時代の政治秘書だった鮑●元党中央政治体制改革研究室主任は天安門事件(第2次、1989年)後、刑事罰(懲役7年)を受けた唯一の党高官(中央委員)として知られる。釈放後しばらく沈黙を守っていたが、数年前から海外メディアなどに「真相」を語り始めた。
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7 C  b: v6 g( ]$ G7 {0 z! J% I 2004年10月、米コロンビア大学で開かれたシンポジウム「趙紫陽と中国改革」に寄せた文章で、趙氏について「分からないものは分からないと言う、徹底的な実事求是(事実に基づき真実を追究する)政治家だった」と、次のようなエピソードを明かしている。
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 「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年)
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8 h& d7 C3 o0 a: w+ T: v この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。人在德国 社区0 R/ n% P# X1 `" U. j4 ]' s
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 趙紫陽氏は70年代後半、四川省党第1書記時代に同省の農村改革で実績を上げ、80年に首相に抜擢(ばってき)された。それまではずっと地方におり、とりわけ前後二十数年に及んだ広東省時代に、趙氏の改革理念を形成する経験を積んでいる。その中にはこんな例がある。csuchen.de3 k% l# ?$ `, _, O2 e" z

; {2 L/ Y# Q2 Pcsuchen.de 中国が空前の食糧不足に陥った60年代初め、広東省の農民らが香港に不法越境する事件が相次いだ。英国政府の抗議を受けた中央政府が取り締まり強化を指示した。
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 しかし同省第1書記だった趙紫陽氏は、農民を食わせられない自分たちにも責任があるとして、香港から送り返されてきた越境者を処罰しなかった。そして農民の労働意欲を引き出すため、62年に「3自1包」と呼ばれた個人生産奨励策を積極的に推進、食糧危機を克服した(趙蔚「趙紫陽伝」中国新聞出版社=89年=による)。
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% v4 D4 J/ N  h3 Y( ]/ \csuchen.de この3自1包を打ち出した中心人物が、当時の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とトウ小平(しょうへい)総書記だった。66年からの文化大革命で、資本主義の道を歩む劉トウ路線と攻撃され、趙紫陽氏も批判されている。国民に衣食住を保障し、豊かにするのがなぜ悪いという考えこそ、トウ小平氏と趙氏の共通点だった。
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! c' U2 |. h9 O7 i) d" q* I* x7 r しかし、政治改革では両者には微妙な違いがあった。
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# m! p8 l9 g! J  j; Z2 a$ ^+ Ncsuchen.de ≪パニック買いが起きた≫2 c/ n* d# V5 _

8 D' g! [; @* Y ともに改革・開放を担ったトウ小平氏と趙紫陽氏の微妙な違いとは何か。
/ C' }/ ?$ w1 q6 Q0 h1 Y人在德国 社区
6 ?3 a% Y2 g* U+ V0 T) ]人在德国 社区 趙氏の政治秘書だった鮑●氏の先の文章によると、1986年に政治改革についてトウ小平氏が趙紫陽氏に考えをただしたことがあった。トウ氏は党政分離、機構の簡素化、官僚主義の克服などの改革を、効率を高め生産を向上させる目的に限定していたが、趙氏は国家の長期安定には、民主政治を確立し、文革再発の根を絶つ必要があると考えていた。
; k: S5 H8 e0 r8 p8 s人在德国 社区2 P/ f# w( m4 l9 W  R3 ?
 「トウ小平はそれに同意したが、一言付け加えた。『西側の三権分立はやるなよ』と。紫陽は(13回党大会の政治報告に)それを加えたが、それ以外は一切修正されなかった」(鮑氏), W- `0 r) k8 s3 c- d1 K
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 トウ小平氏の信頼をバックに、趙紫陽氏は改革・開放を全面的に進める。88年3月に開かれた全国人民代表大会(全人代=国会)で、首相に就任した李鵬(りほう)氏の活動報告は、改革・開放一色の内容だった。その中で李氏は価格改革の必要に触れていた。
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6 x: V3 ?* v9 F4 G& a6 q6 Ecsuchen.de 当時、中国国内では物価上昇への不満が募り、また「官倒」と呼ばれる官僚らのブローカー行為が社会問題になっていた。その要因は国家の統制価格と市場価格の2重価格制にあり、それを解消するため、トウ小平氏は価格の自由化を決断する。
* z& l  b8 E9 K7 g' W. ]6 m人在德国 社区csuchen.de. y/ Q5 h( D# Z* a
 5月に第1弾として肉類など食品4品目の価格が自由化されたが、人びとは買い占めや買いだめに走り、市場では商品不足と物価の急騰を招く。しかしトウ氏は、その月訪中した北朝鮮代表団に「通り抜けねばならない難関であり、危険を恐れず、大胆にやれと同志たちに告げた」と話した(「トウ小平文選」第3巻)。
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 当時は毎年夏、河北省の避暑地、北戴河に長老を含め指導者が集まり、重要な会議が開かれていた。その年の北戴河会議は物価問題で議論が沸騰した。8月15~17日に政治局の全体会議が開かれ、「価格改革と賃金改革に関する初歩案」がまとまる。
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0 o( b3 \# O7 P7 J# O/ ocsuchen.de その最中の16日、私も加わった共同通信代表団と会見した趙紫陽氏は「価格改革は断固やり通す」決意を表した。趙氏はリラックスし、満々たる自信をのぞかせていた印象が残る。
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8 V6 ~% W4 ]' Z$ M, Z+ |/ I8 V ところが19日に国営テレビが政治局の決定を放送したとたん、全国でパニック買いが起こり、銀行には預金引き出しの人びとが殺到する騒ぎになった。csuchen.de( `- a# m& x* d$ j* |

; J& p) w4 a$ F0 I+ [csuchen.de 趙紫陽氏はその全責任をかぶり、9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で、経済政策の権限を李鵬首相と姚依林副首相に引き渡す。それは趙氏の実権喪失を意味していた。総書記に選出された87年秋の13回党大会から1年もたっていなかった。(伊藤正)人在德国 社区$ r1 O1 }& r- ]' P* D, z
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5 b: a7 ]% u8 r! ]【用語解説】3自1包人在德国 社区( r2 J1 l; N5 c: {1 _5 f
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 自留地(農家に与えられた小規模の土地)、自由市場、損益の自己責任制と農家ごとの生産請負制のこと。集団所有の人民公社制度の下で労働意欲が減退し、深刻な食糧危機を招いた1961年、劉少奇氏らが打ち出した生産回復策。農民のやる気を引き出し、大きな効果を上げたが、文革で資本主義路線と批判された。! B% V6 \* d8 J7 j

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【用語解説】北戴河会議
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 北戴河は渤海湾に臨む河北省のリゾート。新中国発足後、新旧の指導者が毎夏、ここに静養をかねて長期滞在、重要課題について意見交換し方針を決める各種会議の総称。9月の中央委員会総会での正式決定に先立つ意見調整の場になった。89年は天安門事件で中止、胡錦濤政権は新型肺炎の影響で03年の会議を中止した後、04年以降も開かないと決定している。' v$ R6 A" X& y6 k3 X8 L) \' V' M
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●=彫の周が丹! ?5 {$ n) F8 L
1 Z  C' E; [8 j+ }2 T
(2007/02/22 )

dengzao.jpg (15.64 KB)

1987年秋、第13回党大会にトウ小平氏(左)と並んで出席した趙紫陽氏

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评说邓小平 难避六四和“先富起来”
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今年2月19日是中共领导人邓小平去世10周年,北京官方没有大张旗鼓地纪念,胡锦涛和温家宝也没有对邓去世十周年发表任何讲话和评论。csuchen.de! H3 M3 Z: q: k" m) L( J

" M; h# ~  W2 k% G3 mcsuchen.de邓小平一直被中共称为中国改革开放的总设计师。他的最著名的口号就是“让一部分人先富起来”;另一个无法回避的政治难题,就是六四的枪声。
( C' N# {2 h$ r5 H6 scsuchen.de*“让一部分人先富起来”是祸是福?3 ~5 _' @: M* B5 v
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美国之音报导称,邓小平当年的政治口号在今天已成立中共官方禁忌。邓小平在1970年代末推行中共经济改革政策的时候提出的一个最响亮、同时也是让现今的中共最高领导层感到最难堪的口号:“让一部分人先富起来”。7 [' j- `1 h+ P, o0 [1 O+ t

7 s: o3 j! ]! u- z将近30年过去,中国的公众普遍抱怨,邓小平所说的让一部分人先富起来,实际上是让大批执政党和政府当权者及其亲属通过强取豪夺富裕起来,中国大众则不得不承受住房难、上学难、就业难、看病难这些所谓的改革代价。
" r% R9 a' a& wcsuchen.de人在德国 社区4 m2 D! a# c4 h4 [
住在北京的中国工人网编辑严元章说:“谁富了呢?他们是通过勤劳的劳动致富的吗?我看很多老百姓不认可这一点。他们认为,那些人是通过权钱交易,通过自己的权力,通过权力腐败而获得的财富。”% c2 y" h$ x' z$ T7 W6 h3 d

0 O- S. E4 k& G4 e$ W' w5 p/ _人在德国 社区严元章说,这些年来,他多次到全国各地跟中国老百姓交谈,交谈中他反复听到的一个说法是,现今的共产党比1949年之前的国民党还腐败、还专制。中国迫切需要民主。) r! g3 m6 F9 f. |

1 J3 o) |8 |2 b9 ^; R1 ?4 c人们普遍认为,共产党的专权导致的腐败,是邓小平“让一步人先富起来”的经济改革政策给腐败官员大开方便之门的话题。
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3 N- ^2 e8 X5 J*六四血案 无法回避的话题" \+ }$ i/ h6 \1 J" b* i( j, |5 O
( A: @0 Q- R3 K8 _' r& L3 ^& R+ g
谈论邓小平的是非功过一个无法回避的话题是他在晚年下令出动解放军镇压学生民主运动,血溅天安门,这段历史至今是大陆政治上的最大伤口,虽过去已18年,仍不容任何人触碰。0 K3 m7 L- o* k) I4 G7 P# k

- b7 T' e4 ?3 z( R人在德国 社区前中国社会科学院政治学所所长严家其分析说,评价邓小平,躲不开对六四事件的评价。他说“我认为,对邓小平的否定主要是要否定他对六四的大屠杀。首先要把这个问题解决。当然两极分化、贫富分化的问题也要解决,但是,要用新的思路解决,不能简单地回到毛泽东的平均主义的老路上。”
3 ]: C, M' {( c1 j; mcsuchen.de, g* m$ E- \& D" o3 b% T7 u7 C3 T* [
中国网民在严酷的政治监控下无法公开发表评论,在大陆互联网一些论坛上可以看到许多被管理员删贴的痕迹,论坛上的发言区上面许多地方贴着一行字:“该用户发言已被管理员屏蔽”。2 U  m3 k6 X+ V
4 \: q% u8 b" V9 |4 u7 C
有一位网友巧妙地表达自己对邓小平镇压六四的看法:“如果非得说(邓小平留下)精神遗产的话,那就是我们对枪杆子出政权有深刻感受”。
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% o# v3 \5 R1 L( P6 O  O" i* O: A*改革开放的功过是非
+ Y/ |) d- ~$ h+ t9 l( Bcsuchen.de
. @6 p  F" r, g/ c( P中共一直称邓小平为中国改革开放的总设计师,有网民发表意见认为,“没有总设计师,80年代力主经改政改齐步走的胡、赵二位恐怕(会)将中国引向比现今更好的方向”。csuchen.de, j7 e& `6 U7 H) h

: k0 h& x3 m$ D/ f) }9 q( R“邓的改革,使得甚至是最穷困的山区农民也在生活上改变了在毛时代的悲惨命运。但是,他作出实用主义的努力,又使得中国人走上了另一个歧途,那就是物欲横流、道德败坏。”3 H* T8 F. H4 O3 Q6 o/ X

8 Q! x5 E, M( ?中国问题专家严家其对这个观点表示赞同。严家其认为,沿着胡耀邦和赵紫阳确定的经济改革和政治改革并行的路线走,中国的贫富分化问题、贪污腐败问题当然不会完全杜绝,但是绝对不会有今天这样严重。
, D0 S" v% G' J9 k: u" k! ?& L) P" F# `' B. H' {, ]
美国之音报导说,在美国的中国问题分析家认为,胡锦涛没有高调纪念邓小平逝世10周年的原因并非要否定邓小平的路线,而是试图在一定程度上从邓小平提倡的“让一部分人先富起来”倒退回毛泽东的“平均主义”。还有专家呼吁中国现任领导人客观全面评价邓小平的功过是非,为“六四”彻底平反,回到胡耀邦、赵紫阳倡导的经改与政改同步前进的道路上。
1 u) a$ Q6 Z! t
1 s/ t. i$ `6 u- \3 P日本产经新闻近日连载的“邓小平秘录”则披露了中共内部权斗的许多鲜为人知的史实。csuchen.de) q& S# n) N# q; U1 U
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2006年11月29日,山西省小青河(xiaoqinghe)煤矿,一个工人扛着煤走过毛、邓、江的宣传画前。

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改革风波造成赵紫阳地位动摇4 S7 V% [! e2 K+ ~6 A1 S

6 G' @5 |1 b* }+ |- [(中央社记者张芳明东京二十三日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八八年夏天,中国实施价格改革引起的风波造成党总书记赵紫阳的地位大为动摇,保守派展开把赵紫阳赶下台的行动。, u8 r2 O* H7 }9 H
, E' q- Q0 F  ^; w+ a( o6 c
文中指出,一九八八年夏天,中国在邓小平主导下的价格改革造成物价高涨,同年九月决定转换经济政策后,邓小平和赵紫阳之间开始出现隔阂。邓小平在接见外宾时指出,目前最重要的是整顿经济秩序,改革过急往往是错误的根源。五月曾表明大胆推动价格改革的邓小平变得宛如另外一人,显示物价改革发生的问题对他造成的冲击,反对改革的陈云提高了其存在感。+ c" [" w  U, i
当时的中国每次改革开放发生问题,保守派批评的箭头并非指向邓小平本人而是针对其“代理人”,邓小平也加入批评其“代理人”的行列,物价风波大大地动摇了赵紫阳的地位。
9 q/ n( X, ]" {% ]  w人在德国 社区
- f. V. J* Z4 ^# a6 R, l" E“邓小平年谱”(中央文献出版社)指出,邓氏从一九八八年九月以后,每个月三次左右和赵紫阳共同出席会议或参加活动,但是,十二月二十日一同和中央军委扩大会议出席者见面后到次年三月四日为止,两人约两个半月未有接触,这段空白期到底发生何事引起注意。csuchen.de1 _% t" N' ~: A5 n

1 f. d  M& @( U+ p人在德国 社区赵紫阳于一九九六年十月接受访问时曾指出,他在一九八八年曾前往邓小平家说明对新权威主义的看法,邓氏在当时提出方励之的问题。方励之以煽动学生示威的罪名遭党除名,成为一九八八年九月以后,保守派重拾发言权并加强思想控制的背景原因。十二月在北京召开的改革开放十周年学术研讨会始终由保守派主导,对此表示反弹的知识份子的行动也趋于热络。人在德国 社区3 ~* W8 p0 B9 B7 L; l

  W9 g! E$ [0 |1 ^: [人在德国 社区“邓小平年谱”未记载会谈内容的面谈包括一九八九年一月十日和总理李鹏的会谈,一月二十三日和二月十日则依次和全国政治协商会议主席李先念和国家主席杨尚昆的会谈,当时和李先念的会谈成为把赵紫阳赶下台的开始。
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人在德国 社区) u2 {5 d1 \9 P" w! I
【トウ小平秘録】(10)第1部 天安門事件 改革の盲点+ o7 s& n1 ], U, w* p: h+ `

8 ^/ G* D+ p4 L* R% n1988年夏、事実上の最高指導者であるトウ小平(しょうへい)氏の指示で断行した価格改革が物価急騰と高インフレを招き、9月に経済調整に転じた後、トウ氏と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の間にすき間風が吹きだす。「トウ小平年譜」(下巻、中央文献出版社)のトウ氏の発言からは、改革にブレーキをかけ、調整策に傾いていくのが読み取れる。人在德国 社区  b# ?: `% Q9 v% Y; ~$ W4 Z5 I

! L( O, Y$ Q1 [9 e人在德国 社区 「改革をやりつつ、環境を正し秩序を整えるのに賛成だ。インフレや物価上昇を抑えても、改革・開放を損なったり、経済を萎縮(いしゅく)させることはない」(9月12日、趙紫陽氏ら指導者への談話)* z& |+ W6 n; P, W  A2 F

- I* o8 n% E/ Z3 ?) ~' T人在德国 社区 「速度の速さは本来いいことだが、速すぎると面倒を起こす。インフレは主として厳格な管理を欠いた結果だ」(9月16日、自民党の二階堂進元副総裁との会見で)$ y% `0 s. M4 A: A* {8 j
6 u  o* L/ h4 w
 「われわれは現在、経済秩序の整頓を第1にしている。急ぎすぎは往々にして大きな過ちの元だ。しばらく前まで発展の速度が速すぎたのが、多分、(インフレの)原因だ」(10月5日、ケニアのモサ大統領に)
% I  [; J% r2 s: G3 G6 L+ tcsuchen.decsuchen.de2 ^, |  _( C# o" |4 \
 価格改革を大胆に進めよと言っていた5月ごろとは別人のようだった。トウ小平氏が最も嫌う「秩序の乱れ」「社会の混乱」が学生デモではなく、自ら発動した価格改革によって発生したことに衝撃を受けたに違いない。人在德国 社区% H8 K2 X$ S2 K4 e* ~; `
人在德国 社区& m6 w% {* K& F* y) D& v
 それは価格改革に反対していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任の存在感を増す結果になった。
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$ K' g' m- M, [4 ]+ ` 「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、陳氏は88年5月18日、姚依林(よういりん)副首相から価格と賃金の改革案について報告を受ける。
* w: P$ [* |- c- ^) h, u8 h人在德国 社区4 Q7 Z3 {7 h/ j0 h- ]& C; w! j3 s4 l0 q
 姚氏は、改革の結果、89年から5年間、物価は年10%上昇するが、賃金はそれ以上伸び、5年通算では物価は60~80%上昇、賃金は100%増になるとの試算を説明した。それに対し、陳雲氏はこう話す。
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5 w8 Y# |9 k- F+ C 「5年連続で物価が10%上昇するなんて、趙紫陽は大衆に向かって言う勇気があるのか。(姚氏が『言いますよ』と答えると)じゃあ賃金のない農民はどうなるんだ」
" N) Q+ {0 b2 r3 j! H. D8 t$ ?/ Y# i7 V2 }/ j3 }. _0 ?
 陳雲氏は同月28日には同じ保守派の李鵬(りほう)首相を呼び、この改革案に強く反対した。, Z( i- g% X( l7 ]7 K$ R

0 X$ p& R" w- O$ H 88年9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で経済調整への転換が決まったが、趙紫陽氏は一切自己批判せず、李鵬、姚依林両氏が意見を述べた後、一言付け加えた。: l/ W- j- f- w
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 「どうやらわれわれは事態を知るのに遅れ、対応が遅かったようだ」8 b4 z* o) N3 W% H
人在德国 社区: d* D8 J$ @. {/ k; M+ C, ?
 10月8日、陳雲氏は趙紫陽氏と会い、当面の経済活動について食糧問題、金融問題など8項目の意見を述べた。その冒頭、陳氏は「われわれ社会主義国が西側の市場経済に学ぶのは困難が多い。模索を続けるのはいいが、随時経験を総括せよ」と話した。2 b) J! R# ?  c- D

$ Y7 W# i, U4 k, a1 a3 G 「陳雲伝」は、それを「13回党大会以来の経済活動における趙氏の指導上の誤りを批判」と説明している。新華社の元高級記者、楊継縄氏は、香港で出版した自著「中国改革年代的政治闘争」で「トウ小平と陳雲の闘い」と喝破したが、トウ、陳両氏は直接対決をしたことはなかった。
0 b9 L6 n4 r8 B. N8 Rcsuchen.de
) Z8 J0 f& R& I! {& x  D 改革・開放の欠陥が生じる都度、保守派の批判の矛先はトウ氏本人ではなく、トウ氏の「代理人」に向けられ、トウ氏もまた「代理人」批判の列に加わるパターンが今回も繰り返されようとしていた。趙紫陽氏の地位が大きく揺らぎだしたのだ。
% I% U9 E; }; W+ n2 Qcsuchen.de
& o$ M$ q1 [0 A9 j ≪空白の2カ月半に何が≫
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+ p7 ?+ f% `1 p1 n5 Vcsuchen.de 「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は1988年9月以降も会議や行事などで、毎月3回ほどのペースで趙紫陽氏と行動を共にしている。ところが、同年12月20日に中央軍事委拡大会議の出席者と会見した際に同席した後、翌年3月4日に2人で会話するまでの2カ月半、趙氏との「接触」はなかった。
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. x% m  R4 _* ^ この間に何があったのか。
  y  s2 f, H7 \, y/ s人在德国 社区csuchen.de4 w( D" g- L( W$ ~' j  Y; t
 トウ小平年譜には、従来未公表だったトウ氏と個人が面談した事実も載っているが、会話の内容があるものとないものがある。89年3月4日の趙氏との会話は詳しい内容付きだが、それ以前に2人が最後に会話した88年11月28日は、単に「トウ氏宅で会話」としかない。csuchen.de6 H+ V: S% @8 _1 E  V
) V$ j( R- F# S2 q
 趙紫陽氏は96年10月、楊継縄記者とのインタビューで、新権威主義についての質問に「88年にトウ小平の家でその説明をした」ことを明かしたが、トウ氏はその際、「(天文物理学者で民主派の)方励之(ほうれいし)の問題を出した」と答えている。それが11月28日の「会話」だったとみてよい。3 `3 y2 P* \+ X: y- @) O. a

0 V; {8 e4 o. x2 F& D) }6 F% Gcsuchen.de 新権威主義の原型である開発独裁を過渡的措置として認めるシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授と趙氏は88年9月に会談していた。方励之氏が香港の記者会見で、トウ氏一族を含む党幹部の腐敗を厳しく批判して間もないころでもあった。人在德国 社区+ q+ G, V. B2 F# m9 F" S

* V" H4 t( V) D, p1 n" ? 学生デモを扇動したとして党を除名された方氏の問題はすでに本連載の前半で書いたので繰り返さないが、同年9月以降、保守派が発言権を回復、思想締め付けが強まったことが背景にあった。12月に北京で開かれた改革・開放10周年の学術討論会は、保守派主導に終始、それに反発する知識人の活動が活発化していく。(この間の事情は高皋氏が台湾で出版した「後文革史」に詳しい)csuchen.de% H7 L8 v2 F5 v3 W6 A7 ^

7 j' g$ U5 g0 S人在德国 社区 トウ小平年譜には、会話内容のない「面談」が89年1月10日の李鵬(りほう)首相、同23日の李先念(りせんねん)全国政治協商会議主席、2月10日の楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と並んでいる。
$ Y" M; D6 D+ @7 k人在德国 社区
% @" ?1 i2 _! R1 R6 pcsuchen.de このうち、李先念氏との会話は、「趙紫陽降ろし」の始まりになった。(伊藤正)$ ?2 z$ t$ c6 W8 ?

$ C) H/ F2 r- `( n$ |# i$ ] ■新権威主義 強力な国家権力の下で安定を図り経済発展を進めること。80年代後半、経済学者の呉稼祥氏らが提唱。「開発独裁」と呼ばれた、かつての台湾、韓国などの発展モデルを参考にしたもので、趙紫陽氏周辺に賛同者が多かった半面、自由主義者の批判が相次いだ。88年に趙氏が説明した際、トウ小平氏は自分の考えと同じとしながら、「この表現は使うな」と述べたという。csuchen.de; ?, r0 b% y0 {7 {4 v# u
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(2007/02/23 07:54)

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1988年9月16日、北京・人民大会堂で自民党の二階堂進氏(左)を歓迎するトウ小平氏

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邓小平秘录:邓对赵紫阳发警语说中国不能乱csuchen.de" T0 @! \5 b$ Y- u( x+ o. g
(中央社记者杨明珠东京二十四日专电)- q2 T8 o1 X7 _! f/ D

) @/ D2 z5 m0 H4 k2 }1 e) }日本产经新闻正在连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年三月四日身为中央军委主席的邓小平与总书记赵紫阳会谈,其中提及「中国不能乱」一事,等于是邓给赵的警讯,这也成了邓、赵两人的最后对话,四十二天后改革派前总书记胡耀邦猝死,引发天安门事件悲剧。
$ x! E4 z$ N2 c& m6 C7 {( M# r3 i; l1 I0 X; U
秘录中提及,中国前外长钱其琛于二零零三年所出版的「外交十记」一书相当出色,其中透露了一九八九年天安门事件(第二次)之后的七月初时,美国总统特使史考克罗密访中国的内幕。文中指出,美国总统布希盼邓小平理解他所承受来自国会的压力,要求邓小平能软化强硬的姿态。
+ X: v; N" Q1 _9 H2 d. ccsuchen.de
0 h; Z+ l. D$ A6 o/ _4 M8 l7 N/ J但是邓小平直言,中华人民共和国的历史若加上抗美援朝的二十五年间,牺牲了两千万人的性命才好不容易获胜,中国的内政不容外人干涉,任何势力都无法取代中国共产党来领导中国。
0 R9 r- h5 ~4 z# M  R5 s. R# U. D! w1 h% X0 H2 N* x
产经刊载的秘录说,这是邓的绝对信念,与中国保守派元老看法相同,所以必须镇压足以危及一党独裁的要求自由化、民主化声浪。一九八八年秋天以后,改革派因不满赵紫阳失权而动作频频,共产党内于是开始出现将赵拉下台的动作。csuchen.de4 w  v5 d, F* |% Y. T: Y
csuchen.de4 t7 T* k1 k* p. v4 k+ r
秘录中提及,邓小平于八九年一月二十一日从北京出发赴上海,期间与政治协商会议主席李先念密谈。二零零四年出版的「邓小平年谱」写说邓、李于一月二十三日会谈,但未写出内容。秘录中说,邓停留在上海直至二月十六日,期间做了重大发表,亦即苏联共产党书记长戈巴契夫将于五月访中,此事对六四天安门事件具有决定性的影响。
7 {3 }0 J! j( l* D3 C( C, J. y2 N
秘录也指出,八九年二月二十六日邓小平与来访的美国总统布希会谈时,表明「压倒一切才能安定」,这也是后来上台的江泽民政权的口号。此事收录于一九九三年出版的「邓小平文选」第三卷,其中言及避免对毛泽东晚年的错误做过度的批评,因为否定毛泽东形同否定他所建立的共产党中国。
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秘录说,「邓小平年谱」写道当年三月四日邓小平将赵紫阳叫到自家会谈,「邓小平文选」也以「中国不能乱」为题收录,只是注中写的是「与中央责任同志的谈话」。
* B, s0 |6 S4 m9 V0 kcsuchen.de" }# N# j0 u; u/ l; u
秘录写道,邓小平是在对赵紫阳发出警语,告诉他说实施现代化也好、改革开放也好,最重要的是安定。邓小平说,中国不能乱,若三百六十五天搞示威,什么事都做不了,外资也不会进来。+ f( h6 v. e$ {4 A7 {) w" d
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秘录说,邓小平并非对赵紫阳完全失去信赖,但这番话却成了两人的最后对话,在这四十二天后,改革派的前总书记胡耀邦猝死,悲剧就此开始。

" A/ G# R6 J, y$ {# ^* P: `csuchen.de
' U1 M# Z: N+ d% Rcsuchen.de【トウ小平秘録】(11)第1部 天安門事件 最後の会話 1980年代以降の中国外交を担った銭其●(●=王へんに深のつくり)(せんきしん)元副首相が現役引退後の2003年に刊行した「外交十記」(世界知識出版社)は、内容の豊富さにおいて、元高官の回顧物では出色だ(以下、肩書は当時)。  K% w9 N% v" J$ f) W5 q5 U
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 その中で、天安門事件(第2次)直後の89年7月初め、スコウクロフト米大統領特使が極秘訪中した内幕が明かされている。ブッシュ大統領(現大統領の父親)は、対中制裁実施を要求する議会の圧力を受け、中国側に強硬姿勢を軟化させようと特使を派遣したのだ。  e. S6 }6 m; X/ N. z
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「中国は乱を許さない」
& N$ d5 V) r$ Q% X; \7月2日、スコウクロフト氏と会談したトウ小平(しょうへい)氏は、大統領が置かれた厳しい状況の説明を聞いた後、きっぱり言った。
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( c6 r3 |7 o1 h& [# I 「中華人民共和国の歴史は、中国共産党が人民を指導し22年間、抗米援朝を加えれば25年間戦争をし、2000万人以上の犠牲者を出してやっと勝ち取ったものだ。中国の内政にはいかなる外国人の干渉も許さない。中国ではいかなる勢力も中国共産党の指導にとって代わることはできない」& ]0 |8 r  G5 O! n4 {

) a) b9 @+ C0 p# Y0 ] 「共産党の中国」はトウ小平氏の絶対的信念であり、保守派長老との共通点でもあった。一党独裁を危うくする自由化や民主化要求を抑圧してきた理由だ。6 {$ c2 E8 }* A3 Z
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 88年秋以降、趙紫陽(ちょうしよう)総書記の失権に反発、改革派の活動が活発化する中で、趙氏降ろしの動きが始まる。csuchen.de6 a) R3 B1 ~% G, s9 p% I/ A
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 89年3月6日付の毎日新聞朝刊は1面トップで次のように報じた。
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 「北京の消息筋は5日、今年2月の春節期間中に上海で最高実力者、トウ小平・中央軍事委員会主席と李先念(りせんねん)・政治協商会議主席が秘密会談し、李主席が趙紫陽総書記の退陣を迫ったことを明らかにした。李氏は『趙総書記のやっているのは資本主義だ』『陳雲(ちんうん)顧問委主任の考えが正しい』と述べたが、トウ氏は不快感を示したという」8 `- l) n) U2 l5 l
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 私もしばらく後、ほぼ同じ情報を入手したが、トウ・李会談の事実さえ定かでなかった。それが04年に刊行された「トウ小平年譜」で確認された。
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! c4 X, R& X/ R8 F それによると、トウ氏は89年1月21日、専用列車で北京を離れ、22日上海に到着。春節を上海で過ごすのは例年のことだった。「年譜」には翌23日、「李先念と会話」とあるだけで、内容には触れていない。
3 Y! \% x/ G3 {# O- C& j/ V1 Q! F
! R: K" ?! Q) z; Wcsuchen.de 当時の取材よると、トウ小平氏は李先念氏が「長老の一致した意見」として要求した趙氏の解任に同意せず、「代えるべき適任者がいない」と擁護したという。李氏との意見対立も、趙氏擁護も公表には不適と判断されたと思われる。! `) Q8 ?6 M1 P
csuchen.de* ?" V7 s; ]( I2 F: x% H& p, m- f
 トウ氏は2月16日まで上海に滞在した。その間に、4カ月後の天安門事件(6月4日)の展開に決定的な影響を与える発表があった。. S$ {3 `8 I5 I9 e2 o- [) T

. S0 n. c; }, ?+ U" xcsuchen.de ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の5月訪中である。2月4日、トウ氏がシェワルナゼ外相と会談した後、やっと合意に達した重大事だった。
/ s! {1 C. Y- d6 u3 S) J8 [6 N9 F8 pcsuchen.de
0 B6 J1 u6 d3 w* _. W 「外交十記」は、82年3月のブレジネフ書記長のタシケント演説にトウ氏が着目し交渉が始まった経緯を詳述している。トウ氏の中ソ関係正常化への熱意は強烈で、ゴルバチョフ訪中による正常化を花道に、完全引退する考えを固めていた。% j; j( T% \* q! g8 @, `

# [+ \1 Z2 C; d; ? 89年1月初めに天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏が民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を要求する公開状を出して以来、知識人や学生の民主化要求の動きが強まったことや、訪中したブッシュ米大統領の夕食会に方氏夫妻が出席を阻止されたことは本連載の前半で書いた。csuchen.de$ ~8 [& E7 @  H" [  O% m( D$ Y

8 E/ P" |8 \) t# _8 j0 |5 b 夕食会のあった2月26日の午前、トウ小平氏はブッシュ氏と会談した。そこでのトウ氏の発言は、後の江沢民(こうたくみん)政権のスローガンになる「一切を圧倒するのは安定」とのタイトルで93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)に収められている。% Q; c/ ~8 H4 V" i. j5 g
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 その中でトウ氏は、毛沢東晩年の過ちへの「行き過ぎた批判」を戒めている。その理由は「このように偉大な歴史上の人物を否定することはわが国の重要な歴史を否定することを意味し、思想の混乱を生み、政治的不安定を招く」からだ。
; ^) T! S3 p' Y5 Y" Ycsuchen.de
$ w3 j# m+ ~$ z5 G3 S それはトウ氏の持論である。毛沢東を否定することは、毛がつくった「共産党の中国」、つまり一党独裁を否定することなのだ。しかし、毛沢東遺制の変革を目指す知識人たちは、批判の矛先をトウ氏にも向けていく。csuchen.de1 \2 M5 M$ I! N' ~. x% B2 g

4 }1 `/ p9 D! D: D 3月4日、トウ小平氏は自宅に趙紫陽氏を呼んで話す(「トウ小平年譜」)。「文選」には「中国は乱を許さず」のタイトルで収録されているが、注には「中央責任同志との談話」としている。
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 「現代化も改革・開放もカギは安定だ。ブッシュに話したが、一切を圧倒するのは安定の必要だ。安定を妨害するものにはすべて譲歩したり妥協したりしてはならない。中国は乱を許さないとの信号を発しろ」csuchen.de7 \3 w3 x* @& J' @6 ~
人在德国 社区# ]5 t6 L  p& x! O3 n3 H
 「違法デモを取り締まり、気ままにデモをするのを許すな。365日デモになれば何もやり遂げられない。外国の資金も来なくなってしまう」csuchen.de- F* W: k  F; B0 t, `
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 それは趙氏への警告だった。趙氏の改革派ブレーンたちの影響が知識人や学生のサロン活動を導いているとみられたからだ。トウ氏の趙氏への信頼が完全に失われたわけではなかったが、2人だけで会話したのは、この89年3月4日が最後になった。$ M$ ~) T6 ^4 a" o- S+ |0 ?- {

$ D, t& r4 K6 d/ [& F' b' h その42日後、改革派の胡耀邦(こようほう)前総書記が急死し、悲劇のドラマが始まる。(伊藤正)
4 o! D6 ]# c& O) N
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7 n" X/ W$ h' C! k- l  {: }9 Ecsuchen.de
1 x: M  G* [  R, @' O人在德国 社区
  r" s" \  g4 i+ [: Q【用語解説】抗米援朝
. h) {! x5 I) d: X2 Z" b人在德国 社区人在德国 社区0 m8 u+ g$ i( D. k3 a6 k: U
 1950年6月勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争の中国の呼称。米国に抵抗する北朝鮮を支援するという意味で、同年10月に中国軍が参戦、義勇軍を派遣すると同時に、反米・愛国意識を高揚する抗米援朝運動という大衆運動が組織されて以来、朝鮮戦争の呼称として定着した。現在でもよく使われる。朝鮮戦争は53年7月に休戦協定締結。
: ]: u- z4 g; L- D6 I人在德国 社区
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1988年12月、モスクワで会談する中国外相(当時)の銭其シン氏(左端)とソ連外相(同)のシェワルナゼ氏(右端)。中ソ関係正常化はトウ小平氏の長年の懸案だった

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茅台酒瓶问题成反革命开端
2 m# O2 [# z" z- Y' X8 ccsuchen.de(中央社记者张芳明东京二十五日专电)日本产经新闻今天连载中的“邓小平秘录”透露,一九八九年四月十七日由中国法政大学主导,为追悼胡耀邦而进行献花行动中的茅台酒瓶问题,被中共当局作为“反革命煽动”的开端;十八日晚上前往中南海要求与李鹏总理见面的学生和警卫发生冲突,成为天安门事件悲剧的序曲。. n/ Z' s- P# ?9 d, v. P0 ~

0 I- i6 i. |' c1 n( Ncsuchen.de文中指出,一九八九年四月十五日,前中共党总书记胡耀邦的死亡升高中国国内政治社会情势的不安,造成许多人预感可能引起某种骚动;但是,想必没有人会预测到后来会发展成为那么大规模的运动。
# O- u: O! X, X2 H; f胡耀邦去世第二天的十六日,北京大学出现大量的大字报,不过学生很少;但是,十七日中国法政大学职员学生发动追悼大会后情况为之一变。十七日下午,先是六、七百人迈向天安门广场,沿途市民加入行列;傍晚时广场上出现了四、五千人,大学生对人民英雄纪念碑献花并合唱革命歌后解散。
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这项示威行动后来被作为“反革命煽动”的开端,原因和当时在挂在祭祀英灵花圈下的茅台酒小瓶有关。中共有关当局指出,“小瓶”与“小平”同音,示威份子的行动是侮辱攻击最高领导人邓小平。
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9 h' {+ j/ U* M( k5 J1 i# @6 l十七日深夜,集合在北京大学“三角地”的近千名学生出发前往天安门广场,十八日凌晨四时左右抵达广场,途中,人民大学及清华大学的学生也加入而增至数千名;其中大多数在有关当局劝导后搭车回校,但是有近两百人留下,热烈讨论今后的对策。csuchen.de- f9 g. v7 b/ ]- E) }- Y

# O0 u, K1 }' v+ {7 D' B这些学生讨论的结果决定向中国人民代表大会常务委员会提出意见书,包括重新评价胡耀邦等七项要求。当时被选为学生代表的是后来成为学生运动最高领袖的北大学生王丹。王丹在十八日上午八时左右前往全人代常委会递交请愿书并要求见常委会高层,结果当天傍晚才由常务委员刘延东收下请愿书并表示将转送全人代。' c( Q  E7 K: t6 v

4 _  H- i" S2 p6 G1 }当时,各大学的示威队伍陆续抵达天安门广场,加上看热闹者,十八日晚上九时左右,集结在广场的人士近两万人。北京的动向也很快地影响其他地方,上海、天津和西安等十八日开始出现追悼胡耀邦的集会和示威游行,特别是西安出现学生和警察冲突的事件,北京则未出现混乱,示威的口号主要是追悼胡耀邦。& A% y; t8 v; Q) |
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十八日晚上十一时前发生的事件成为造成情况变化的最初事件。约两千名学生集结在中南海正门的新华门,要求和李鹏总理见面,并计划冲入,而和警卫发生冲突,响起天安门事件悲剧的序曲。

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' M/ `" ?0 x* N人在德国 社区【トウ小平秘録】(12)第1部 天安門事件 悲劇の序曲■マオタイ酒瓶が問題に
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 1989年4月15日、前総書記の胡耀邦(こようほう)政治局員(当時、肩書は以下同)が死去した当時、中国国内の政治・社会情勢は不安定さを増しており、改革派の胡氏の死が何らかの騒動の引き金になる予感は多くの人がしていた。しかし、あれほど急激に大規模な運動に発展すると予測した人はいなかったろう。7 m5 L7 x% f0 ?/ O5 H, D
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 胡氏死去翌日の16日夕、北京大学の壁新聞を見に行った。「三角地」広場の掲示板は壁新聞で覆われていたが、学生は少なく、取材する外国人記者ばかりが目立った。研究生(大学院生)の1人に「デモはやらないのか」と聞くと、意外な答えが返ってきた。人在德国 社区) R  U0 W1 o+ j' u1 t8 E- P

" B" J7 r' p$ f5 j 「やりたいんだが、難しそうだ。前夜から呼びかけてはいるんだが、本科生の多くは尻込みし、中にはわれわれに空き瓶を投げて抵抗する連中もいるんだ」
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# d) {# ]# I2 a/ T; ^" B! _ 当時の大学生は全国で1学年60万人前後、現在の10分の1ほどしかいないエリートだった。世の中は「向銭看」(金銭第1)に変わり、政治のにおいがする動きは敬遠する傾向が強かった。
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; Y! t3 J5 a1 P. H3 ?. e$ z% l' ` トウ小平(しょうへい)氏がこの年2月に訪中したブッシュ米大統領に「絶対的多数の学生は安定を支持している」と述べた通りだった。(このくだりは「トウ小平文選」にはあるが、「トウ小平年譜」では削除されている)3 n1 t7 q' K* o
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 それが翌17日に中国政法大学の職員、学生による追悼デモの後、一変する。デモを組織した1人、呉仁華(ごじんか)研究生はその経緯などを2004年に出版された「浴火重生」(明鏡出版社)で明かしている。
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 「胡耀邦の訃報(ふほう)に悲しむ若手教師の間に、天安門広場に献花する考えが生まれた。16日に花輪をつくり対聯(ついれん)(哀悼の対句を書いた掛け物)に『耀邦千古』(胡耀邦は永遠に)と書き、マオタイの小瓶をつるした。それを校門に飾り、『献花参加希望者は17日午後1時に校門に集合』との無記名の張り紙を出した」csuchen.de4 D& `4 k  h2 _% Z) x# t$ ~5 T0 e4 n

& l* d: P/ A8 P3 p 六、七百人が徒歩で天安門広場に向かう。「途中、インターナショナル(革命歌)を歌い、シュプレヒコールを続けたが、胡耀邦追悼と民主と法制を要求するスローガン以外は禁じた」という。沿道の市民らが列に加わり、5時ごろに広場に到着したときは四、五千人になっていた。1 A. I) u/ ~0 Z3 Y; w. m" V

; F  v  P1 X) L2 @; ~4 ?. T0 h+ V+ c# k 呉氏らはトラブルを回避するため、人民英雄記念碑への献花後、インターを合唱して解散する。後にこのデモは「反革命扇動」の発端とされる。「英霊を祭るため」花輪につるしたマオタイの小瓶が理由だった。小瓶は小平と同音で、トウ小平氏を侮辱、攻撃した、と。
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 「その夜遅く、北京大学構内28号楼付近で突然、食器などを打ち鳴らす音がし『デモに行こう』との叫び声が聞こえた。三角地に行くと、1000人ほどの学生が集まり、熱気であふれていた。28号楼の上階から巨大な対聯が下げられた。『中国魂』とあった」1 m0 \% B* E* W% {+ I
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 当時、北京大の博士課程研究生だった李進進(りしんしん)氏は、「浴火重生」に同大のデモ開始時の模様をこう書いている。' \( Y; o, k1 b. D% ^+ A+ n4 ~
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 北京大の1000人は真夜中に出発、天安門広場に到着したのは18日午前4時ごろだった。途中、人民大、清華大の学生も合流、数千人の規模になっていたが、大半はほどなく当局側が用意したバスで順次帰校した。- q8 k9 Q% F- G( _3 S4 z/ H( `

9 W' A% m8 K: _  H1 |7 c2 c* @- z$ q$ J人在德国 社区 しかし200人ほどの学生や研究生は残って、今後の対応をめぐり熱心な討論を続けた。その結果、全国人民代表大会(全人代)常務委員会に意見書を出すことになり、胡耀邦氏の再評価など7項目の要求がまとまる。csuchen.de5 F  ~* x" h0 x/ [$ J: ?
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 そのとき、学生代表に選ばれたのが、以後学生運動の最高指導者になる北京大生の王丹(おうたん)氏だった。王氏らは18日午前8時すぎ、人民大会堂に入り、全人代常務委事務局に請願書を手渡すと同時に、常務委指導者との面会を求めた。
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 面会が実現したのは18日夕だった。劉延東(りゅうえんとう)常務委員(現党中央統一戦線部長)は請願書を受け取り、「全人代に手渡す」と述べた。人在德国 社区! ~/ g4 M: [# s3 I- k; {4 ?% u& m
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 「それで一段落したと思った」と劉氏と面会した李進進氏は書く。しかしそうはならなかった。人在德国 社区$ L. J6 C, ^3 p5 J1 j+ S) v

% w7 J- y( G- ~8 _/ h" Acsuchen.de 天安門広場には続々各大学のデモ隊が押し寄せていた。やじ馬も加わり午後9時ごろには2万人近くに達し、人民英雄記念碑の台上は人でいっぱいになった。
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6 T( _! M2 U+ b) e. k人在德国 社区 北京の動きが地方に波及するのに時間はかからなかった。上海、天津、西安などで胡耀邦追悼の集会やデモが18日に始まる。特に西安では学生デモと警察との衝突事件も起こったが、北京では混乱はなく、スローガンも胡氏追悼が基調だった。
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 それが変わる最初の事件は18日午後11時前に発生する。約2000人の学生が中南海の正門である新華門に集合、李鵬(りほう)首相との面会を要求して突入を図り、警備側と衝突したのだ。悲劇の序曲が鳴りだした。(伊藤正)' U" Q  J& S/ N% A8 U2 }- C

. W" a' }8 w% A* ? ■7項目要求 (1)胡耀邦の政治成績の公正な評価(2)「反精神汚染」「反自由化」運動の否定(3)国家指導者とその子女の資産公開(4)民間新聞の発行許可、報道禁止の解除、新聞法の制定(5)教育予算増と知識分子の待遇改善(6)デモ規制を定めた北京市条例の廃止(7)今回の活動の公開報道(要旨)7 i, m- q1 }  [; e

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1989年4月17日、胡耀邦氏の追悼のため、北京・天安門広場の人民英雄記念碑に花輪などをささげる大学生ら

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邓小平秘录:赵紫阳对学运乐观未防备保守派
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* f+ F9 ]! k  m6 u; ~( C/ t 日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,胡耀邦去世后学生发动示威,中共当局很快就加强警戒,并进行打击,相对地,前党总书记赵紫阳却对事态发展不可解地乐观,未防备保守派的攻击。csuchen.de% e! Y% n1 q% N3 S! S1 V9 U5 p
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     文中指出,中共前党总书记胡耀邦死后的一九八九年四月十八日深夜,大陆学生前往新华门要求和当时的总理李鹏见面而静坐至十九日早上,并企图闯门,是造成追悼胡耀邦行动出现显著变化的开始。十九日上午静坐者虽一度解散,但随后再次集合,到二十日凌晨和警卫持续小冲突。
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     根据后来中国记者发表的著作显示,十九日晚上有十万人聚集天安门广场,虽尚未直接批评中共当局,但以要求民主化和扑灭腐败等进行间接的批评,学生的这种活动被视为由追悼胡耀邦转为批评中共领导者。csuchen.de& C: k2 _; E% n1 }

, Q# A( _! _  W3 X. E9 M     两天前的十七日傍晚,人民日报社长钱李仁参加中南海会议后回报社指示,中共当局决定胡耀邦的葬礼,二十一日举行十万人出席的告别式,二十二日举行四千人出席的追悼大会。但是,晚上九时,钱李仁电话报社指出,中共上层最高指示决定取消二十一日的告别式。0 u5 ^; p1 }4 s) V, s

$ q. R; _+ o* K' ~csuchen.de     十八日,政治局常务委员乔石在中南海会议上指出,少数人引发骚动,要求警戒别有居心者在背后煽动,并指示不要报导街头运动,特别是不可刊登天安门广场的照片。共产主义青年团常务书记刘延东曾在会议问到二十一日何以取消告别式,乔石说明指出,并非正式决定。3 `2 `  }  p/ u8 w
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     十八日的会议上本来允许报导工作单位内的追悼活动,但十九日被通知禁止报导,并不可刊登胡耀邦生前的照片,显示出中共领导当局和大众对决的气氛越来越高,报导增加了困难度。csuchen.de. R, b! q/ ]9 ?! |4 g) D& I. P- x

6 N# @2 A7 F; `1 s( Scsuchen.de     二十日新华社发表专文,严厉谴责学生示威行动和新华门事件,充满杀气腾腾引起内外强烈反应的这篇专文并非新华社记者执笔而是来自外人,新华社上层表示事先并不知道。这篇专文造成新华社接到三百通以上的抗议电话,社内议论沸腾,谴责这篇歪曲事实不知羞耻的文章。被认为是李鹏指示的这篇文章的出处经过迄今不明。
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7 X2 b# u4 @+ w/ \! v- Z人在德国 社区     这篇文章不仅造成学生要求报导的自由,并引起学生的愤怒而扩大示威运动,四月二十六日人民日报社论的主调出自于此,成为后来发展成党中央分裂的起点。
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# s3 m; `( Z* `2 o1 S人在德国 社区     由天安门事件后中共当局的演说和文件可看出,学生示威运动一开始,就强烈警戒一部分想颠覆政权的别有居心者。保守派的李鹏等人察觉到学生运动可能导致要求让改革派的赵紫阳总书记恢复权限,因此拼命打击学生运动,相对地,赵紫阳却是令人不解地对事态乐观,没有防备。

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) l# K" V; v) ~( W【トウ小平秘録】(13)第1部 天安門事件 新華門事件1 d8 N+ t* i8 `& j& k% a2 R' f

8 u0 n; ?. a  B) |■下心ある者を警戒せよ
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1 X5 ~0 L# V1 s+ m7 P7 L0 V人在德国 社区 異変は、新華門事件から始まった。3 j4 {3 K2 `3 G5 P, f
人在德国 社区8 E9 W) k( w% p( {1 A% v( r+ d' A8 K
 1989年4月15日に死去した前総書記の胡耀邦(こようほう)氏に対する北京の大学生の追悼活動は、各大学ばらばらに組織され、街頭デモは当初は人数が少なく、参加者の多くはノンポリでひ弱な感じだった。歩き疲れ、取材の外国プレスの車に乗せてとせがむ学生が相次いだほどだ。
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 それが18日深夜に変わる。天安門広場の人民英雄記念碑周辺にいた2000人ほどの学生が、そこから600メートルほどの新華門に移動したのは午後11時ごろ。翌朝まで門前に座り込み、突入を試みるのだ。csuchen.de" W7 g  c+ g) ]% O1 Y" l7 b
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 いったんは解散するものの19日午前、再集合し、20日未明に警備側が実力行使して退散させるまで門前での小競り合いが続いた。
1 T# e0 ?3 j% d人在德国 社区
" ]/ g" Q, Z& Zcsuchen.de どのようにしてこの行動が起こったのか、関係者の証言はまちまちだが、その結果はすぐに表れた。人在德国 社区: ?7 P* c8 e7 r

6 [+ q2 k/ {: y% s7 a, H* Ucsuchen.de 当時、新華社高級記者だった楊継縄(ようけいじょう)氏は香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、また人民日報の副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は同じく「六四内部日記」(「陸書」)で、それぞれ学生運動開始以来つけていた日記を公開している。csuchen.de6 g0 S$ a; T+ D5 g6 w
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 楊氏はほぼ毎日、大学や天安門広場に足を運んでいたが、19日夜、広場には10万人もの人が集まり、学生たちの活動は「胡耀邦追悼から、指導者批判へと変わった」とする。
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2 ~+ a  P6 Q$ k) H まだ指導者を直接批判したスローガンはなく、民主化要求や腐敗撲滅など間接的だったが、学生たちは「報道」に当局の意思を感じていた。北京市党委員会の機関紙「北京日報」は19日、「学生、中南海に突入」の見出しで批判的に報じていたからだ。7 E8 x3 V- c( m; t6 `' W3 p. n3 r
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 党機関紙の人民日報と国営通信社の新華社は、党権力を守る「2本の棒」(鉄砲とペン)の1本として、権力機構の重要な位置にある(両社の社長は党中央委員で閣僚級)。人民日報の幹部だった陸氏は、当時の内部事情を克明に明かした。以下はそのさわりだ(肩書は当時)。csuchen.de  C4 [' d; J" w8 U

* }( X; u* U7 ^: i( _% S5 k, N* I, t 89年4月17日 夕刻、中南海の会議(喬石(きょうせき)政治局常務委員主宰)から戻った老銭(銭李仁(せんりじん)社長)が胡耀邦の葬儀に関する決定を伝達。「21日に10万人の告別式、22日に4000人の追悼大会」。午後9時、老銭から、21日の告別式は取り消しになったと電話。なぜと聞くと「最高指示だ」。人在德国 社区2 u( Q0 ~; T1 Z8 {5 y
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 4月18日 中南海の会議に老銭に代わり出席。喬石が「少数の者が騒ぎを起こし、下心のあるものが陰で扇動するのを警戒せよ」「街頭行動は報道せず、特に天安門広場の写真は報道してはならない」と指示。劉延東(りゅうえんとう)(共産主義青年団常務書記)が21日の告別式取り消しに疑問を提起したが、喬石は正式決定ではなかったと説明。
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' u  \4 \; _( p0 m. l# b 4月19日 前日の会議では単位(職場)内の追悼活動は報道可だったが、それも禁止との通達あり。胡耀邦の生前の写真も掲載不可になった。大衆の対決ムードがますます高まり、今後の発展に注意が必要だ。報道は困難を増すだろう。" J9 `, W3 v; `4 |6 O

/ o6 [* h/ y& u. n- M( E' B% X  Ycsuchen.de この2人のベテラン記者がそろって注目したのは20日に新華社が発狽オた「社会の安定擁護が当面の大局」と題し、学生デモや新華門事件を厳しく批判した評論員論文だ。1 c" T$ F* j2 p+ Q. D1 T, _
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 「陸書」は「殺気満々で内外に強烈な反応を起こした」論文の筆者は、新華社外の人物で、新華社指導部も事前には知らなかったとする。
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' R1 e9 [7 O9 F+ i 「楊書」によると、21日に300本以上の抗議電話があり、社内は議論が沸騰、事実を歪曲(わいきょく)した恥知らずの文章との非難が起こった。穆青(ぼくせい)社長も論文に意見があったが、「指導者も罵倒(ばとう)されている。新華社が罵倒されたぐらいで、それが何だ」と会議で発言したという。
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 全国のメディアに配信される新華社の記事の影響は大きかった。後に学生側と対決する袁木(えんぼく)国務院スポークスマンや曾建徽(そけんき)党中央宣伝部副部長は新華社出身で、同社への影響力を持っていたが、李鵬首相が指示したとされるこの論文が出た経緯は今も不明だ。
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, o, |$ f) y1 i$ M* s8 l; X人在德国 社区 この論文が重要なのは、学生たちの要求が「報道の自由」に向かう結果を招いたからだけではない。学生たちの怒りを買い、デモを拡大、党中央の分裂に発展する起点になった4月26日の人民日報社説の基調がここに出ていたからだ。
* V* \0 D- Q" c  tcsuchen.de
2 y: y: u3 L  D 天安門事件後の当局側の演説や文書からは、学生デモが始まるや、政権転覆を狙う「一部の下心のある者」への警戒心を強くもっていたことが分かる。その根拠は、背筋が寒くなるほど綿密な公安機関による監視活動の成果だった。人在德国 社区1 s' J  B/ x9 B" p% N( B
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 保守派の李鵬首相らは、学生運動が改革派の趙紫陽総書記の復権要求につながる可能性を察知し、運動つぶしに躍起になっていた。それに対し趙紫陽氏は不可解なほど事態を楽観し、無防備だった。(伊藤正)
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 ■新華門 中国政治の心臓部である中南海の正門で、メーンストリートの長安街に面している。天安門からは約500メートル西に位置。門正面には「為人民服務」(人民に服務せよ)との毛沢東が書いた看板が掲げられている。! R8 ^- Y* u- w8 C  R2 R
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1989年5月9日、北京市内で「新聞(報道)界の良心を声援する」との横断幕を広げる学生たち

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邓小平秘录:中共掌握王丹与李淑娴「谋议」
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    日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,中共保守派在学生发动示威至爆发天安门事件期间都一直认为学生背后有黑手在操弄,计画颠覆社会主义政权;中共资料显示,公安当局严厉监视学生运动领袖王丹的行动,并掌握中共宣称的王丹与方励之夫人李淑娴之间的「谋议」。
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/ b/ @1 ]" w; i; K    连载文中指出,在一九八九年四月十八日示威学生与中共警卫冲突的新华门事件后,中共保守派元老对学生极为愤怒,他们的不满传至最高领导人邓小平的耳内,邓氏虽告诉当时的总书记赵紫阳将出席胡耀邦的追悼大会,但视情势变化有可能缺席。结果,邓小平后来现身二十二日上午在北京人民大会堂举行的追悼大会。
8 G- C, g8 s- P& c7 Z0 ?csuchen.de
) l5 D! o0 G& e9 I0 ~+ F    中共保守派在学生展开示威运动后至六月四日的天安门事件期间,都一贯认为学生背后有黑手,有意利用学生来颠覆社会主义政权。但是,被指名为「黑手手下」的知识份子中有许多是在五月以后才参加运动的,而且是为了要求学生停止绝食抗议等行动,他们的行为和主张「有关当局捏造(不实指控)」大致是一致的。5 y' P* C8 [9 z
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    秘录指出,四月二十日,党政治局员宋平和副总理姚依林面谈时指出,过去数天的学生示威已有明显的征候,天文物理学者方励之的行动非常活跃,学生的背后有部分另有居心者在操弄。
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    文中接著指出,当天为止,方励之并未有与学生示威直接关联的行动,公安当局掌握的是方励之夫人、北京大学副教校李淑娴和北大历史系学生王丹「谋议」。
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    北京市党委会在天安门事件后发表的「制止动乱纪要」中指出,胡耀邦死后两天的十七日,李淑娴在北大和学生讨论,呼吁发动示威,示威组织的中心人物是王丹。王丹于十八日上午在天安门广场演说,拟订包括恢复胡耀邦名誉等七项要求交给中国人民代表大会事务局,这些要求是事前和李淑娴商量后才决定,且事后王丹和李淑娴还相互联络。
; u4 L: K/ G1 W2 C6 e人在德国 社区
/ l& o+ T' d) ]人在德国 社区    秘录指出,王丹和方励之夫妇的交情很深,包括一九八八年设立「民主沙龙」等,王丹受到方励之夫妇很强的影响。由「纪事」可看出,王丹受到有关当局很严厉的监视,但是,他并不在乎,继续发表演说呼吁示威、罢课和成立北京各大学的联合组织奔走,而成为学生运动的领袖。特别是二十日以后,随著大学之间的合作而提高保守派的警戒。/ y1 J; f- k* O  ?5 A  M

, j8 }* v% O# P: Y& O+ _: Y    赵紫阳和保守派相比则显得乐观。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳的改革同志田纪云副总理在二十日上午和赵氏见面,指出不仅北京,连地方都有不稳定的情势,建议将预定二十三日的北韩访问加以延期。  [/ k6 m) B' j5 `& C
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    赵紫阳回答表示,他虽曾考虑延期,但若改变日程,将会让外国怀疑国内政局不安定,因此决定照原定计画访问。赵氏于二十三日下午如期搭乘专用列车启程前往平壤,到三十日返国期间,中国国内情势已出现重大的变化。
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【トウ小平秘録】(14)第1部 天安門事件 追悼大会
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6 w8 _1 |+ z( p# r5 B 1989年4月22日午前10時、北京の人民大会堂で故胡耀邦(こようほう)氏の追悼大会が挙行された。トウ小平(しょうへい)氏はじめ党、政府、軍首脳や各界の代表ら4000人が参加、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席(肩書は当時、以下同)が司会し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が追悼演説をした。人在德国 社区. u  V3 s8 V8 L

* H! @! {' h; l) l4 S7 } 演説は胡氏を「偉大なプロレタリア革命家」と呼び業績をたたえたが、「偉大なマルクス主義者」は使わなかった。2年3カ月前の解任事件にも触れず、学生たちが要求する胡耀邦氏の名誉回復はなされなかった。「ブルジョア自由化」の罪状は重かったのだ。
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 北京市はその日午前4時以降、天安門広場への立ち入りを禁じていたが、学生たちは前夜から数万人が広場に入って座り込み、胡氏の遺体への告別を要求した。当局側が大会の実況放送を流すことで折り合ったが、胡氏のひつぎは学生たちの待ち受ける東門ではなく西南門から八宝山革命公墓に運ばれた。
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7 h: f3 I) `& o! x, E' i人在德国 社区 追悼大会に参加した人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は著書「六四内部日記」の22日のくだりにこう書いている。
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" t5 @( e4 Y( b, M 「(周恩来(しゅうおんらい)追悼大会に欠席した毛沢東のように)トウ小平同志は来ないと思っていたが、トウ小平は毛沢東ではなかった。夫人や子女たちも一緒で、とても上機嫌に見えた。が、大衆の間の声望は以前の高さには遠く及ばなくなっている」csuchen.de1 J7 B7 |/ R3 n

0 ?' x  u( g! @& W" s# C2 k トウ氏は、追悼大会出席の意思を趙紫陽氏に伝えていたが、その後の情勢急変から欠席する可能性があった。張良編著の「中国『六四』真相」(明鏡出版社、以下「真相」)によると、学生デモが拡大するきっかけとなった4月18日の新華門事件以降、保守派長老たちの怒りはすさまじく、その声はトウ氏の耳にも達していた。
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# J$ B( H! w6 p2 o- x2 s6 t 長老たちは「学生たちの背後に黒幕がいる」(彭真(ほうしん)前全人代委員長)「学生を利用する下心のある連中を暴くべきだ」(トウ穎超(えいちょう)前政治協商会議主席)などと、学生運動の背後関係に注目していた。姚依林(よういりん)副首相は20日、宋平(そうへい)政治局員にこう話している。
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* |6 V( y' u2 i" S# P- P0 N 「今度の騒ぎは一部のブルジョア自由化分子が早くからチャンスをうかがい、(社会主義政権転覆の)計画をあたためていたものだ。彼らは学生の愛国の熱情を利用している。ここ数日の動きから、学生デモが動乱に変じる可能性がある」csuchen.de) n5 p/ d: J- n0 C! g) \
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 これは、89年6月4日にクライマックスを迎える天安門事件の全過程で保守派側の一貫した認識だった。事件後に当局側が主張したように、社会主義政権転覆の陰謀はあったのだろうか。
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; I0 g) E) s. _  t8 ] 「黒い手先」と名指しされた知識人の多くが運動に参加するのは5月以降であり、それも学生たちにハンスト中止などを説得するためだった。知識人たちは「当局側のでっち上げ」との主張でほぼ一致している。
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: J" f% @6 T9 ?$ n+ A. ] この時の姚副首相との会話で宋平氏は「ここ数日の学生デモにははっきりした兆候がある。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)らの動きは非常に活発だ。学生の背後で一部の下心のある者が操っている」と述べている。# i! h% m% l+ B/ D, B) W/ [

/ H$ }/ J6 o. q$ f8 f' s/ n しかし4月20日の時点で方励之氏自身は学生デモに直接関与した動きはしていない。公安当局がキャッチしたのは、方氏夫人の李淑嫻(りしゅくかん)北京大助教授と同大歴史学部生、王丹(おうたん)氏との「謀議」だった。
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 北京市党委員会が事件後に出した「1989北京制止動乱平息暴乱紀事」(北京日報出版社、以下「紀事」)によると、胡耀邦氏が死去した2日後の17日、李女史は北京大で学生らと討論、デモを呼びかけた。デモ組織の中心になったのが王丹氏だった。csuchen.de7 P; X8 P% Q6 s

- X7 j9 e: G, E" l1 d! T8 O人在德国 社区 王氏は18日朝、天安門広場で演説、胡耀邦氏の名誉回復など7項目の要求をまとめ、全国人民代表大会事務局に手渡したが、その要求も事前に李氏と相談して決めてあったという。その後も王氏と李氏が連絡を取り合っていたことが「紀事」には列挙されている。2 i8 ]0 _: n6 e" |- y
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 王丹氏と方励之夫妻の関係は深く、88年に北京大の「民主サロン」を組織するなど、王氏は夫妻から強い影響を受けていた。王氏が厳しい監視下に置かれていたことが「紀事」から読み取れる。
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! j: b6 H5 U/ d* M4 t3 V9 Y8 icsuchen.de それには無頓着に王丹氏はデモを扇動する演説をし、授業ボイコットを呼びかけたり、北京の大学の連合組織結成を働きかけたりと休みなく動き、学生運動のリーダーになっていく。特に20日以降、大学間の連携が進みだすにつれ、保守派の警戒心が強まった。csuchen.de% F# V: d0 F6 T* W

  p+ ~; s3 ~! i  M人在德国 社区 それに比べ、趙紫陽氏は楽観的だった。「真相」によると、趙氏の改革の同志、田紀雲(でんきうん)副首相が20日午前、趙氏に会い、北京だけでなく各地が不穏な情勢にあると伝えて23日に予定されていた北朝鮮訪問を延期したらどうかと進言した。それに対し、趙氏は言う。
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 「延期を考えてはみたが、訪問日程を変更すれば、国内政局が不安定と外国から疑われかねない。計画通りにするよ」
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 趙紫陽氏は23日午後、専用列車で平壌に向かった。30日に帰国するまでの間に、国内情勢は大きく変わっていく。(伊藤正)
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【用語解説】八宝山革命公墓8 u; r  _% p7 y. K- r4 ?

. l4 F5 B8 J& {+ \7 o人在德国 社区 北京市の西郊外にある国立墓地。新中国になってから革命功労者を弔うため、明代創建の護国寺を改築し革命公墓と名称を変えた。指導者や高級幹部が眠る。1950年代に火葬が法令化された後、遺骨は納骨堂に置かれるようになった。火葬場を併設、胡耀邦氏もそこで荼毘(だび)に付された。
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3 U. o4 [: |: n(2007/02/27 08:08)

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