, p: l% w2 Q; n9 X1 A- { 胡氏の解任は、86年12月に安徽省合肥で始まった中国科学技術大学学生らの民主化要求デモに関し、「ブルジョア自由化を放任した」ことが直接的罪状にされた。背景には開明的な積極改革派の胡氏と保守派長老らとの確執があった。 & R Y8 k/ N. L, p3 d7 P# f, b1 d6 y* ? D) J7 ~6 |) P' W
当時、貴州省書記だった胡錦濤(こきんとう)氏は、部下に「(処分は)あまりに不公平だ」と語ったという(「亜州週刊」07年1月7日号)。 % [) M7 V5 i( \ 5 ~. V; C, ]# C% p% V そうした思いは学生や知識人の多くに共通していたが、解任に対する抗議行動は起こらなかった。後任に、改革派の趙紫陽(ちょうしょう)氏が選ばれたことも一因だった。 # [: M3 }; o# a# F9 B6 Y# r# i 6 M \ l" C @( ~9 y6 X4 J3 p- o 89年4月15日午前7時58分、その胡耀邦氏が死去した。8日の政治局会議中に心臓発作を起こし、入院先の北京病院での急死だった。「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したことを、当時「人民日報」副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は香港で06年に出版した「六四内部日記」(卓越文化出版社)に記している。1 e; g7 [/ @; b
- M/ d6 U0 b+ O# R; z+ K8 ^ 予感通りに事態は展開していく。 : W" e. R' [' | Q+ ~2 H! f2 r+ I & S" k( v4 j7 _+ A; l) b% i, | 訃報(ふほう)が伝わった15日夜には、北京大学など一部の大学に胡氏を追悼する壁新聞が張り出された。16日になると、壁新聞は少なくとも20大学に拡大、長老政治を批判など政治的内容のものも増えだした。天安門広場の人民英雄記念碑では花をささげて、胡氏を追悼する一般市民も現れた。 " L% l# M/ Y. o( l7 d3 O2 ?1 d; H. ~+ E' K& K! i! q* V6 w* F1 y
そして17日午後、中国政法大学学生らが天安門広場までデモをしたのを皮切りに、各大学が競ってデモを組織、規模が大きくなると同時に、その性格も胡耀邦追悼から、保守派攻撃へと転じていく。( k' O7 \' W9 g
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胡氏の急死は、指導者たちにも衝撃を与えた。2001年に刊行された張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、温家宝(おんかほう)中央弁公庁主任(現首相)から報告を受けた趙紫陽総書記は、政治局緊急会議を招集、訃告の内容や葬儀の手はずを整え、午後、トウ小平氏に報告に行った。トウ氏は既に訃報を知っていてかなり平静だったが、政治秘書の王家瑞(おうかずい)氏は後にこう語ったという。 U* B7 { f3 y Z+ g) I/ w/ s- [" z( `& j, U5 l" k# D8 Z' ?$ ~( d
「小平同志は耀邦同志の死を聞くと、吸っていたたばこを消し、両手の指を力なく胸の前で交差させたまま一言も発しなかった。しばらくしてまたたばこを手にし、猛然と吸い始めた」$ ]( y6 y. t& r
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胡氏の急死について、トウ小平氏は、その夜発表の訃告で胡氏を「長い試練を経た忠誠な共産主義戦士、偉大なプロレタリア革命家、党の卓越した指導者」と位置づけるとの趙氏の報告に同意、さらに22日の追悼大会に出席すると表明した。 6 c# k+ \7 M1 D3 { / z) j x# T) ? 胡氏の解任(87年1月)の理由が「ブルジョア自由化」だったことからすれば異例といえる扱いだった。/ K/ T6 P5 C/ {+ W! `! Q/ t% e; @+ d
$ P; s* |% Q7 E7 q 半世紀に及ぶ腹心であり右腕だった胡氏への同情もあったろうが、04年刊行の「トウ小平年譜」には、胡氏の死に関して「4月22日、人民大会堂で挙行された胡耀邦追悼大会に出席」としかなく、脚注で追悼期間中に北京などで学生デモや動乱が発生したと記されている。6 r* }% O( [% G4 d
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むしろトウ氏は「大衆の反応」を警戒したのだろう。76年1月、人望を集めた周恩来首相の追悼大会に毛沢東が出席せず、大衆の疑問を招いたことがある。周氏の追悼演説をしたトウ氏は失脚、同年3月末からの周氏の追悼活動が弾圧された、第1次天安門事件に発展した。, T2 s; }) Z% S! J! r
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「トウ氏に限らず指導者たちが76年の事件の再来を避けようとしたのは間違いない」と中国のベテラン記者は話す。76年は北京市民の極左4人組への反発が、周氏追悼の形で爆発したが、89年はそれよりはるかに強い反発を招く社会的条件があった。 R! d) Q2 B: Z$ M: f
: w7 K* E m H) T! `9 b+ l 天安門事件後に刊行された北京市党委員会弁公室編集の「1989北京制止動乱平息反革命暴乱紀事」によると、同市党委は4月15日午後7時、一部の大学と周辺区党委幹部を招集し、「少数の下心を持つ者の扇動を警戒せよ」と指示したという。1 M4 t8 q o+ p: G* Y0 n
2 I' W% I* d# m: L2 P8 Y" S1 G さまざまな立場の人が胡氏死去に不穏な予感を持っていた。学生のデモが始まると予感は現実に変わり、悲劇へと向かっていった。5 H: e, A, J! ^' X
4 [2 V( T m& @6 N: u" l+ M その経緯を追う前に、事件の背景をみていきたい。 ! O: J! _9 R. M7 G+ u7 L. `- [6 ]) A- J. k" R* V$ m
(中国総局長 伊藤正); B4 B* v W2 Y: B1 A. t! F5 G
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◇ 3 @6 a' c* P7 X y& r7 B f : ?, M. \' P3 P6 Z w( u8 Z【用語解説】8大長老1 q: L4 l2 `6 v6 q
# M, y+ b7 r9 {$ f k トウ小平・中央軍事委員会主席▽陳雲・中央顧問委員会主任▽楊尚昆・国家主席▽薄一波・中央顧委副主任▽彭真・前全人代常務委員長▽李先念・全国政治協商会議主席▽王震・国家副主席▽トウ穎超・前全国政治協商会議主席(周恩来元首相夫人)-の8人。いずれも革命第1世代の共産党幹部で、党内で大きな発言力をもっていた(肩書きは89年6月当時) ' ~$ M; X8 w, D" k& ~2 y& ~0 [5 Z# | 4 T; x( F4 U5 O5 O J, }5 _( \(2007/02/16 07:48)3 p2 z' `% O# t( b3 U
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1985年6月、中国共産党中央軍事委員会拡大会議に出席したトウ小平氏(左)と胡耀邦・党総書記(当時)
邓小平秘录:方励之公开信引发保守改革对决8 J6 o' m% y) v! l) H) l
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日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导指出,一九七九年三月魏京生遭逮捕事件对邓小平具有特别的意义,胡耀邦曾要求不要对魏京生处以十五年重刑,但未被邓小平接受,方励之要求释放魏京生激怒邓小平,使中国发展形成保守派和改革派的对决。 ! U+ m' y# |+ t5 {, C( B" @% e3 V/ B% e W# G- Z3 F1 o. E
文中指出,邓小平时代的重要特征之一是遭文革迫害者占据中枢要位,批评毛泽东时代的错误,由文革路线转为改革开放路线,邓氏为夺权有必要打倒毛泽东谬论。在理论斗争中最活跃的是胡耀邦,知识份子在一九七六年第一次天安门事件时不是系狱就是毫无力量,但在一九八九年的第二次天安门事件则扮演重要一环。 4 ?/ V( l2 S; {& s6 h , u8 @7 T/ w, P4 a( x9 j V, k- C 一九八六年十二月,天文物理学者方励之由于煽动合肥学生示威罪名而遭党除名,但他仍继续推动民主运动,一九八九年一月发表公开信要求释放魏京生,这项要求激怒邓小平,次年二月老布希总统访中时,中方阻止应邀参加的方励之出席,原因是魏京生事件对邓氏来说具有特别的意义。 , P5 w9 e9 }' n) i9 y0 u! O0 i: C5 B. ~1 \) g1 v6 w" S s
胡耀邦在一九七八年开始攻击毛派理论后赢得年轻一代强烈支持,发展成为要求民主化的大字报运动,邓小平最先是支持大字报,但魏京生将指责箭头指向邓氏后遭邓氏下令逮捕。秘录引述目前住在台湾的胡耀邦前智囊之一的阮铭的发言指出,魏京生被捕时,胡耀邦并未希望重罚,一听到判刑十五年的消息后大吃一惊而追问邓氏,但由于量刑是由邓氏决定,胡氏毫无办法。# f* b6 k9 r% b/ }/ ^" O, l" s4 S. F
# G1 o- Y& G- r+ @$ g f 邓小平政治论理精髓的「四项基本原则」是在魏京生被捕的同时发表,核心是「党的领导」,亦即坚持一党独裁体制,攻击邓小平是「新独裁者」的魏京生也可说是导致邓氏「四项基本原则」的产生。4 O" s5 _9 x1 i9 h" h
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方励之的公开信刺激改革派知识份子,要求释放政治犯和民主化的公开信接二连三出现,而在此之前,令知识份子提高警觉的是电影纪录片「河殇」问题。这部作品揭发中华文明的封建制和黑暗面,要求改革,六月中旬在国营电视台放映,引起很大回响,但进入七月,开始出现反弹,党宣传部虽驳回再放映申请,但赵紫阳大力称赞作品,默认上海等地方电视台的放映。 / \1 ^# S4 c( J8 d6 ^% P3 _( k, @; a
赵紫阳的作法激怒保守派元老国家副主席王震,大骂前者,九月以后攻击更趋激烈。中国的文艺作品常成为论争的火种,政争的工具,河殇问题升高知识份子的危机意识,发展成为对政权的批判,方励之的公开信则成为保守和改革对决的导火线。 j! a/ X5 U6 q
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中央社 / B, J a7 t+ H- a) ~% }+ a/ h2 o ) C( M: R! d# j4 | k. N4 q . [6 x' }" T# I6 V : Y; i7 s3 e8 {( ?6 O4 d* S v( u0 y/ N5 P
【トウ小平秘録】(4)第1部 天安門事件 魏京生事件 ) ~0 ]" d6 J% ^' S5 N) Xトウ小平(しょうへい)時代の重要な特徴の一つは、トウ氏自身をはじめ権力の中枢を文化大革命の被害者が占めたことにあった。その結果、毛沢東時代の誤りを批判し、文革路線から改革・開放路線へ転換することもできた。 ! t m) P/ t+ k, R ' A, w6 h# ^; T E j9 _2 [) G: p2 t0 J; s/ u
釈放要求公開状に激怒 0 f" V5 E- d! g1 U簡単だったわけではない。1976年9月に毛が死去した後、江青(こうせい)女史ら極左4人組を逮捕して誕生した華国鋒(かこくほう)政権は、毛路線の継承を掲げていたからだ。 X6 U0 O1 ^' p/ a トウ氏の権力奪取には、毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする「2つのすべて」派を打倒する必要があった。毛無謬(むびゅう)論は78年5月、「真理を検証する唯一の標準は実践である」キャンペーンを口火に打破され、同年末の党中央委総会(3中総会)でトウ氏の指導権が確立、改革・開放へ転換する。6 q( }6 _/ J j( @4 x% o7 i
: \2 N5 }0 W6 `4 G$ ` この理論闘争で大活躍したのが胡耀邦(こようほう)氏だった。胡氏は「思想の解放」を唱えてタブーを次々と破り、文化・芸術や報道を活性化させた。80年代、改革・開放が進み西側の文化や思想の影響が強まる中で、政治体制の改革を求める声が広がった。! J' `3 ]. H* Z# z( D5 F# ~
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第2次天安門事件(89年6月)と第1次天安門事件(76年4月)の違いは、76年には獄舎にいるか、骨抜きになっていた知識人が、89年には運動の一翼を担ったことだった。 , b* S: v, q5 u% \9 r/ o' ~9 O, k+ |9 s' v6 Q5 N
前回書いた、北京市党委員会が警戒した「一部の下心のある者」の多くは知識人だった。事件後、当局側から名指しされ批判された知識人は著名人だけで約50人に上る。その代表的人物は、86年12月の安徽省合肥の学生デモを扇動したとして、党を除名された天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏だった。 1 D* w% i$ X: A& Z" o6 S! w" q5 B8 f3 @3 |, T
方氏は李淑嫻(りしゅくかん)夫人とともに、除名後も精力的に民主運動を続けた。北京大学の「民主サロン」や、北京初の民営書店、都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」の設立に参加、知識人と学生の交流を促していた。 2 `8 [+ l9 f1 o) N/ s4 y 1 {- L+ s' P: C2 l9 _- b 私が88年12月に北京の自宅に方氏を訪ねたときも意気軒高で、トウ氏らを痛烈に批判、民主化は必ず実現すると話していた。それから間もない89年1月初め、方氏は行動に出る。服役中の民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を求めるトウ氏あての公開状を発表したのだ。" V a( @$ M; c& s2 k
7 x1 O+ G5 S f4 G8 d7 T3 | 方氏の要求にトウ小平氏は激怒した。それは翌2月に訪中したブッシュ米大統領(現ブッシュ大統領の父親)主催の夕食会に、招待された方励之夫妻が公安当局に出席を阻止される異例の事態になって表れた。魏京生事件は、トウ氏にとって特別な意味を持っていたからだ。 _" A# ?3 d+ t" I* B7 K( _1 u
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攻撃の矛先 民主運動へ : Y5 p! [- {0 u9 D 胡耀邦氏が1978年に開始した(毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする)「2つのすべて」派への攻撃は、青年層の強い支持を受け、民主化要求の壁新聞運動に発展した。それは同年末の党中央委総会(3中総会)で改革派を勝利に導く「院外活動」の要素があり、トウ小平氏も当初は壁新聞を支持していた。 8 k) a# P; X' d* [* F) B ところが、当時、過激な文章を次々に発表していた魏京生氏がトウ氏に批判の矢を向けると、トウ氏は逮捕を指示する。 * B+ Y5 g- l8 n" N4 U # B; W9 n: X# Y 当時、胡耀邦氏のブレーンで、毛派との理論闘争に活躍した阮銘(げんめい)氏(台湾在住)は、魏京生事件について、産経新聞の取材にこう話している。+ K1 r" i" S, \# p# W
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「魏京生逮捕後、胡耀邦は厳罰は望んでいなかった。懲役15年の判決と聞いて驚き、胡に問いつめると、資料は直接、トウの元に行き、トウ小平自ら(量刑を)決めてしまったので、なすすべがなかったと言っていた」 # b6 u6 h) F5 H7 Z2 _# P7 e8 J: L' F* t# G& L4 P/ r: L' u) Q
トウ小平氏の政治理論の神髄である「4つの基本原則」は、魏京生氏逮捕と時を同じくして打ち出された。トウ氏の言葉によれば、その核心は「党の指導」、つまり一党独裁体制の堅持にある。「独裁か民主か」と問い、トウ氏を「新たな独裁者」と攻撃した魏氏が、4原則を生んだともいえる。 z" q7 r* h% X6 h
, O+ d% e0 y5 Q1 u$ F1 L. a9 e 天文物理学者の方励之氏の公開状は、改革派知識人を刺激、政治犯釈放や民主化要求の公開状が相次ぐ。その背景には、前年秋、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が価格改革の失敗を理由に実権を失い、保守派の李鵬(りほう)首相らによる引き締めが強化されたことがあった。9 t( X1 k/ F. M' j9 t) I
U) I" | ~0 o o それより前、知識人が警戒心を持つ出来事があった。テレビドキュメンタリー「河殤(かしょう)」問題だ。9 i4 e `9 w. d, M$ \
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中華文明の封建制や暗黒面を描き、改革を訴えた作品(全6回)で、国営中央テレビが6月中旬に放映、大反響を呼んだ。 6 s0 {& s1 H4 Z' L0 p7 d* z# N0 ?1 |2 L
中国のメディアも絶賛したが、7月に入ると、風向きが変わり、批判が始まる。保守派の王忍之(おうにんし)氏が部長を務める党宣伝部の指示で、再放映申請は却下されたが、趙紫陽氏は作品を絶賛、ビデオ作製を許可し、上海テレビなど地方局の放映を黙認した。6 G" {2 l% C1 L, v& Z
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これに激怒したのが保守派長老の王震(おうしん)国家副主席だった。王氏は「中華民族への侮辱」などと攻撃、趙紫陽氏を「総書記の資格がない」と罵倒(ばとう)した。王氏の趙氏攻撃は9月以降、さらに激しくなった。8 Y0 f X! W4 Z- z
% @+ y! q3 {& U5 d, n2 W中国では、文芸作品はしばしば論争の種、政争の道具になる。河殤問題は知識人層に危機意識を募らせ、政権批判へと発展した。そして方励之氏の公開状は、保革対決への導火線になるのだ。(伊藤正) : `5 f. M# _2 r6 O" q5 X
◇ + G) E( z1 E- r g【用語解説】文化大革命 8 G& M; D1 F- t* Y# c" d+ N! D 7 H% X1 v: } t0 |4 F- s7 Z, R2 g 1966年、毛沢東中国共産党主席の主導で始まった政治、思想、文化闘争。古い文化を破壊、理想社会を目指すとのスローガンを掲げて大衆を組織し、あおられた学生や労働者が古参幹部、知識人らを迫害する弊害を生んだ。毛死去(76年)に伴い終了。81年の党中央委総会で「災難をもたらした内乱」と位置づけられた。3 `$ r) r- z o4 t; x$ O4 W
; A: F+ @9 `; |% s' \) X+ M; D◇ 6 c( M' ]: {3 B7 v【用語解説】魏京生事件: e7 {. b9 r* C
% [9 t. L1 F. e 1978年秋、北京市西単を舞台にした民主運動の旗手、魏京生氏が79年3月に逮捕され、後に反革命扇動罪などで懲役15年の判決を受けた事件。壁新聞による極左攻撃が主流で、トウ小平派を援護したが、トウ氏が権力を握った後、魏氏は「毛沢東と同じ血にまみれた独裁者」と批判、トウ氏の怒りを買った。魏氏の逮捕で運動は下火になり、壁新聞もその後禁じられた。/ @! d) V6 R& o: L
9 j& y0 K4 ]& y' t) |" s3 R3 f
1989年2月、訪中した米大統領主催の宴への出席を中国当局に阻止され、北京市内の自宅で外国報道陣の取材に応じる方励之氏(右)と李淑嫻夫人 u; `8 r. X) T3 h
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[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-18 10:54 编辑 ]
邓小平秘录:保守派斗倒胡耀邦但未全面胜利" R. B; z# t9 T6 Z/ R
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; O8 l+ d: s# H 根据日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」,中国共产党保守派虽在一九八七年一月斗倒党总书记胡耀邦迫他下台,但由于邓小平让总理赵紫阳接下胡耀邦留下的空缺,保守派并未全面获得胜利,后来保守派和革新派升高对立,元老们决定设法把赵紫阳也搞下台。 9 b- m- r# ^1 V5 V+ X, r0 S5 @ Q t5 K. S6 {. h
文中指出,一九八七年一月中共高层在对胡耀邦进行斗争会议的「民主生活会」上,对胡以最严厉口吻最长时间的演讲展开攻击的是当时的保守派理论家,党中央书记邓力群。随胡耀邦之后,中央宣传部长朱厚泽也被解职,但是,由于邓小平选赵紫阳接任胡耀邦,保守派并未全面胜利。* i# u3 l' A( C5 f/ O' F
9 A. n8 c" x7 h8 c) v. I
当时传闻赵紫阳曾坚决拒绝就任代理党总书记,他于一九九五年十二月接受前新华社记者杨继绳的访问时表示,他真的不想成为总书记,希望(以总理身份)从事经济改革,但同时表示,他未坚持自己的意见是由于认为在当时的情况下,只有他是比其他人较佳的继任人选。不过,曾是胡耀邦智囊的阮铭(目前住在台湾)和吴江则认为胡耀邦下台是赵紫阳搞的阴谋。 " d+ B) @/ p& e) v7 l7 |6 L w 7 h! @/ n T% E% U# P8 T' e! B 秘录指出,邓小平针对思想和文化面的问题是支持保守派,但并未让保守派担任要职,对邓氏来说,经济建设才是一切,因此需要的不是保守理论家,而是改革的务实家。6 {. \# H" y# G7 C+ n1 N* T( `7 g3 S
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担任代理党总书记的赵紫阳在同年十月召开的第十三届党大会的政治报告强调改革开放,主张全力提高生产力的必要性,和邓小平的想法完全一致。根据杨继绳的著作指出,保守派重镇陈云希望邓力群能担任总书记,王震察知陈云的意见而为有利邓力群展开活动。改革派的党中央组织部副部长李锐发觉此一动向而怀有危机感,遂和赵紫阳的秘书鲍彤商量,致函邓小平。& ?* x( P. l3 Q0 U0 W( P9 t
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李锐在信函中除指出邓力群是一贯反对改革开放的极左主义者之外,并暴露他在延安时代曾私通自己太太的恶行,反对邓力群担任中央的职务。邓小平经由赵紫阳获得此信后指示:一,解除邓力群的职务;二,让邓力群成为政治局后补委员;李锐不要对邓力群进行报复。 `, i! o# X$ e0 x6 |, B/ `- a+ {- i. V
在党大会前内定的新领导阶层草案中,邓力群原被列入政治局委员的名单内,成为候补委员是相当于降级,结果,党大会时,邓力群在中央委员选举落选,不要说是总书记,连政治局后补委员都未当上。陈云对此极为不满,大叫全都是李锐和鲍彤搞的鬼。第十三届党大会之后,保守派和改革派的裂缝加大,党元老们决定设法把赵紫阳搞下台。中央社 F) H& j/ Z& r. J2 E( F
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【トウ小平秘録】(7)第1部 天安門事件 暗闘 保守派の完勝ではない' h. }5 d4 O' Y& b3 B
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胡耀邦(こようほう)氏を弾劾した1987年1月の「民主生活会」で、最も厳しく最も長い演説をしたのは、保守派の論客、トウ力群(りきぐん)・党中央書記(当時=肩書は以下同)だった。トウ氏は回想録「十二個春秋」(以下「トウ書」)に、「3時間半かかった」演説全文(29ページ)を載せている。 $ U5 A3 F6 C% K) b7 }4 ^* m7 q , D/ p* n1 O- u1 P" _7 _ その中でトウ力群氏は、70年代末以来の自由化との闘争を詳述。「反精神汚染」などの運動後もブルジョア自由化が蔓延(まんえん)し続けたのは、胡氏が自由化を擁護したためと厳しく批判した。トウ氏は演説をこう締めくくる。 . V3 D/ f1 {1 I: I 7 d+ f" d0 p' d# v( @* Q 「耀邦同志が主導的、積極的に誤りを清算し、思想上の消極面を克服するよう心から望む。特に耀邦同志と同じ観点を持つ同志は、耀邦同志(が誤りを正すの)を助け、自らもそうするように」 $ {& G9 \; q( D8 j+ Y" z 8 f: q; z% I# m; h5 M8 x! W3 S 弟子に説教するような口調に、勝利感があふれる。それは陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記をボスにする保守派に共通する思いだったろう。過去に多数の「自由主義者」を血祭りに上げてきたが、ついに「頭目」を仕留めたのだ。8 \! t) h: D% H9 q* C8 p
+ P% Q8 P% e9 X/ Z 胡氏に続いて朱厚沢(しゅこうたく)中央宣伝部長も解任された。朱氏は85年に胡氏に呼ばれ、貴州省党書記から転任していた(後任は胡錦濤現国家主席)。2 `6 }9 A! K: k& C. C* O C
: q. U. s h. Z8 M かつて共産党内の改革派で、胡耀邦氏のブレーンだった阮銘(げんめい)氏(現在台湾在住)の著書「トウ小平帝国」によると、トウ力群氏は87年1月28日、後任部長の王忍之(おうにんし)氏を連れて宣伝部に行き、朱氏に引き合わせた。 6 x5 a6 e$ E: U' E: y( p8 h0 W# a 5 [ c" f, F1 D e4 M6 K 朱氏「1年余り仕事をしたが、その是非は、歴史が評価するだろう」. Z5 R- d% g/ b; n
& h. T. c+ I$ t1 M" z* ` トウ力群氏「歴史の評価を待つまでもない。今評価してやる。胡耀邦の失脚が結論だ」6 F9 v( z ?6 [& U, ^
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しかし保守派の「完全勝利」とはいかなかった。トウ小平氏が、胡氏の後任に趙紫陽(ちょうしよう)首相を選んだからだ。 3 f+ L! }' V( p4 c/ w4 M" s0 l4 b3 j+ x' @! V" a
元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は著書「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で「当時、陳雲がトウ力群を後任にするとの伝聞があったし、可能性もあった」とする。* H5 A" |0 ] W# h" X9 O' |# u/ P
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「トウ力群のマルクス主義理論の水準は高く、1975年のトウ小平批判運動のときの態度もよかった。子女に腐敗のうわさはなく、陳雲の思想にも忠誠だった。陳雲陣営からすれば、理想的な人選だった」(「楊書」) ; f% C+ m1 n* {( q1 u * Q0 k1 h: O* V) A% \ 一方、趙紫陽氏は総書記代行就任を固辞したと当時伝えられた。趙氏は95年12月、楊継縄氏のインタビューに「本当に総書記にはなりたくなかった。(首相として)経済改革をやっていきたかった」と述べ、さらにこう話している。 ! m i* n6 a/ Z+ _! V, W; F8 H. c3 ~ $ Z0 i; C3 Z0 V1 {) f 「自分の意見を押し通しはしなかった。当時の情勢下では、後任には私しかいなかったし、私の方が(他の人より)ましだろうと考えた」4 h+ D+ E$ ^% n
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それなら固辞しなきゃいいのに、と思えるが、そこは趙氏のしたたかなところで、後に長老らが問題にするある約束を取り付けていた。胡耀邦氏のブレーンだった呉江(ごこう)、阮銘両氏はいまも、胡氏解任について趙氏の陰謀説を唱えている。 ; u1 x2 y7 n: l* s8 }- B: k) p/ Z7 w' O g7 e5 n& l; l0 I
《ひっくり返った党人事》% s* [7 \0 x4 O" M' h9 m
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思想や文化分野で問題が生じる度、トウ小平氏は保守派を支持する一方、保守派を主要ポストに登用することはなかった。トウ氏にとって、経済建設こそがすべてで、それに必要なのは保守理論家ではなく、改革志向の実務家だったからだ。 # i. Z s. L. ` C& q+ Y8 L9 H2 k, F! y 2 E8 w( f7 `( ?7 G& S! x 保守派は、趙紫陽氏を新たな「標的」に巻き返しに出る。5 S+ _6 i7 q( I3 i- b3 [: ]+ h3 G
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5年に1度の党大会(第13回)が秋に迫っていた。施政方針を示す政治報告の起草段階で、保守派は反自由化の徹底を主張、それに対し趙氏は経済建設が中心と反論するなど暗闘が続いた。 : j/ G! R, L, b : d9 M- G! A5 d7 E" u/ r# f) U9 G 10月に開かれた13回党大会で、総書記代行の趙紫陽氏が行った政治報告は、改革・開放が基調になった。特に中国の社会主義を「初級段階」と規定、生産力の向上に全力を挙げる必要を説いた点が内外の注目を浴びた。それはトウ小平氏の考えと完全に一致していた。) e# U2 n% q! X$ ~
0 n8 ~ X* C4 n, Z# o 「楊書」によると、保守派の重鎮、陳雲氏はトウ力群氏の総書記就任に望みを寄せていた。その意を察し、王震(おうしん)中央顧問委副主任が多数派工作に動く。それを知り危機感を抱いた改革派の李鋭(りえい)中央組織部副部長は、趙紫陽秘書の鮑●(ほうとう)氏と相談、トウ小平氏あて書信を書く。 " U/ `) o/ h' A+ D" b* k# _9 O }: n6 ]5 j/ b
その中で李鋭氏は、力群氏が改革・開放に一貫して反対してきた極左主義であることなどに加え、延安時代に李氏の妻と密通した旧悪も暴露し、彼を中央の職務につけることに反対している。 4 v' D* k. g3 I$ b9 P& H 3 I; s8 V: q) U& v 趙紫陽氏経由で書信を受け取ったトウ小平氏は、(1)力群の職務を解く(2)政治局候補委員にする(3)李鋭同志は復讐(ふくしゅう)しないこと-と指示した。/ M6 V8 F) ^. x; ?
3 I/ x( l# o( c& r このうち(2)は、党大会前に内定した新指導部案で政治局員リストに入っていたトウ力群氏を候補委員に格下げするという意味だ。ところが、党大会でトウ力群氏は中央委員選挙で落選、総書記はおろか政治局候補委員にもなれなかった。 # {& f* a7 C& y8 T; |$ B8 ~; R4 v' d) A# g# U
陳雲氏はこれに強い不満を漏らし、「すべて李鋭と鮑トウが裏で画策した結果だ!」と叫んだという。13回党大会で、保革の亀裂は深まり、長老らは趙紫陽氏追い落としの決意を固めていく。(伊藤正) . g3 \ x- r. J1 B : {! U5 s" M. S6 b% \, K ■精神汚染 暴力やポルノなどを扱った小説、映画などの作品からディスコ、ジーンズ、パーマなどの風俗、さらには理論、学説まで欧米の影響を受けた現象のこと。83年から批判キャンペーンが展開されたが、トウ小平氏が84年初めに終息を指示した。理論界では人民日報副総編集長の王若水氏の「社会主義の疎外論」がトウ力群氏ら保守派からブルジョア自由化の影響と攻撃された。 7 k0 u: _3 {7 a& G( @7 O$ D& z9 K' J" @* \: w
■陳雲(1905~95年) 上海生まれ。25年に中国共産党に入党。中華人民共和国成立後、副首相として長年経済、財政政策を担当。文革中は一時失脚したが、78年に党副主席に就任、トウ小平氏と並ぶ指導者として80年代の中国政治に大きな影響力を発揮した。市場経済を鳥、計画経済を鳥籠にたとえ、鳥は鳥籠の中でのみ羽ばたかせるとの「鳥籠経済論」で有名。8 I! `" V, i" q7 L: z& V
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●=彫の周が丹 & \5 w8 O1 ~- m- C) T' { 3 K3 g4 [3 ^& @% n- w; a5 V- G5 D1 Y- y(2007/02/20 07:26)8 n7 ~' R/ `& |% p3 k% }; a) S# l
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邓小平秘录:邓和赵紫阳合作深谋改革 " ^$ i" \5 W! N# X2 _7 G. X% j; @(中央社记者张芳明东京二十一日专电)日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,邓小平和赵紫阳合作深谋改革,中国在政经面大胆改革是两人的合作,背后是两人的信赖关系,但是后来如何发生变化成为一九八九年天安门事件的重点所在。 . ]' _- ~) ~) M, c) c, i0 L/ ?; G7 K0 V% t9 N+ J, p8 W
文中指出,保守派理论家邓力群在一九八七年秋天的第十三届党大会不仅在中央委员选举落选,连中央顾问委员会常务委员选举也落选,相对地,一月被解任的胡耀邦则以高票当选中央委员并在随后的一中总会获选党政治局委员。) c. o5 o7 }4 _# P
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邓力群后来在回忆录中指摘赵紫阳是阴谋家,并指出赵紫阳的目的若没有邓小平的支持是无法实现,邓力群的指摘就整体看邓小平决定武力镇压民众的天安门事件具有重要的意义,中国在政经面大胆改革是邓小平和赵紫阳的合作,背后是两人的信赖关系,后来如何发生变化成为天安门事件的重点所在。0 N5 M# D4 a2 | X9 R
- a& u* n% \( n1 N* ~2 o/ L第十三届党大会包括邓小平和陈云在内的中共八名元老有七名引退,只有政治局委员杨尚昆获选连任,这是邓小平迈向实现很早就主张的废止终身制和干部新陈代谢的一步。9 e5 X0 j. U- ^7 h
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邓小平早在一九八零年接受义大利记者访问就强调废止终身制的必要性,八二年设立老干部退休制度,同年九月的第十二届党大会新设由老干部组成的中央顾问委员会,但是老人统治并未改变,政治局员二十五人中只有一人未满六十岁,政治局常委六人中,只有胡耀邦和赵紫阳未满七十岁。 ; i- ]3 @9 a5 V7 P4 r7 b+ |8 Z# m3 |# v0 L' X
胡耀邦的智囊吴江在著作中指出,中共在邓小平主导下于一九八六年开始检讨领导人年轻化等改治制度改革。赵紫阳曾在一九九五年十二月接受新华社记者杨继绳访问时透露,一九八六年二月,胡耀邦拜访他,传邓小平指出,「(我)将于十三届党大会辞去政治局常委和顾问委会主任,你也辞去党总书记来接顾问委会主任。」胡向赵接著指出,若是如此,将可带动大批老同志退休。# A( D2 l$ r, ?/ f+ B Y
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邓小平在十三届党大会率先辞退中央委员,其他元老追随而实现大幅年轻化,邓氏只留任中央军事委员会主席,新的政治局常委是赵紫阳、李鹏、乔石、胡启立和姚依林,除赵紫阳以外都是新任。邓小平曾提议让积极改革派的万里和田纪云也成为常委,但遭保守派反对而作罢。后来在处理天安门学生示威,赵和胡是柔软派,李和姚是强硬派,乔石则是中立派,反映出政治局常委人事是保守革新两派妥协的产物。 . V: t. ~8 |0 H/ g1 v; {: M2 }1 z6 H! P
由邓力群的落选显示,若在改革派大优势之下进行投票选出政治局常委的话,姑且不论被内定为下任总理的李鹏,七十岁的姚依林势将落选,如此一来将引起保守派的反弹而对改革造成妨碍,八十三岁的邓小平把「富强中国」的梦想寄托在赵紫阳身上,为营造实行改革的环境而绞尽脑汁。 ! ^: e$ O! _% n8 {8 e
% w4 p/ ]" p' V# X【トウ小平秘録】(8)第1部 天安門事件 第13回党大会 ) T7 ], C# g1 Q9 {& J$ b
「左王」と呼ばれ、胡耀邦(こようほう)総書記解任でも活躍した保守派理論家のトウ力群(りきぐん)・元党宣伝部長が、1987年秋の第13回党大会の中央委員選で落選したことは前回書いたが、中央顧問委員会常務委員選でも落選した。187票中85票しか得られない惨敗だった。0 l" c, s9 B9 T
" \% A6 u* l$ |6 c3 E& }9 m ( G5 T& v8 G$ |改革へ深謀、トウ・趙合作. m; T) v9 ?1 l2 J; n! ^3 L9 v
) W m+ A3 P# F# G" f 対照的に、その年1月に党総書記を解任された胡耀邦氏は中央委員選で上位当選。党大会に続いて開かれた第1回中央委員会総会(1中総会)では、投票総数173のうち166票を得て政治局員に選ばれた。反対7票のうち1票は胡氏自身だった。4 f4 f) k5 n) U) P
. k, U# g) a R# u* C 党歴40年以上の長老で構成する中央顧問委員会(主任はトウ小平(しょうへい)氏。党大会後に陳雲(ちんうん)氏を後任に選出)さえ、「左」を支持しなかった。その屈辱を、トウ力群氏は2005年に香港で出版した回想録「十二個春秋」で「その晩はよく眠れなかった。数日間、気分は優れず、不公平だと感じた」と書く。 6 U2 f0 K* i4 j* U2 P . {; P5 p' Y s トウ力群氏は、自分が指導していた中央書記処研究室が87年7月に解散させられたことなど、「趙紫陽(ちょうしよう)氏とその配下による引き落とし攻撃」を列挙。趙氏を「陰謀家」と決めつけ「その目的はトウ小平の支持なしには実現できなかった」と述べている。% t) e7 G# {! Z
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トウ力群氏の指摘は、トウ小平氏が大衆への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)全体を見渡したとき、重要な意味を持つ。13回党大会は、政治・経済両面で大胆な改革策を打ち出したが、それはトウ小平、趙紫陽両氏の合作だった。両氏の強い信頼関係が背景にあった。それがどう崩れたかが、天安門事件のポイントになるのである。 8 \ h2 t% w3 s$ M2 ], E( K2 H! Y7 v) x( h% |
党大会ではトウ小平、陳雲両氏以下、長老のほとんどが中央委員会から引退し、8大長老のうち再選されたのは楊尚昆(ようしょうこん)氏(政治局員)だけだった。トウ氏が早くから主張していた指導者終身制の廃止と幹部の若返り実現への一歩だった。 $ ^, s6 J8 P8 g& W- H* p: F/ x9 g. a, J+ x7 g9 G* W' h. N, w
トウ小平氏は80年8月、政治局拡大会議での演説で、毛沢東の晩年の過ちを、「一言堂(ワンマン)」や個人崇拝を生んだ制度の欠陥に帰し、その直後に会見したイタリアのオリアナ・ファラチ記者にも終身制廃止の必要を強調している(「トウ小平文選」第2巻)。) S9 B# y5 r# L$ e
" J1 X! }+ h" N( l' o その最初のステップとして82年2月、老幹部退職制度を設け、同年9月の12回党大会では、老幹部で構成する中央顧問委員会を新設したが、老人支配に変化はなかった。政治局員25人中、60歳未満は1人、政治局常務委員6人中では胡耀邦、趙紫陽両氏以外は70歳以上だった。 ) l* x3 Y, a4 X# v# L0 d5 X4 O7 h8 L, l8 [- F& R$ [7 o
≪長老たちは引退せよ≫ ) P6 Q9 X* G% W6 x/ w ' t! j! a9 |% w8 T% z 胡耀邦氏のブレーンだった改革派の呉江(ごこう)氏は、香港で出版した「十年的路」で、1986年になって指導者の若返りなど政治制度改革の検討が本格化したとする。そのきっかけはトウ小平氏がつくった。: _ d, U( V8 P& _9 V
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トウ氏は86年9月、米CBSテレビのインタビューにこう話す。 7 P1 c5 p7 J1 f n$ d6 I6 r! o* ?: _$ y* u3 f* z, \. ?- }
「(80年に会見したイタリアの)ファラチ記者に85年までで引退するつもりだと話したが、1年超過してしまった。早く引退したいが、党内も人民も承知してくれない。来年の党大会で引退すべくみんなを説得中だ」 , t" V2 E! R# C; i, H6 }6 x# P6 B ' {# k" g: d* Z 趙紫陽氏は95年12月に行った新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏とのインタビューで、こう明かしている。 & ]/ s* P7 D' }( \2 a$ r1 p " _3 d8 L# }3 T$ A4 I F2 g 「86年2月、胡耀邦が訪ねてきて、トウ小平から『13回党大会で政治局常務委員と顧問委主任をやめる(中央軍事委主席には触れず)ので、君も総書記をやめて顧問委主任を引き継げ』といわれたと話した。そうすれば、大勢の老同志も引き連れ引退させられる、と」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)! z2 I% f2 n5 j @' T. O. k# z
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13回党大会ではトウ氏が率先して中央委員を辞退、他の長老たちも追随し、大幅な若返りが実現した。トウ氏は中央軍事委主席に留任、陳雲氏は顧問委主任、李先念(りせんねん)氏は全国政治協商会議主席、王震(おうしん)氏は国家副主席と、政治局員でも中央委員でもないヒラ党員が要職に就く変則的な「引退」だった。 # ?0 f& b, M. c# @5 n. f : P; F1 |: J4 T7 J8 V7 p, A- e 新しい政治局常務委員は趙紫陽、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)、姚依林(よういりん)の5氏で、趙氏以外は新任だった。後に学生デモへの対応で趙、胡両氏の柔軟派と李、姚氏の強硬派、喬氏が中立と分かれたように、保革の妥協の産物だった。9 I% O5 F' l Z
* @( Y" s' K% m5 ~ 「楊書」によると、トウ小平氏は当初、積極改革派の万里(ばんり)、田紀雲(でんきうん)両氏も加えた7人制にすることを提案したが、保守派が難色を示し、断念したという。( C7 @) ]8 E8 i3 T) T4 E, S8 l m; t
; a( a1 ?: c8 n" f これについては田紀雲氏は04年6月、北京の炎黄春秋雑誌社の幹部との懇談で、こう話している。4 Q- s, C$ ], M1 _& A5 A
, g4 [3 t8 ]* p% N 「トウ小平は大胆な構想を持ち出した。中央委員に投票させ、得票の多い順に7人を選んだらどうか、と。一部の長老が同意せず、小平は押し通さなかった」 , c h, u7 Z. H2 I; Y5 X1 t; q" d+ R3 o; \5 Z) S
トウ力群氏の落選が示すように、改革派大優勢の中で投票で決めたら、次期首相に内定していた李鵬氏はともかく、陳雲氏の弟子で70歳の姚依林氏は落選したに違いない。そうなれば、保守派は反発し、改革の妨げになりかねない。 3 {7 G2 Y3 t" t- ?% X/ O& b6 q9 F* l+ Q' `7 A D
トウ小平氏は「富強の中国」の夢を趙紫陽氏にかけ、改革実行の環境づくりに、83歳の力と知恵をふり絞っていた。(伊藤正) 7 Z6 ?& N6 {" I8 v4 x* D7 Z, O F; c9 l) q" {0 b# X
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【メモ】: c3 [2 T- I) f! s$ q9 H
: [" U9 M0 o% i2 B% |6 b 中国共産党の基本路線は5年に1度開かれる全国代表大会(党大会)で決定され、少なくとも年に1度開かれる中央委員会総会が具体的な政策と方針を決定、指導する。中央委総会閉会中は政治局および政治局常務委員会がその職権を代行し、党の最高機関となる。このシステムは、第13回党大会(1987年)以降定着した。 8 W4 d) U1 n) B' B0 s& S6 ` \! f& m 3 `0 s$ _0 W5 u U 中央規律検査委員会は党規違反や汚職などを摘発。中央軍事委員会主席はトウ小平氏以降、事実上の最高権力者のポストとみなされている。直属機関には中央宣伝部、中央組織部などがある。 / A/ U0 Q" @/ G9 Y% Z* C3 |; { p$ W# v1 s& V
中央顧問委員会は1982年、トウ小平氏が老齢化した革命第1世代の古参幹部を引退させるために発足させ、長老たちを受け入れた。最盛期には約200人の委員が就任し、党指導部に対して大きな影響力を与えたが、92年廃止。 - u8 E0 N2 [& N4 }8 C + i. W3 `1 A0 n3 O8 j# ^(2007/02/21 08:11) : l% t1 a, N+ o/ `% x5 ] 8 b0 q* r; ^3 d& F: o* a/ l H5 M: u" ^7 Q( d/ |* X7 t, ~+ V- n , m0 |0 m& I. E& P+ o. D5 a" Y g: b3 ^) _; C2 R
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1987年11月、北京・人民大会堂で行われた第13回中国共産党大会の開幕式に出席したトウ小平氏(前列中央)。向かって右は趙紫陽氏、左は陳雲氏
邓小平改变了整个世界 6 ?% Z% k. W1 [- Q. z" \( N( M5 p' n
英国《泰晤士报》驻京记者发自北京,题为《中国缅怀改变世界的人》 7 q* {9 w6 Q3 M! s# y2 k. j+ C上世纪70年代邓小平复出的时候,中国最高的建筑物是18层的北京饭店。如今,53层的京广中心高耸入云,而且,到了2008年,高330米的国际贸易中心将超越京广中心,成为北京最高的建筑物。要不是邓小平决心实行对外开放和透过进行经济改革摆脱贫困的话,中国的建筑物或许依然不会很高。! B5 N2 q7 U; L. O2 S; C
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不过,尽管邓小平在改变中国的过程中起到了如此关键的作用,但对邓小平逝世10周年的纪念很可能会像他本人一样低调。今天是邓小平逝世10周年纪念日。 , d1 d$ ^" E0 F, L: M4 g7 o- H - |3 D* @% o; u8 J' b) m/ \ 她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。 2 B8 U( C6 _- ?/ h: ~" \' |1 G
1 {* L. p+ q% j: W: n6 G5 Q7 B6 I1 ?邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。” f: J4 j6 e' [/ ^4 d , P) Q/ [, h7 ]& Q) d" A( p) t 生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 % W% s* ^2 e1 B/ N
# | J; l' D) y 邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 * |) W* K( c- a4 D* W! a" w/ U$ w
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她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 ' O* {! ]' H( O5 m( J/ ~, O) Z2 Z* m) i# Q
她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” 2 k0 D& N! x1 X
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在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 2 s& V6 n4 l* p. M, s
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邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 ) O0 w; w! B& G$ h
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香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。”3 ~2 Q$ L' y* d( [+ i
$ D5 X* E/ e1 O% h+ p 9 d$ @/ ~6 x2 l, {" H# o. `+ { 他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 H/ \4 O2 N& e , @6 l4 _% n: l0 i+ l8 i( L) f 在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 ; @4 y# v4 @! B$ f
( E; G5 i- E" ~2 W/ W 邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。6 y, J& z4 L6 q5 M; x8 a
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China honours man who reshaped world1 ~4 b% a! O. @# s
When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. ' @/ A. q* @* S% p' f 7 E, l; w* G* P+ ]China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. " a$ g( G' V& ~: P( B* s) d
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But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. 2 N7 p7 X/ ]# W9 z# h/ C9 g/ `/ Y' {9 U) N; F* z4 Q! C- |
His daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. $ B! \2 E/ [* E/ o. T ]. X
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“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” 4 H+ j6 l" j! G
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Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. + Z0 y4 G/ _) e# T * w# ~& x2 k& T! t( f4 n" q: EMs Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. 7 v4 A% p) I2 O9 x( t" S8 x8 E* X 1 y0 I5 g5 y( Y/ l1 `; d5 gShe said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” " p& c9 V1 K8 W3 _: ~6 X
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Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. " u" U$ S. ]2 p
/ G. l* a, R+ j- R/ C8 [' {* VDeng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. & x) ]/ q6 @, {: }/ X* K% V' k$ q& ^ ^& l/ y% D$ `
David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” 1 |+ ~7 b" f5 a5 W8 @: w) }! T% W* ~4 a; T
He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. h$ n8 L6 w! N" Q
1 W& `5 _: p- x! _Mr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” 2 q6 M6 S- W+ ~9 G5 T; ~4 }
9 |( T+ h! ]% j; I- BMs Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. ( m+ X/ E- f( {; b7 ?
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But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. & s) M K0 `! }1 W5 F- b4 H" b, |6 S
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His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” . j! ]' f, ~. s, Z# D$ D% G& I7 m0 H
Long road to riches . K" r, O O# K/ Y% ]* i ' u* ~9 w8 w' M* L0 m3 ^7 iNow & v( N1 d% j, D: U6 i
& Q2 L) O% `* s% `
Population in cities: 550 million 4 `7 X' h9 H% o+ G
1 w3 b6 b/ O- U* B5 CGross domestic product: $10 trillion 3 M, q) @ I4 {# Q* O. Q; y5 c( f
* J( l6 C% d+ u1 r: n* eOil consumption: 6.5 million barrels a day 8 P" x8 y( x% g/ T3 X5 @' U
6 `5 @3 C5 M" j/ z5 VExports: $954 billion ! y2 u; {& p0 l" Y ]3 s1 v; A
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Population below the poverty line: 130 million * w+ M" \, X- v, C
0 ~. f7 v$ b* T* X- v6 }Ten years ago$ A$ ]. n5 G6 H6 ]- Y
- y1 ~& G+ U r- _Population in cities: 370 million - _# I4 B! m! c8 r) X0 b3 Q4 X4 B+ y% [) J3 A4 l* ^; s# v
Gross domestic product: $4 trillion 0 |/ ]# C: s/ K, R) I9 c
0 L" y' V; q# N2 h3 a+ e( A4 I" e4 V7 DOil consumption: 3.9 million barrels a day + R8 s/ d6 S: c$ X7 A
- K4 ^) R) ?; `2 KExports: $182 billion . U6 ?1 V, e9 U+ A& W1 v& R) N' u" Y
Population below the poverty line: 120 million . a; f4 i0 b) ]. N
- U; y- }9 t9 W8 C
Sources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies + C: Y0 \) U# H( c + P! @! ?4 ^: X$ _: \$ a " c& l$ d- U- p“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。) `* b$ |( w6 _, {0 f
3 F: o) L9 P2 H( e, n(中央社记者张芳明东京二十三日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八八年夏天,中国实施价格改革引起的风波造成党总书记赵紫阳的地位大为动摇,保守派展开把赵紫阳赶下台的行动。2 v3 w2 X2 t$ g7 e9 K
7 \7 a. N! `9 X5 @5 l
文中指出,一九八八年夏天,中国在邓小平主导下的价格改革造成物价高涨,同年九月决定转换经济政策后,邓小平和赵紫阳之间开始出现隔阂。邓小平在接见外宾时指出,目前最重要的是整顿经济秩序,改革过急往往是错误的根源。五月曾表明大胆推动价格改革的邓小平变得宛如另外一人,显示物价改革发生的问题对他造成的冲击,反对改革的陈云提高了其存在感。. _/ m7 X6 h3 y
当时的中国每次改革开放发生问题,保守派批评的箭头并非指向邓小平本人而是针对其“代理人”,邓小平也加入批评其“代理人”的行列,物价风波大大地动摇了赵紫阳的地位。 , P, k# T5 T! ^3 h' D q& N6 D% [( r! \: R/ u# w5 x
“邓小平年谱”(中央文献出版社)指出,邓氏从一九八八年九月以后,每个月三次左右和赵紫阳共同出席会议或参加活动,但是,十二月二十日一同和中央军委扩大会议出席者见面后到次年三月四日为止,两人约两个半月未有接触,这段空白期到底发生何事引起注意。$ g% \% r+ ~8 C! O/ j2 Z7 x" U
. I+ C* B7 {3 s8 a赵紫阳于一九九六年十月接受访问时曾指出,他在一九八八年曾前往邓小平家说明对新权威主义的看法,邓氏在当时提出方励之的问题。方励之以煽动学生示威的罪名遭党除名,成为一九八八年九月以后,保守派重拾发言权并加强思想控制的背景原因。十二月在北京召开的改革开放十周年学术研讨会始终由保守派主导,对此表示反弹的知识份子的行动也趋于热络。 " c3 c1 K/ `/ v" `6 S ) @' c6 o+ D7 M; \1 ~7 a“邓小平年谱”未记载会谈内容的面谈包括一九八九年一月十日和总理李鹏的会谈,一月二十三日和二月十日则依次和全国政治协商会议主席李先念和国家主席杨尚昆的会谈,当时和李先念的会谈成为把赵紫阳赶下台的开始。 . o) \3 Z+ v7 Y3 A& `, \6 p 3 J) z0 G& u+ L+ o2 Y【トウ小平秘録】(10)第1部 天安門事件 改革の盲点8 z. y/ ^0 U: {5 v- n! k
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1988年夏、事実上の最高指導者であるトウ小平(しょうへい)氏の指示で断行した価格改革が物価急騰と高インフレを招き、9月に経済調整に転じた後、トウ氏と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の間にすき間風が吹きだす。「トウ小平年譜」(下巻、中央文献出版社)のトウ氏の発言からは、改革にブレーキをかけ、調整策に傾いていくのが読み取れる。 . c- A9 A0 k- n! Q . W7 _5 v- b( L; q9 G1 }# } 「改革をやりつつ、環境を正し秩序を整えるのに賛成だ。インフレや物価上昇を抑えても、改革・開放を損なったり、経済を萎縮(いしゅく)させることはない」(9月12日、趙紫陽氏ら指導者への談話)+ Y' N& O n) N3 s
1 r b. h2 U4 g# R4 _1 G* s
「速度の速さは本来いいことだが、速すぎると面倒を起こす。インフレは主として厳格な管理を欠いた結果だ」(9月16日、自民党の二階堂進元副総裁との会見で) F- ~8 j! r+ ? 0 R; Y/ z3 ~2 K s9 b# ~3 ]6 t 「われわれは現在、経済秩序の整頓を第1にしている。急ぎすぎは往々にして大きな過ちの元だ。しばらく前まで発展の速度が速すぎたのが、多分、(インフレの)原因だ」(10月5日、ケニアのモサ大統領に) ! S U& a8 x" L- f {) e1 D Z
価格改革を大胆に進めよと言っていた5月ごろとは別人のようだった。トウ小平氏が最も嫌う「秩序の乱れ」「社会の混乱」が学生デモではなく、自ら発動した価格改革によって発生したことに衝撃を受けたに違いない。 , e8 J8 C7 Q8 e5 X5 m) y8 k& b7 F6 c0 m) c
それは価格改革に反対していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任の存在感を増す結果になった。 . V9 a4 g8 r$ X; x: [! a! f0 f) m# @
「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、陳氏は88年5月18日、姚依林(よういりん)副首相から価格と賃金の改革案について報告を受ける。 3 W$ a5 V8 ~ {' {! C5 q* J# s) ^" _1 H- c
姚氏は、改革の結果、89年から5年間、物価は年10%上昇するが、賃金はそれ以上伸び、5年通算では物価は60~80%上昇、賃金は100%増になるとの試算を説明した。それに対し、陳雲氏はこう話す。 6 A( ^/ R" A& P2 E, k1 A" | : Q( P3 p; X# [- W0 k t9 [4 ~5 o) D 「5年連続で物価が10%上昇するなんて、趙紫陽は大衆に向かって言う勇気があるのか。(姚氏が『言いますよ』と答えると)じゃあ賃金のない農民はどうなるんだ」 8 e8 G' g# s) u; F9 w. C0 d! h/ r5 q( F, n9 c1 I
陳雲氏は同月28日には同じ保守派の李鵬(りほう)首相を呼び、この改革案に強く反対した。 " V" d: `5 ~/ g$ g. z$ s% Q: S5 F/ R G" F0 q
88年9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で経済調整への転換が決まったが、趙紫陽氏は一切自己批判せず、李鵬、姚依林両氏が意見を述べた後、一言付け加えた。2 J6 l- x* d6 p
( E6 a) C' j7 K% H 「どうやらわれわれは事態を知るのに遅れ、対応が遅かったようだ」! y- ^1 [/ n3 K. p+ \
" a8 L f0 U& O2 C% n 10月8日、陳雲氏は趙紫陽氏と会い、当面の経済活動について食糧問題、金融問題など8項目の意見を述べた。その冒頭、陳氏は「われわれ社会主義国が西側の市場経済に学ぶのは困難が多い。模索を続けるのはいいが、随時経験を総括せよ」と話した。 4 L' m7 ~7 O+ U+ [+ ^ ( p3 n; w/ J& d9 h* \9 e 「陳雲伝」は、それを「13回党大会以来の経済活動における趙氏の指導上の誤りを批判」と説明している。新華社の元高級記者、楊継縄氏は、香港で出版した自著「中国改革年代的政治闘争」で「トウ小平と陳雲の闘い」と喝破したが、トウ、陳両氏は直接対決をしたことはなかった。 8 C6 \* \. _& d2 M5 P& e8 C, e, q' e8 f3 h
改革・開放の欠陥が生じる都度、保守派の批判の矛先はトウ氏本人ではなく、トウ氏の「代理人」に向けられ、トウ氏もまた「代理人」批判の列に加わるパターンが今回も繰り返されようとしていた。趙紫陽氏の地位が大きく揺らぎだしたのだ。 ; c) \6 u b, F! f& F 5 w, r- G9 @' E' W* \! V$ o ≪空白の2カ月半に何が≫4 l. z4 t' ~; t }1 r
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「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は1988年9月以降も会議や行事などで、毎月3回ほどのペースで趙紫陽氏と行動を共にしている。ところが、同年12月20日に中央軍事委拡大会議の出席者と会見した際に同席した後、翌年3月4日に2人で会話するまでの2カ月半、趙氏との「接触」はなかった。 a. }/ l1 {% A
: F8 q' M" Y0 e3 t- `( Q2 t この間に何があったのか。4 B+ a+ O& s2 Z
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トウ小平年譜には、従来未公表だったトウ氏と個人が面談した事実も載っているが、会話の内容があるものとないものがある。89年3月4日の趙氏との会話は詳しい内容付きだが、それ以前に2人が最後に会話した88年11月28日は、単に「トウ氏宅で会話」としかない。 / Y. t: w4 E- @; Q. ~/ J- d1 |/ x9 e7 L4 Q
趙紫陽氏は96年10月、楊継縄記者とのインタビューで、新権威主義についての質問に「88年にトウ小平の家でその説明をした」ことを明かしたが、トウ氏はその際、「(天文物理学者で民主派の)方励之(ほうれいし)の問題を出した」と答えている。それが11月28日の「会話」だったとみてよい。& }8 U# [( H+ {
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新権威主義の原型である開発独裁を過渡的措置として認めるシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授と趙氏は88年9月に会談していた。方励之氏が香港の記者会見で、トウ氏一族を含む党幹部の腐敗を厳しく批判して間もないころでもあった。 * V# O' M0 L. T2 A. _0 q 5 d$ L+ b5 D6 i0 T$ L% z 学生デモを扇動したとして党を除名された方氏の問題はすでに本連載の前半で書いたので繰り返さないが、同年9月以降、保守派が発言権を回復、思想締め付けが強まったことが背景にあった。12月に北京で開かれた改革・開放10周年の学術討論会は、保守派主導に終始、それに反発する知識人の活動が活発化していく。(この間の事情は高皋氏が台湾で出版した「後文革史」に詳しい)# G' E. N- z; q$ z0 [% j0 _. I
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トウ小平年譜には、会話内容のない「面談」が89年1月10日の李鵬(りほう)首相、同23日の李先念(りせんねん)全国政治協商会議主席、2月10日の楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と並んでいる。$ b, N" z! y( e1 ?
3 x i6 q# a* N このうち、李先念氏との会話は、「趙紫陽降ろし」の始まりになった。(伊藤正)+ I+ \+ L1 M% _: s- d$ d8 m- A
3 B* a r1 [0 s/ s
■新権威主義 強力な国家権力の下で安定を図り経済発展を進めること。80年代後半、経済学者の呉稼祥氏らが提唱。「開発独裁」と呼ばれた、かつての台湾、韓国などの発展モデルを参考にしたもので、趙紫陽氏周辺に賛同者が多かった半面、自由主義者の批判が相次いだ。88年に趙氏が説明した際、トウ小平氏は自分の考えと同じとしながら、「この表現は使うな」と述べたという。 + Y) n* _- P, H4 _2 k 7 _0 ?/ e# ~/ A% n! O. g# v' R(2007/02/23 07:54)
茅台酒瓶问题成反革命开端 , g, Q! q) n4 l( O(中央社记者张芳明东京二十五日专电)日本产经新闻今天连载中的“邓小平秘录”透露,一九八九年四月十七日由中国法政大学主导,为追悼胡耀邦而进行献花行动中的茅台酒瓶问题,被中共当局作为“反革命煽动”的开端;十八日晚上前往中南海要求与李鹏总理见面的学生和警卫发生冲突,成为天安门事件悲剧的序曲。 + N4 G, E7 e o3 n/ p9 S: R4 U" H, s) u& I
文中指出,一九八九年四月十五日,前中共党总书记胡耀邦的死亡升高中国国内政治社会情势的不安,造成许多人预感可能引起某种骚动;但是,想必没有人会预测到后来会发展成为那么大规模的运动。( \* {6 s" ~. ?" s/ t
胡耀邦去世第二天的十六日,北京大学出现大量的大字报,不过学生很少;但是,十七日中国法政大学职员学生发动追悼大会后情况为之一变。十七日下午,先是六、七百人迈向天安门广场,沿途市民加入行列;傍晚时广场上出现了四、五千人,大学生对人民英雄纪念碑献花并合唱革命歌后解散。 , R1 |; Y3 y6 Z9 H + w# I$ _% k4 F! j5 p* y这项示威行动后来被作为“反革命煽动”的开端,原因和当时在挂在祭祀英灵花圈下的茅台酒小瓶有关。中共有关当局指出,“小瓶”与“小平”同音,示威份子的行动是侮辱攻击最高领导人邓小平。4 C) T5 B# k* z2 W7 ]) q ]
4 ]# z) s' n( {8 r# M2 N
十七日深夜,集合在北京大学“三角地”的近千名学生出发前往天安门广场,十八日凌晨四时左右抵达广场,途中,人民大学及清华大学的学生也加入而增至数千名;其中大多数在有关当局劝导后搭车回校,但是有近两百人留下,热烈讨论今后的对策。% g$ Z. H7 |- \
' i$ }9 R" |- y; M这些学生讨论的结果决定向中国人民代表大会常务委员会提出意见书,包括重新评价胡耀邦等七项要求。当时被选为学生代表的是后来成为学生运动最高领袖的北大学生王丹。王丹在十八日上午八时左右前往全人代常委会递交请愿书并要求见常委会高层,结果当天傍晚才由常务委员刘延东收下请愿书并表示将转送全人代。. [* b% {2 V; m6 M) p. M) M( A+ D
+ m9 E% s, a) e- f当时,各大学的示威队伍陆续抵达天安门广场,加上看热闹者,十八日晚上九时左右,集结在广场的人士近两万人。北京的动向也很快地影响其他地方,上海、天津和西安等十八日开始出现追悼胡耀邦的集会和示威游行,特别是西安出现学生和警察冲突的事件,北京则未出现混乱,示威的口号主要是追悼胡耀邦。7 H9 s7 Z% [# t8 h& x- t
7 f% F R7 |: r. z7 A }十八日晚上十一时前发生的事件成为造成情况变化的最初事件。约两千名学生集结在中南海正门的新华门,要求和李鹏总理见面,并计划冲入,而和警卫发生冲突,响起天安门事件悲剧的序曲。 1 V# B. D& d7 N3 v% y0 w5 H; S3 W: X; g$ B2 K" U
【トウ小平秘録】(12)第1部 天安門事件 悲劇の序曲■マオタイ酒瓶が問題に , |3 M! ?6 I- k( E( K. X9 p( S& Y I) ^9 }: c7 a. o
1989年4月15日、前総書記の胡耀邦(こようほう)政治局員(当時、肩書は以下同)が死去した当時、中国国内の政治・社会情勢は不安定さを増しており、改革派の胡氏の死が何らかの騒動の引き金になる予感は多くの人がしていた。しかし、あれほど急激に大規模な運動に発展すると予測した人はいなかったろう。, a# u# |1 T0 @7 K% \! V E% l
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胡氏死去翌日の16日夕、北京大学の壁新聞を見に行った。「三角地」広場の掲示板は壁新聞で覆われていたが、学生は少なく、取材する外国人記者ばかりが目立った。研究生(大学院生)の1人に「デモはやらないのか」と聞くと、意外な答えが返ってきた。6 C0 n8 g1 v/ I" q# o. F
( c' b1 H, n/ ?1 \7 r その根拠の1つには、胡耀邦氏の追悼デモが始まった後の常務委員会(4月18日とみられる)で趙氏の分析と方針が承認されたことがあった。2 r0 F$ n$ D, V9 W; y- ?! P
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趙氏は学生デモの背景を(1)清廉潔白な胡氏のイメージは高く、腐敗への不満と結びついた(2)87年の胡氏解任のやり方や反ブルジョア自由化闘争への不満がある(3)88年秋以降の調整策で、政治改革や経済改革が停滞した-と分析。. Q+ I* T# ?& l7 H8 c
# p# D5 C0 o9 r
その上で、大半の学生は、胡氏追悼の形で改革深化への願望を表現しているとして、追悼デモは規制せず破壊行為だけ取り締まる方針を打ち出し、常務委の賛同を得た。19日にトウ小平(しょうへい)氏に報告、支持されたという。8 x5 a- t5 ?5 n. `& n
; Z, n. l3 Q; }' Z0 w 22日に胡氏の追悼大会が終わったのを機に、趙紫陽氏が打ち出したのが「3項目意見」だ。指導と話し合いで学生たちを教室に戻らせるという柔軟策だった。$ f5 V) H. I! w# v5 X; R8 x- {
+ }7 r2 o9 }3 l 北朝鮮へ出発する際、見送りの李鵬首相から「何か意見は」と聞かれた趙氏は、3項目意見を改めて伝えた。李首相はそれをトウ小平氏に報告、トウ氏も「紫陽の方針でやれ」と指示したという(以上「楊書」による)。 8 q1 K9 X: l& m: f8 V5 s- l- S2 J2 A
ところが、趙氏が出発した翌24日、状況は一変してしまう。その前日、北京の21大学の学生40余人が市西郊の公園「円明園」で会合、「北京市学生臨時準備委員会」結成を決議し、授業ボイコットや地方へのオルグ派遣などを相談した。6 `, p: G! i+ P+ C2 D# o7 w& G
# @# z) V6 s* l5 o
それを聞いた北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記と陳希同(ちんきどう)市長は、中南海(党中央・政府機関)に報告し、早急に手を打つ必要があると判断。陳市長のテニス仲間の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長に相談する(張良編著「中国『六四』真相」。以下「真相」)。- c3 h# j3 z) U& z0 U2 v) q; I
L+ Y' g5 ?& F* H& m0 Y 「学生運動はますます重大化しています。既に39大学がストに入り、約5万人が参加してます」(陳市長)「最も凶暴な北京大学生の一部は、方励之(ほうれいし)(天文物理学者)の女房の李淑嫻(りしゅくかん)が指図しています。方励之は学生と外国メディアを結ぶ仲介役をしています」(李書記) p4 T+ _/ Z! M 7 i2 U9 d* }+ I( G% F( ~/ h 報告を聞いた万里氏は驚き、李鵬首相に会いに行くよう指示。李首相はその晩、政治局常務委の非公式会議を招集し、北京市党委と国家教育委の報告を聴取、意見交換する。「真相」は発言を紹介しているが、強硬論一色で改革派の万里氏や田紀雲(でんきうん)副首相の発言は伝えていない。沈黙するほかなかったのだろう。& B- p+ E. I' P% T* ]
9 n* Z/ H! `# l' G: b- ]; ?; X
天安門事件後の6月30日に陳希同氏が全人代で行った報告によると、この会議は「ごく少数の者の操縦と画策の下で、計画もあり組織もある反党・反社会主義との政治闘争に直面している」との認識で一致、党中央に「動乱制止小組」を設置して終わる。 6 S. |; E" G e6 v8 z 1 `1 y# R$ s1 e8 o& s$ c9 u, h, ? そのとき、李首相が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に「小平同志に、常務委の報告を聴いてもらい、意見をうかがえないでしょうか」と言う。 6 r% z* ?0 U0 ^* n0 S7 X7 h+ d, {. @5 T5 r/ n0 W6 Y
楊氏は「小平に話して、明日午前中に彼の所に行くようにしよう」と請け負った(「真相」による)。5 p9 \% |: Z' v( D7 j; T
8 b) j+ M3 U1 J0 H3 r4 U
25日午前、楊尚昆氏と李鵬首相がトウ氏宅を訪れ、前夜の常務委会議の内容を報告した。トウ氏は常務委の決定に「完全な支持」を表明、講話を始めた(「トウ小平年譜」による)。' L0 x% q' ^. \4 ?2 e1 }4 u
1 x$ _. R y+ }, w 「これは通常の学生運動ではなく動乱だ。旗幟(きし)を鮮明にし、強い措置をとって動乱を制止せよ。国際的な反応など恐れるな。中国が発展し、4つの現代化を実現してこそ、真の名誉を得られる」 + X* q/ {) M% s8 p- N3 H3 g " T3 } T/ U0 N9 ^0 i 「4つの基本原則の堅持が必要だ。人民民主専制の手段を使え。社説を出せ。立法も必要だ。全国的な闘争の準備をし、断固動乱を制圧せよ」; O V) y. s) q( ^
, L% ^. \+ S; G* z9 S9 e* l; A 「この動乱は完全な計画的陰謀活動であり、そのポイントは共産党の指導と社会主義制度の否定にある。背後には黒幕や黒い手先がいる。方励之夫妻は典型だ」3 Z! a" s% W) V# r" K
2 {+ m$ |& o3 \" B& \2 \" [
トウ小平講話は前夜の常務委決定とともに、同日夜に平壌の趙紫陽氏に伝達された。2日前の「3項目意見」とは正反対の強硬路線である。だが、趙氏は26日朝、「完全に同意する」と返答した。+ _# i; q/ @+ n( N' E
3 w* V8 T* e; k6 Y" E5 H これについて趙氏は「内部講話であり公表されるとは思わなかった」と楊記者に述べている。不可解な説明である。常務委決定もトウ氏の講話も社説を出すと明言していたからだ。# v6 Z$ K+ t" F I$ X( l2 m
& G: B4 n) I4 h+ R+ F, R
油断したのか、権謀だったのか。いずれにせよ翌4月26日、人民日報に問題の社説が出る。(伊藤正) 7 t2 m6 L, J0 L $ k$ v( Q* D9 V# |$ A |◇ $ f7 k' F: x1 N' U. U! ~$ R' H7 F" T: Q/ p$ H3 ?- g* s. O# G9 g
【4つの現代化】2 o' t1 s: b4 l! `& `1 W' c) N
- T2 y4 x9 t. B- I) Y& z3 i
工業、農業、国防、科学技術の近代化のこと。周恩来首相が1964年の全人代報告で提起、75年にも再提起したが、極左派の妨害で頓挫した。文革後の77年の第11回党大会で最重要課題として復活。トウ小平氏は79年、21世紀中葉に中進国レベルにする3段階発展構想を打ち出し、82年に改正した憲法に明記された。作者: 日月光 时间: 2007-3-2 10:08
邓秘录:人民日报社论反使学运全面化3 b& ?9 M4 O4 b6 K! B. d
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(中央社记者张芳明东京二日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,人民日报于一九八九年四月二十六日发表谴责中国大陆学生示威运动的社论不仅未达到威吓目的,反而促使一度呈现分裂情况的各大学学运迈向全面化,加上,上海“世界经济导报”受到中共当局镇压,知识份子也展开行动。+ P/ A5 B: w: d" X' g
* d% }8 g F' Y O0 b; X, E8 y
“秘录”指出,四月二十六日,人民日报刊登标题“反对旗帜鲜明的动乱”的社论,断定学运是有计划的阴谋动乱,是少数别有居心者利用学生反对党的指导和社会主义制度,表示坚决反对。这篇社论完全是邓小平二十五日谈话的内容,未反映三天前赵紫阳的“三项意见”。赵紫阳后来接受新华社记者访问时指责李鹏歪曲事实欺骗邓小平,诱使后者发表镇压学运发言。2 [& ^" K5 t2 \2 y
邓小平曾于一九八六年十二月的学生运动对胡耀邦等发表内容主调相同的发言,次年一月六日,人民日报发表“反对旗帜鲜明的无产阶级自由化”后,学生示威运动趋于平静。但是,一九八九年的学运情势相反,社论一出来,反而重新点燃由于内部意见对立而一度失去目标的学运,并得到社会的广泛支持。 / ?- w% |& U; `/ c6 ^( U; Q2 S! |0 f R0 _; ]2 c
人民日报刊登问题社论前夕的二十五日晚上,中国中央电视台先行播放内容后,王丹在北京大学召开“民主沙龙”讨论对策,各大学的学运迈向全面化是在社论发表当天的二十六日,学运人士呼吁二十七日一起前往天安门进行示威,北京市内有数万人在市内示威游行至傍晚,市民沿道欢呼,送给学生饮料乃至于捐出现金。 % |4 Q, p6 L/ ?# e 1 J* }4 p' [: X# h$ X( ^就在那个时候,知识份子也展开行动,背景原因是上海最进步的报纸“世界经济导报”遭到镇压。 ) Y: o& l& y6 M( N u+ n% L1 e3 b) J2 J: P
【トウ小平秘録】(17)第1部 天安門事件 4・26社説. D0 n( w) T3 }$ ^3 w
( s) q3 x$ |2 u% T. O; T/ C6 g
■反応は86年の逆だった , s7 Y( S: R. s* r/ ^5 |: _ * q5 M; {# c" U1 U3 s+ \ 「旗幟(きし)鮮明に動乱に反対せよ」 # p6 G, q* T8 n8 \% ]2 x; T- I. f/ p( z! n' S9 ^
1989年4月26日付の中国共産党機関紙「人民日報」は1面トップにこう題した社説を掲げた。異例の朱色印刷された見出しに、文化大革命の否定表現である「動乱」が使われたことが人びとを驚かせた。! I# [$ b$ x% \* _+ b0 B
3 J! X J) k. l L8 l* Q 社説は4月22日の胡耀邦(こようほう)氏追悼大会後、「下心を持つごく少数の者」が学生たちを利用し党と国家の指導者を中傷、党の指導と社会主義制度反対を扇動しているとし、「これは計画的な陰謀であり、動乱だ」と断定。「旗幟鮮明に動乱に反対し、断固として闘わねばならない」と呼びかけていた。. G' A: k1 F8 M2 e
4 d, t- g" I& F! g
人民日報の陸超★(りくちょうき)副総編集長(肩書は当時、以下同)は2006年に香港で刊行した「六四内部日記」で、社説が出た経緯を明らかにしている。 ) i" n" j; }2 a) g, {: b( S5 `# s , S3 @& d* c( N7 K 「4月25日午後2時、編集幹部会議が招集され、老銭(銭李仁社長)が『昨夜12時に胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員)から、社説担当の副総編集長を伴い25日朝、中南海の会合に出るよう電話があった。そこで啓立が24日夜の(政治局)常務委員会会議の精神を説明し、明日、社説を出せと指示した』と伝えた」 ( ^: ^, b/ ]% b, I2 r$ B# v5 C: s+ }: [
その際、銭社長は、「常務委の精神」には「秩序を回復、騒ぎを警戒するが、流血は避ける」との趙紫陽(ちょうしよう)総書記の「3項目意見」も含まれるとも説明した。この時点ではトウ小平(しょうへい)氏が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と李鵬(りほう)首相に行った、学生運動を断固制圧せよとの講話は伝わっていなかった。0 q k5 D; G. `
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陸氏によると、午後3時半からの社内会議終了後、社説担当副総編集長が社説原稿を持ってきたという。社説の筆者は同社の論説委員ではなく「李鵬が曾建徽(そうけんき)(党宣伝部副部長)と袁木(えんぼく)(国務院スポークスマン)に書かせた」ものだった。 # e' `* Q8 J5 Y: Y' X8 o3 P" b/ J5 T 8 L7 l+ }: ~4 f3 S, [9 _3 [ 社説は、「動乱阻止」を指示したトウ小平講話をベースにし、趙紫陽氏の「3項目意見」は全く反映していなかった。趙氏は後に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者とのインタビューで、李鵬首相が「事実を歪曲(わいきょく)した情報」でトウ氏をだまし、講話を引き出したとの見方を示している(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。 1 r% a+ N; ~* N. r% ^( N1 ^* S9 j- R 7 K' l- N' y# { m3 H7 P% w$ B! O( ^ 93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)には、このときの講話は収められなかった。関係筋によると、トウ氏の判断だったとされ、天安門事件後しばらくして講話をまずかったと思った可能性がある。" u+ K+ p; V0 d' j+ N- b, `
% b# c. A+ g% r8 D1 Q* n トウ小平氏の講話は、86年12月の学生デモに対し、同月30日に胡耀邦氏らに行った講話と基調は変わらない。このときは、翌1月6日付の人民日報社説「旗幟鮮明にブルジョア自由化に反対しよう」が出た後、デモは沈静化した。 6 ?0 h5 M) J1 v8 c' Z5 B 0 b+ X7 d9 W# S& e# v" o しかし89年の今回はそれとは逆になった。4・26社説によって、学生デモは沈静化するどころか、胡氏の追悼大会後、目標を失って消えかかっていた学生運動が息を吹き返し、社会の広範な支持を受けるようになったのだ。 ' j2 K+ C# z2 V 1 z# ^' G0 M( @ 北京市当局の規制が強化されたこともあって、当初は学生たちの街頭デモは少なくとも市中心部では行われず、活動は学内が中心になった。特に4月20日の中南海新華門での警察側との衝突事件後、家族からの圧力を受けた一般学生たちは、追悼大会後デモに消極的になっていたし、積極分子の間でも分裂が起こっていた。 ( [: D! F4 H5 i+ ^1 {4 p }% O: e+ j& w3 v% t# H
当時の学生運動参加者が04年に刊行した「『六四』参加者回憶録」(明鏡出版社)で、北京電影学院学生だった馬少方氏は、4月23日の「北京市学生臨時準備委員会」を結成した会合の模様を証言している。1 N A# m3 r9 N( g% P& |
$ @6 A7 A1 C. X1 F2 R' U, E7 ] この会合は北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記らが「動乱の陰謀」とし、党中央を強硬策に導く口実になったが、馬氏によると、平和的な請願活動などを確認しただけで、具体的な行動は何も決まらなかった。「われわれには運動の経験があまりにもなかった」ことも要因だった。2 t5 B, }- M% u/ Y
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新華門事件をリードした北京大の郭海峰(かくかいほう)氏が同大指導部から外されるなど、各大学で追悼大会後の運動継続をめぐって混迷が始まってもいた。; f- x& |6 Z8 h- o) [
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それが変わるのは、4・26社説が25日夜の中央テレビで放送された後だった。北京大では王丹氏が「民主サロン」を開き、対応策を話し合う。 3 t2 w6 _6 {4 z+ M% t5 I) T ( j2 N4 q/ ]9 r; q+ c$ Z 《重要な人民日報社説は、前日に新華社が全国に流し、中央テレビが報道する。4・26社説は全国の主要新聞が人民日報と同時に掲載した》 0 y, p4 ?3 ?( s+ s% J1 k( ]" `3 y0 C0 R+ K& K9 O" N6 f- H. x: p
各大学の動きが本格化したのは社説が出た26日で、27日の天安門広場へのデモ呼びかけが一斉に始まった。そして27日、北京市内は数万のデモが夕方まで続く。沿道の市民たちは歓声を上げ、学生たちに飲み物を差し入れ、現金をカンパする人もいた。 # w2 a" [6 ~/ o: ?$ l }/ w4 C9 ?$ x7 f f8 F2 l
これを機に、知識人層も動き出す。その背景には、上海のある事件があった。最も進歩的な新聞「世界経済導報」への弾圧だった。(伊藤正) - P: @! H1 D' E - z! {# A1 V" D' o3 b3 r◇ * b7 G2 z' v6 K+ [ 7 J5 S- @$ [" W. O4 \9 j" A3 _' S【用語解説】トウ小平文選 2 v1 e6 u) `. t" s2 v% i2 i9 z# B" G6 Y5 L- \
トウ小平氏の発言や報告をまとめた公式文献集。1983年出版の第1巻は75年から82年9月まで、89年出版の第2巻は38年から65年までの言行を収録している。93年刊行の第3巻は82年9月から92年2月までの主要な言行を収録。第3巻に未収録の89年4月25日の講話は2004年刊行のトウ小平年譜で初めて一部が公表された。 ! n( X3 a2 Q" d9 C }4 l; @$ G 5 |: H' a5 |" f" a0 d★=示へんに其1 W. Y; X: t7 f+ @* F( B
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(2007/03/02 08:13)
邓秘录:李鹏赵紫阳常委会上针锋相对 # Z' D# M- f% N6 w J$ A& C3 ~! P. x0 u1 B! E+ J5 O
(中央社记者杨明珠东京四日专电)产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月一日的政治局常务委员会上,当时的中国国家主席杨尚昆说,五月有两件国际大事,倘若学生运动处理不妥,共产党的领导力将备受考验。常委会上,赵紫阳希望尽可能因应学生对民主化的要求,但总理李鹏却与赵意见相左起敌意。 4 i. N3 h! Y, s0 n. u' i6 |0 U( }5 v& F
由伊藤正撰写的“邓小平秘录”刊载,赵紫阳在一九八九年四月三十日结束七天的平壤访问返国,李鹏到北京车站迎接并告知赵翌日将召开政治局委员会。赵在二十三日出发前往平壤前,提出“三项意见”以期平息学生运动,但李鹏的强硬政策使得事态扩大,导致赵对李颇为不满。 1 l- n* B2 u/ c! [“秘录”引述新华社记者杨继绳于一九九五年十二月专访赵紫阳的“中国改革年代的政治斗争”指出,邓小平讲述强硬方针的四月二十五日的谈话,听说不受好评,邓对自己的谈话被披露感到不悦。此外,赵紫阳受专访时说:“李鹏也在四月二十七日大规模示威活动之后,认为四月二十六日的人民日报的社论是失败的,但仍拼命维护该社论,他们最怕的是我不支持社论”。/ x; r* Z: G k D
* |8 j& I$ c( H/ N0 L“秘录”根据张良编著的“中国‘六四’真相”(简称“真相”)一书指出,五月一日下午,政治局常务委员会召开,赵首先表示,有关学生运动,他支持邓的谈话与二十四日常务委员会所做出的决定。在这之前,赵在平壤就表态“支持”,以期整合领导阶层,挽回主导权。: j2 F. S0 v9 l% j/ C! {; F% O
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另一方面,四月二十八日,北京市大学生自治联合会(简称“高自连”)成立,预定在五月四日的五四运动七十周年纪念日举行大规模示威。五月一日高自连的领袖北大学生王丹召开记者会,向北京政府提出推动民主化运动的七项要求。 1 w; e5 g1 _" a5 Y. u! J3 [3 O# s" }; `/ P* ^( s5 G
“秘录”指出,政治局常务委员胡启立在会上报告说,上海知识份子和新闻记者不满“世界经济导报”(四月二十六日总编钦本立遭解职)遭打压事件,上海的大学方面情势紧迫。赵也批评说:“上海市党委的处理太草率”,但赵表示,既然是党中央支持如此做,还是得维护。秘录说,这是赵不希望强硬派面子挂不住。 2 j0 O- v8 b* G; h1 \7 k2 A% p: A7 C+ `/ k9 o- B+ G! W
“秘录”也引述“真相”一书指出,五一的常务委员会上,由赵主导议程,当时国家主席杨尚昆成为关键。杨说,五月有两件国际大事,亦即,四日中国首度举办亚洲银行开发会议(ADB)与中旬苏联共产党书记长戈巴契夫的来访。杨说,若学生运动处理不妥,在国际上的影响极大,党的领导力备受考验。因此,希望提出有利的战略,透过对话,指导学生并避免矛盾扩大。 ) i1 z8 y8 p% y" O8 C! ]2 B 3 t' f/ X( @5 ~, K' H1 O3 w- l于是,赵表示将在五四运动七十周年纪念大会时提出政治改革方针,以让学生重返教室。政改方针的演说重点为:一、确实掌握改革开放与四项基本原则(社会主义四原则),二、致力于社会主义的民主与法制建设,认为虽不采西方的多党制,但民主化是世界潮流,将加以因应。, q4 }% ?$ v, y& |& U' Q9 ~4 r
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不过,李鹏强烈反驳赵的看法,他认为学生示威运动是“反对社会主义的一种资产阶级自由化运动”,有部分学生反对四项基本原则,要求自由化,攻击邓小平同志等人,这是在持续搞非法的运动。" [+ K& Q2 g. J5 H! y8 k2 w7 d" W
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“秘录”说,会议就在赵、李两人意见严重冲突之后闭幕,两人之间的敌意也就此点燃。 ; U# R# M" \. t0 F2 _' o6 q 1 Q' w4 e6 J$ Q; |【トウ小平秘録】(19)第1部 天安門事件 常務委の対決 * w0 d* a" E% y. W' \# Y 9 w+ p. C$ F) G( o ■指導力 試される 8 r, b9 Y, Z* d; V1 y7 T5 J$ J , p3 d$ c6 L1 Q) V! H+ s 1989年4月30日朝、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は、北朝鮮訪問を終え、7日ぶりに北京に戻った。北京駅に出迎えた李鵬(りほう)首相らに「明日、政治局常務委員会を開く」と告げ、資料を受け取って帰宅する。3 [1 p) j7 g/ r/ R
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23日の出発時に、学生運動を指導と対話で沈静化させる「3項目意見」を出したにもかかわらず、強硬策で事態を拡大した李首相に趙氏は強い不満を抱いていた。95年12月の楊継縄(ようけいじょう)新華社記者のインタビューに、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。* o7 H- z5 w' D2 ^. b( {" v }
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「北京に戻る途中、瀋陽で遼寧省党委員会の同志から『(強硬方針を述べた4月25日の)トウ小平(しょうへい)講話は評判が悪い』と聞き、なぜこの講話を(全国に)伝達したのかと思った。トウ小平を前面に出したことに、トウ自身も不機嫌だった」 4 A* L6 u( }. Q9 q! Z% [% l }4 |/ z* P
「李鵬らも4月27日の大デモの後、(トウ講話に基づく同26日付人民日報の)4・26社説は失敗だったと認識していたが、社説を維持しようと懸命だった。彼らが恐れたのは、私が社説不支持になることだった」 : ?6 b& m) f. b2 O - W2 ]1 i! `4 u$ m' V0 ~ 5月1日午後、政治局常務委員会(拡大会議)が開かれた。趙紫陽氏はまず「今回の学生運動に関し、小平同志の講話と24日の常務委員会の決定のいずれも支持する」と表明した(張良編著「中国『六四』真相、以下「真相」)。# k% e* n' ~: d0 {2 g6 u1 `% p- T% E
! j: J" j4 P/ F1 v. ]/ W 趙氏は平壌滞在中の「支持」表明を再確認することで、指導部をまとめ自らの主導権回復を図った。「楊書」によれば、常務委員の多数は、4・26社説には触れず、その強硬トーンを薄め、事態を緩和させようとしていた。趙氏はそうした空気を察し、強硬派との衝突を避けたといえる。 7 Y; }2 b* }5 A* J1 P' |5 n8 `- C# S+ K
会議では、北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記ら保守派が、学生運動が地方に拡大、長期化するとの見通しを述べたが、強硬論は後退している。4・26社説が4・27デモを引き起こし、学生運動を再燃させたばかりか、強硬論への批判が党内にも広がったためだった。$ v" U4 k( z4 u8 b
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一方、学生側は4月28日に、北京市大学生自治連合会(以下、中国語表記略の「高自連」)を結成。5月4日の五四運動70周年に再び大デモを実施すべく、準備を進めていた。5月1日には高自連リーダーの北京大生、王丹(おうたん)氏らが記者会見し、民主化推進の7項目要求を提起、政府に対話を要求した。1 M, J( M! l; u8 }, \
# g+ v8 h: o$ [' e0 n 政治局常務委の会議で、上海の「世界経済導報」弾圧事件について、胡啓立(こけいりつ)政治局常務委員が「知識人や新聞記者が怒り、さまざまな形で導報と欽本立(きんほんりつ)(4月26日総編集長解任)を声援、上海の大学情勢が緊迫している」と報告したときだ。 ?5 R& ?! }7 n; s ) f1 V& j; m3 m 趙紫陽氏は「上海市党委の処理は軽率で急ぎすぎだ。こうした雑なやり方が事態を悪化させるんだ」と批判した。しかし欽氏解任は中央の支持を得ていたため、趙氏は「上海の決定支持は維持しなければならない」と述べ、強硬派のメンツをつぶすことは避けている。 . P9 o7 I1 Z" o1 b 7 r. [# N- v5 X) {# M3 | 「真相」によると、5月1日の常務委会議は、趙氏ペースで進み、指導と対話をベースに、平和的解決を急ぐ方針が決まる。楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が発言が決め手になった。 6 C/ \5 ]+ p( q5 j' |0 f% R8 R 2 z: ^* B% q# N. Y 「今月は重要な2つの国際行事がある。4日のアジア開銀(ADB)総会と中旬のゴルバチョフ同志(ソ連共産党書記長)の来訪だ。学生運動をうまく処理できるかは国際的影響も大きく、われわれの指導力が試される。対話を通じて学生らを指導し、矛盾の激化を回避することが有利な戦略だ」; U& h. d0 I) t7 Y. Z1 W0 f
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中国が初主催する本格的な国際会議のADB総会も、トウ小平氏が情熱を注いだ中ソ正常化のためのゴルバチョフ訪中も、混乱の中で迎えるわけにはいかなかった。 1 ?* }1 t% @$ U/ l+ z! r + R; r) s9 H) c" z6 _! x 趙紫陽氏は楊主席の発言を受け、学生を教室に戻らせる腹案を話す。ADB総会前日の五四運動70周年記念大会で、政治改革の方針を打ち出すというものだった。 H( [# [' K+ `9 x7 C9 \
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「演説の重点は2つだ。第1は改革・開放と4つの基本原則(社会主義の4原則)をしっかりつかむ、第2は社会主義の民主と法制建設に取り組む。西側の多党制はやらないが、民主化は世界の潮流であり、主体的に取り組むべきだ」 ; [% b# V6 h8 p0 M; Y, y 3 H* I# M4 O7 P7 s' ^* A 学生たちの要求にこたえ、党への信頼を回復する考えだったが、学生デモを「社会主義制度に反対するブルジョア自由化」とする李首相は、「一部学生は4つの基本原則に反対し、自由化を叫んで小平同志らを攻撃、非合法活動を続けている」と激しく反発する。 - l5 E, @: [1 ] r! t1 H - X) d5 B+ B8 F7 a$ C 趙氏は「一部にそうした連中がいるのは事実だが、大部分の学生の要求は党と政府の政策に合致している。何よりも今は事態を早期収拾し、安定回復の必要を学生らに理解させるべきだ」と突っぱねた。# o& o! w: \) ^
3 |$ B0 T4 _: F* t8 L j& c6 R 会議は、趙氏と李氏が激突した後、閉会した。両氏の間に敵意が燃え上がった。 (伊藤正) + N6 |8 {" y% e4 F ) _& r+ H4 H; X9 {+ @ y, O o ◇ $ j/ }/ K3 A. |4 y6 F [# a( I. \% m w% e
【用語解説】五四運動3 Q0 n/ l# L4 E7 o! E3 `
3 L$ b# w6 Y% _. O6 B- l. {' X 1919年5月4日に北京の学生らが起こした反日愛国運動。第1次大戦後のパリ講和条約で、山東省の旧ドイツ利権を日本に引き渡すことに政府が同意したことに抗議し、学生3000人が天安門に集結してデモ行進、親日派官僚罷免や日貨排斥を要求した。これを機に各地に運動が拡大、学生や労働者がストに入り、政府は講和条約拒否の声明を出した。6 N9 R* N+ }* Y3 h4 W) S
邓小平秘录:赵紫阳向绝食学生抱歉来迟了+ }+ I* a: |. |& E. w f& J y! S
中央社 3 S9 R/ i+ B" s: Q& s/ J & ?: j, K' i4 m ] 日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十九日清晨,赵紫阳前往天安门广场慰问绝食学生,流泪表示歉意的作法激怒邓小平,决定下戒严令,学生当晚宣布中止绝食后的三十分钟,中共发表实施戒严令,新的一幕开始上场。& O' i) Y. f) `- z# o2 n. }
9 b) p9 h3 v$ H 天安门广场学生仍在绝食,但示威的主体已非学生,而是劳工及一般市民。十九日凌晨五时前,赵紫阳和李鹏等在未事先通知下出现在绝食学生前面,赵表情憔悴,拿著扩大器向学生表示抱歉来迟了。他指出现况严重,党和国家非常着急,希望学生中止绝食。 ( l' r; r* k7 r) E# O2 g' z# M+ [$ l2 C$ r" f+ H* U7 \
学生之间响起热烈的鼓掌声,并可听到呜咽声,大家争著和赵紫阳握手和签名,当时谁也未想到这是赵紫阳最后一次出现在公开场合。2 E$ [" |, j, P# M$ J3 W! m
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「真相」报导,邓小平当天早上看到电视播放赵紫阳的镜头后极为生气,立刻把杨尚昆叫到家里,指出赵紫阳痛苦的脸上流泪带给了遭到迫害的印象,违反组织原则。杨尚昆回答指出,赵紫阳的作法是公开党的分裂。邓小平表示决定下戒严令,既然赵紫阳不合作,没有其他方式可行。% Z/ v: j2 t, {+ c2 ]0 _, c
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担任绝食团总指挥的北京师范大学学生柴玲,成功地说服绝食学生宣布中止绝食是在五月十九日晚上九时,三十分后,位于北京市西北郊外的国防大学召开党政军干部大会,发表实施戒严令。新的一幕开始上场。/ @5 V W! H% y5 v1 a8 X
- ` Q z4 v9 G; x7 Y【トウ小平秘録】(25)第1部 天安門事件 戒厳令( W$ C4 B1 L( M9 [! K
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1987年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任から2年4カ月。トウ小平(しょうへい)氏はまたも改革の右腕、趙紫陽(ちょうしよう)氏を失った。しかも今度は学生たちの民主化運動に社会が呼応し、大規模な反政府運動に発展しつつあった。; O! I6 E' I0 ~ u) N5 r6 N% k5 C
5 ? b6 n, m G) z: T
「来るのが遅すぎた」# A8 }4 Z( N" u8 G' c# b
5 G. j) g, U. I" G, l' X7 X
四面楚歌(そか)の中で、トウ氏が頼ったのは解放軍であり、長老たちだった。戒厳令が決まり、趙紫陽氏が総書記辞任を表明した翌日の89年5月18日、トウ氏は長老会議を招集した。87年秋の党大会で長老らの引退を促し、終結させた「長老政治」の復活だった。 ; u, D- `! c! T6 z1 r: b& C7 O! U. y1 l 0 o9 {" Y6 l+ ]$ E 張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、長老会議にはトウ氏以下、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、トウ穎超(えいちょう)、楊尚昆(ようしょうこん)、薄一波(はくいっぱ)、王震(おうしん)の8大長老がそろって出席。趙紫陽氏を除く4人の政治局常務委員と中央軍事委員数人も出席したが、主役は長老だった。 : v$ x/ [2 o$ z3 t/ q, x3 H8 i3 _1 W! r) d5 J- L
長老たちは趙氏を厳しく批判、戒厳令を断固支持する発言を次々にする。李先念政治協商会議主席の発言はその代表的なものだった。 8 a& q( N' g/ C7 `! n+ e 0 M r1 G) ~* y* h1 [, @# B 「全国の状況は文革(66~76年)とどこが違うというのか。問題は党内にあり、2つの司令部ができたことだ。趙紫陽はデモを動乱と認めず、第2の司令部をつくった。戒厳令をやらなければ、われわれはみな(文革の時のように)押さえ込まれてしまうだろう」 % S& ?, M" P. o% ^- \! `5 O% [( T _0 z+ ?: U4 y+ e" I6 Q, ?- r2 F; n
数日後、内部通達された楊尚昆国家主席の報告で、この李氏の発言を知った人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長は、「『2つの司令部』『文革』の用語が復活!」と「六四内部日記」に記している。 . E1 K* p* @2 g% v) r. C, E/ X2 G- m4 B4 B1 O J4 d" A: \3 m |
「2つの司令部」とは、文革中、毛沢東が党内には自分に対抗するもう一つの司令部があるとして劉少奇(りゅうしょうき)国家主席攻撃に使った言葉だ。文革での被害体験から、長老たちは大衆運動を恐れる一方、毛沢東の階級闘争論を引きずっていた。 $ Y% z/ s& L3 f0 g& x1 J9 {( _" T' b3 W$ F5 H* R! R
文革では、軍を牛耳る林彪(りんぴょう)国防相(71年にクーデターに失敗、国外逃亡途中墜死)が極左派と結び、紅衛兵運動を展開したが、今度は軍は、軍事委主席のトウ小平氏が握っている。党に逆らう「階級の敵」をやっつけろ、と長老たちは高揚した。/ d2 i0 k" R1 U! a+ U$ d
1 y4 {1 [. h0 a9 f! `2 v6 B d 「真相」によると、長老会議では、5月21日午前零時に戒厳令を施行することを決める(実際には20日に布告)。部隊配置の責任者になった楊尚昆軍事委副主席(国家主席)は18日午後、中央軍事委会議を招集する。6 } K& c) Q3 T. A: R. B
7 |1 W ~4 x* R9 @秘录指出,就此,党中央统合成一个司令部,接下来只剩如何平息动乱的问题。但另一方面,民运人士这一方无领导核心,对于如何让中央撤回戒严令缺乏战术。在这段期间,正在海外访问的全国人民代表大会常务委员长万里的动向备受期待。 % o) I. f# `3 c: d8 d2 \. \2 E$ @8 z* d% n6 Q
【トウ小平秘録】(26)第1部 天安門事件 将軍の声明; P/ ~* M0 U) R- l, s
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■「絶対に発表するな」& U8 [4 l' O9 u- l7 a
1 ], f1 s8 v5 B" k( ?) r
「トウ小平(しょうへい)らは学生運動を軍隊を使って鎮めようとしたが、その願望に反し、民衆は軍を恐れなかった。だれかが組織したのでも、呼びかけたのでもないのに、市内への進入路はことごとく、人の群れがふさぎ、バリケードが築かれた」3 R) i r2 F' A3 p" M$ {
$ A, A7 b) [7 O q3 U( Z 1989年5月19日夜の党・政府・軍の幹部大会で李鵬(りほう)首相(当時、肩書は以下同)が戒厳令を予告した映像は20日午前0時半から国営テレビで放映された。新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者は同社内でそれを見た後、自転車で朝まで市内を回り、市民たちが素早く軍の進駐阻止に動く様子をこう記した(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。 6 P7 B6 F1 d) ?2 C+ ]0 Y2 T 8 M) E+ \" i8 n4 v この幹部大会に趙紫陽(ちょうしよう)総書記の姿はなかった。人びとは趙氏の異変に感づき、李首相への憎悪をいっそう募らせていく。. W; e. ~$ }' B0 c" M6 d. Y
4 _( _2 _. R$ S$ G. M 李鵬氏は20日朝、同日午前10時から北京の一部地区に戒厳令を敷くとの国務院命令に署名。それがテレビとラジオで放送されると、一般市民はしばし不安と緊張に襲われたが、すぐ行動に出た。' S: }3 \0 o; A
0 ~8 U- V6 r+ `2 b ≪18日の会議では21日午前0時から実施と決定していたが、事態急迫により繰り上げたと楊尚昆(ようしょうこん)氏が後に明かす≫ * ^0 Y' H, q! p& _0 z; F$ n2 a
その日、市内各所で北京軍区の第27軍(河北省石家荘駐屯)や38軍(同省保定駐屯)の先遣部隊の装甲車が多数の老若男女に包囲され、立ち往生しているのが目撃された。 5 s8 C0 Z2 K/ I _2 ~; j) L 2 W+ ~2 t! t/ { q' x 若い兵士たちは「人民の軍は人民を守ろう」といった老人たちの言葉に動揺していた。毛沢東がつくった人民解放軍の鉄則として、そう教育されていたからだ。1 O/ u' h! l/ {; o d7 i3 ]5 b l; J
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動揺したのは下級兵士だけではない。楊尚昆軍事委副主席(国家主席)が進軍命令を発した5月18日、第38軍の徐勤先(じょきんせん)司令官が命令を拒否する事件が起こった。) o- q8 s& g+ T. N0 b
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楊尚昆氏実弟の楊白冰(ようはくひょう)・軍総政治部主任は、89年12月の全軍政治工作会議で、天安門事件作戦中、将校111人が「重大な軍紀違反」を犯し、1400人以上の兵士が武器を捨て逃亡したと明かしている。- n1 d4 H" h$ V0 k1 @
* N# i9 Q/ _5 @% n8 _2 v8 L5 \% [ 戒厳令に対する軍内の疑問を端的に表したのが、張愛萍(ちょうあいへい)・前国防相ら8人の上将(大将に相当)が5月21日に発した次のような声明だった。 1 P/ }0 @# K, I1 E% b4 Y: o, H+ l4 Y' I2 N2 r: I
「われわれは老軍人の名において、以下の要求をする。人民の軍は人民に属し、人民と対立してはならず、人民を鎮圧してもならず、絶対に人民に発砲し、流血を起こしてはならない。事態のさらなる悪化を回避するため、軍隊は北京に進軍してはいけない」3 l4 X/ W8 a# i
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人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の著書「六四内部日記」によると、この声明は張愛萍将軍の娘が中国社会科学院の某研究員に伝え、その研究員が人民日報に連絡してきたという。- E# \( }! W' s- p1 n" R1 R
9 E+ H. u, W# V( f8 X( r3 j7 n0 L: G
8将軍の軍内への影響力は大きい。紙面に出そうということになり、陸氏が旧知の遅浩田(ちこうでん)総参謀長に相談する。遅氏は最初は「検討させてくれ」と言っていたが、30分後に「絶対に発表するな」と強い口調で命じた。* X) t6 |" ^' l4 X$ C, t, h; S
3 o+ P% |& f' ~5 W) }
掲載はできなかったが、共産党の機関紙が、戒厳令の実行に重大な影響を及ぼしかねない声明を掲載しようとしたこと自体、当時の人民日報社内の戒厳令への批判が反映されていた。( g1 j- L, d# W7 ?, N1 O n
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同紙は21日付の紙面から「北京戒厳第×日」という1日の動きをまとめた短文を毎日掲載(6月2日付まで)、その中には学生らへの支援活動などもちりばめ、党機関紙としては際どい報道を続けた。: q/ [+ b# n6 b* e7 X4 D, _
1 [" T P% k7 [1 u+ L5 p その点は国営中央テレビ(CCTV)も同様で、デモや座り込みの映像を通じて、人びとは学生らに共感を寄せ、学生とともに部隊の市内進軍を阻止する中心になった。( X. I, q$ l8 R& }( L# N8 k i9 }' R+ Q
) r( Z6 O( q7 ?7 F. k9 e4 J 市民の抵抗、将兵の動揺、軍長老の反対…。戒厳令を布告したものの、直ちに武力で秩序を回復するとのトウ小平氏のもくろみは崩れ、社会全体と対抗していく。しかしトウ氏は、焦ることなく、武力行使に向けた態勢を徐々に整えていった。4 j0 E- ~# W; s8 y! ~
, y% p, u, _8 \
「トウ小平年譜」によると、戒厳令布告当日の20日午前、トウ氏宅で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。会議出席者は、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、楊尚昆、王震(おうしん)の各長老と李鵬、喬石(きょうせき)、姚依林(よういりん)の3常務委員で、戒厳令に反対した趙紫陽、胡啓立(こけいりつ)両氏の名はなかった。 & o: N5 w, d% W9 u, U+ P+ P ( E5 M% z. ]9 I' k% I 「年譜」には、この会議でトウ氏が江沢民(こうたくみん)上海市党書記を総書記に昇任させる提案をしたとある。趙紫陽総書記と胡啓立常務委員は停職になり、失脚したことが間もなく分かる(解任決定は6月24日)。- M9 R1 U; u; i
9 v4 C- i' \" @5 e5 _ 「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、トウ氏がこう話した。% W/ a$ t. Y6 ~$ p# w
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「問題の根は党中央にある。党内には2つの司令部ができた。この処理に当たり、(学生デモを動乱と規定した)人民日報社説は正しかった。譲歩するかどうか。譲歩すれば中華人民共和国はなくなってしまうだろう」 ]% R1 D. B. E/ y0 D5 Z : y$ p/ a3 @0 N1 s) V 党中央は1つの司令部にまとまり、あとはどう騒ぎを鎮めるかだ。 6 @1 e, }* g# t' J# M" s & z2 G9 J- S; a1 q: W+ c) | 一方、運動側は指導の中核がなく、戒厳令を撤回させる戦術も決め手を欠いた。 3 t+ v+ {+ ^- l- x9 ?9 Z0 i, p) y0 d& `* e, I7 ~/ k
そうした中で浮上したのが、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会常務委員長への期待だった。(伊藤正) " C2 g/ O2 p4 S; O! h* ^3 ^3 m7 N& I. k8 ^' i- B6 E
◇ 1 W8 v- _- \1 c) d4 Q4 \" N# b& t' s$ \4 ], J6 o
【用語解説】戒厳令# l4 @4 q$ W! g0 f5 U
( p- p+ V8 H8 Q2 B3 B 暴動などの緊急事態発生時にとられる非常措置で中華人民共和国憲法に規定。全国または省・自治区・直轄市への戒厳令は全国人民代表大会常務委員会が、その一部地区の戒厳令は国務院(内閣)が決定する。89年3月にチベット自治区のラサで騒乱が発生した際にも発令された。96年に戒厳法が公布され、国家に危害を及ぼす集会・デモ、ストの禁止や報道管制など具体的に規定した。; v' G7 K- H5 _* s' a* t
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(2007/03/11)
! B; q0 t: s& a3 g' k 万氏の外遊出発前に、6月20日前後に予定していた常務委会議を繰り上げ開催しようとの動きが常務委員を中心に始まる。 8 I- U/ K0 J' k4 J c) |: i+ ?; z5 t+ l- y# d( s& W
万里談話が伝わった5月17日は100万人デモが行われ、トウ小平(しょうへい)氏や李鵬首相の強硬姿勢を批判、絶食学生への声援がピークに達していた。政府に対話を通じた事態の平和的解決を促すことが、緊急会議招集呼びかけの当初の狙いだった。 5 S$ d9 ?5 G7 c6 i$ x/ F! u, L/ h# m
しかし戒厳令後には、政府への対抗色が強まる。例えば21日に胡績偉(こせきい)・元人民日報社長ら40数人の全人代常務委員が署名、発表した緊急会議提案書は「法的手段を通じ人民の意思を反映させる」と述べていた。某常務委員は「李鵬をクビにする」と語ったものだ。 # L' z8 ?; Y' Q 5 c2 b% Z. p( c* q. i% | 党中央の指導下にある全人代が党の決定を覆すことはあり得ない。が、万氏が帰国して全人代常務委を招集すれば、戒厳令反対の声がさらに強まり、形勢を逆転できるとの淡い期待が趙紫陽(ちょうしよう)総書記周辺にあった。/ }) E5 M' V6 N7 _$ Q+ b
* u! H4 k: r, F ~6 a7 ?4 S. y
趙氏を支持するコンピューター会社「四通集団」傘下の四通社会発展研究所の曹思源(そうしげん)所長が、緊急会議招集を胡績偉氏に働きかけ、自ら各常務委員の署名集めに奔走したのはその一例だ。 $ t! L$ a4 ~) F b* n: g" K% o* _& S6 {* O
また張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、趙紫陽氏は5月21日、秘書の鮑●(ほうとう)氏を通じ、万里氏に早期帰国を要請したという。万氏は趙氏の長年にわたる改革の同志であり、外遊前には趙氏の柔軟路線を支持していた。) U4 o4 C( h8 Y' _, K4 i) T
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万里氏への期待は社会各層に広がり、学生たちも同様だった。学生たちは25日に万氏の帰国を歓迎する大デモを計画さえしていた。 * |2 V- o8 j' ]3 X7 Y& N* ^8 m e& {, u) h. [, @. }( s5 D! L
しかし期待は裏切られる。万里氏は5月25日未明、日程を繰り上げ帰国したものの、帰着先は北京ではなく、上海だった。「病気療養のため」との新華社電を信じる人はいなかった。2日後、万氏は、党中央の決定への支持表明をする。 R: @) J+ ?4 U
9 n) C# s# P' R5 O2 ?0 ? 「真相」によると、トウ小平氏の指示で、党中央は22日、トロント滞在中の万里氏に「米大統領との会談(23日)終了後、速やかに帰国し、しばらく上海で休養するよう(との指示を)決定した」と至急電を打っていた。同時に、上海の江沢民(こうたくみん)書記を23日、北京に呼び、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が江氏に対し、万氏への説得工作をするよう指示したという。3 q, m& T _3 S' L% A+ F/ U
9 i, d/ p* q- a4 E0 Y 《万氏はこの件を含め、天安門事件に関しては沈黙を守っている。趙紫陽氏は97年7月、友人の宗鳳鳴(そうほうめい)氏に万氏への怒りを表し、事件への態度を明確にすべきだと述べている(「趙紫陽軟禁中的談話」)》1 k, E3 _/ e l2 R/ G m5 |3 \& E7 I
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万里氏の帰国問題は、トウ小平氏ら長老のリードの下、李鵬氏ら強硬派が事態をコントロールしつつある表れだった。各分野で締め付けを強化、天安門広場の「清場」(学生一掃)への準備が進む。 ) @! w, [3 D+ y: M* y 6 L7 V. p/ r9 L6 y/ h 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、新成立の「宣伝協調小組」(組長は王忍之(おうにんし)中央宣伝部長)が5月23日、各メディアに対し、すべての報道は「(戒厳令を予告した)5月19日の李鵬、楊尚昆講話と一致しなければならない」と通達した。 - D6 P+ u+ x. Z$ h , z$ F& h D1 N その23日、北京では戒厳令後最大の数十万人デモが行われた後、各官庁、職場にデモ禁止令が通達された。24日以降デモ参加者は激減する。 ) d% V2 `0 Y, w9 Z 6 ^% v% @' K% h: o: ^2 w" t, j 楊尚昆氏は24日、全軍拡大政治工作会議を開いて、戒厳令に至る経緯を説明、動乱を制止し秩序を回復しなければならないと思想工作の徹底を図る。 1 c# ~3 b! q4 O2 n( e- g4 v4 l; |6 V2 _
長老らの動きも顕在化した。陳雲(ちんうん)中央顧問委主任は、23、24両日、李先念(りせんねん)政治協商会議主席、彭真(ほうしん)・前全人代常務委員長、王震(おうしん)国家副主席、薄一波(はくいっぱ)顧問委副主任氏ら長老のほか軍長老と会談、薄氏にこう話す(「陳雲伝」「陳雲年譜」)。 . v* J- C) X' V ; {6 T- }% r( h- t# R6 Y- M 「この局面で、引く余地はない。(デモを動乱とした)人民日報社説は、もう少しブルジョア自由化反対を言うべきだった。今やわれわれ老同志が発言しなきゃいかん」 4 s3 \9 ~ L4 m5 E' w! R1 r8 P" Q5 @3 G% s3 _- l
陳雲氏は26日、顧問委員会常務委会議、李先念氏は27日、政協会議主席団会議をそれぞれ招集して演説、彭真氏も26日、全人代副委員長7人と座談会を開き、戒厳令支持で意思統一を図った。% a7 J& j( q4 |" f/ h% {
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知識人たちは、武力行使が近いと予感し、学生たちに広場撤収を説得し続けた。 6 V4 [% b4 F( S5 ^; [$ i" @9 O " I3 M2 g% H: p いったんは撤収方針が決まるのだが…。(伊藤正)4 D3 |" Q& D- r- k2 S; F4 N
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■全人代常務委員会 国家の最高権力機関とされる全国人民代表大会(全人代、国会に相当)の常設機関。委員長、副委員長、秘書長、委員で構成され任期は5年。年1回開催する全人代の閉会中、憲法の解釈・実施、法律の制定・改正、経済計画案や予算案の修正、戒厳の決定などを行う。 2 y- J# a f+ P, ?. r$ H4 {, P6 |( I8 V2 p
●=彫の周が丹 9 q0 a6 J3 b' O5 F" q; q- E( k# B; V2 `
(2007/03/13 )
邓小平秘录:邓已无退路 天安门清场8 l0 m; w9 \" s( r! F' q7 G* \
(中央社记者张芳明东京十五日专电)日本“产经新闻”连载中的“邓小平秘录”今天报导,邓小平面对天安门广场的民主示威运动表示已无退路,指示在一九八九年六月二日晚上由戒严部队开始实施清场计划,在两天之内完成这项作战。 / W! ^+ J% z/ v P! p o' }4 G% x& Q, n: B4 o7 t& u; C
秘录报导,“邓小平年谱”并无记载一九八九年五月二十一日至三十日的行动,张良编著的“中国六四真相”指出,五月二十七日,中共召开元老会议,决定由江泽民接替下台的赵紫阳就任党总书记,除江氏外,李瑞环和宋平也升任政治局常委和李鹏、乔石及姚依林构成六人体制。江泽民于五月三十日被叫到北京,三十一日被邓小平任命为下任党总书记。 6 U( u; d( u" T& p( B" g元老会议两天前的二十五日,新华社香港分社主任许家屯在中南海和国家主席杨尚昆会谈。杨表示赵紫阳后任尚未定,但不会是李鹏。他并指出,邓小平表示已无退路,决定选择戒严令,动员军队平定动乱,希望许家屯支持。许一时不知如何回答,随后表示即使动员军队也不应流血。杨立刻表示,不会有流血事。; ^# v6 ?6 v5 I
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“真相”报导,二十七日的元老会议,就平定“动乱”作战讨论实施时期时,杨尚昆主张不宜再拖下去,但绝对应避免流血。陈云主张虽应极力避免流血,但五月底宜解决问题,邓小平也表示不可再拖下去。 f1 S. l: @0 n 3 y1 [1 r9 m1 H3 D+ r五月三十日,中用美术学院学生制作的“民主女神”树立在天安门广场,受到市民瞩目,但是静坐的学生已减至五千名,在大学重新开课之际,学运由于内部分裂而逐渐消失。北京师范大学刘晓波等提议展开接力绝食的持久战, 1 Z: h9 s. b5 w/ V9 h h1 x/ h7 e. [, b/ d9 X/ \5 q6 I
包遵信在著作“六四的内情”指出,他本人反对刘晓波的建议而王军涛则表示赞成。六月二日傍晚,刘晓波和台湾歌手侯德健等四人开始绝食,广场恢复了失去一段时间的热烈气氛。 ; Z- F, c3 x- b# [4 ~7 B: x" D0 L, R% Q( z& c7 v+ E
“真相”指出,二日上午,邓小平等六名元老和李鹏等三名政治局常委召开会议,李鹏说明天安门广场的现况后,元老们激怒,首先放炮的是王震,要求逮捕反革命份子。李先念也强调一刻都不可再拖,提议当天晚上开始清场。最后,邓小平表示赞成大家的意见,提议“戒严部队指挥部今晚开始实施清场计划,两天之内完成。”* ?/ A6 \- y" E2 b: L7 j, {
7 D6 I7 L! K+ s) A0 n【トウ小平秘録】(29)第1部 天安門事件 平定作戦 - @6 u) v' a2 A0 |! L8 \
■既に退路はない ' ]" y; U, x- a% D6 f$ Y' g$ p
; q+ V5 u5 O. ?7 W U. ]. I
トウ小平(しょうへい)氏の言動に関する公式日誌である「トウ小平年譜」には、天安門事件前の緊迫した状況下にあった1989年5月21日から30日までの記載がない。この空白の10日間に、政治局常務委員会の新体制と学生デモに対する武力行使方針が決まった。いずれも長老会議という密室談合の結果だったため、記載しなかったようだ。 . a3 Q. {, L1 W5 W9 G9 ^- v _2 p% V/ ]. E, k# |% o- {8 C* \: I) e+ S
張良編著「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、5月27日夜、長老会議が開かれ、指導部人事が話し合われた。趙紫陽(ちょうしよう)、胡啓立(こけいりつ)両氏の失脚で指導部の再建が急務だった。21日の会議では、趙氏の後継総書記候補に、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)両政治局常務委員(肩書は当時、以下同)と江沢民(こうたくみん)上海市党書記(政治局員)が挙がっていた。 ( W$ D5 x7 {) }0 _: [1 x5 ~8 E* D+ e, m# K7 K, z8 Y
そのときは意見を保留していたトウ小平氏がこの27日の会議で陳雲(ちんうん)中央顧問委主任、李先念(りせんねん)政治協商(政協)会議主席が推していた江沢民氏を「適格と思う」と発言、李鵬氏を推す王震(おうしん)国家副主席、喬石氏を推すトウ穎超(とうえいちょう)前政協主席も同意し、江氏に決まった。 ( P5 |2 {: A) M( [9 h3 n( Q# e8 K# F4 z! d3 Y( s
政治局常務委員には、江氏のほかに李瑞環(りずいかん)天津市党書記、宋平(そうへい)党中央組織部長の両政治局員が昇格、李鵬、喬石、姚依林(よういりん)3氏と合わせ6人体制になった。' [+ k- n: {) V7 p2 ]
3 ?; j: W+ D1 o この会合の冒頭、トウ小平氏はこう話している。8 O2 k6 D' Z1 q. |
7 G h. ]) k3 {$ Y4 F% h7 {
「新指導部は改革・開放を真に実行し、人民の信頼を得なければならない。改革・開放を堅持すると人民が認める人物を大胆に起用し、われわれが誠心誠意、改革・開放を実行する気だと人民に感じさせねばならない」+ f, _1 a! F3 \% y' i7 k
$ Y! i7 |+ R; C: Q- A, f. S% J トウ氏の頭は既に、動乱制圧後に飛んでいた。改革・開放を継続することで国民の信頼を回復する。それには、不人気の李鵬氏ではなく、「新しい顔」が必要だった。 * O2 d' v, Y0 y6 I / g1 U2 r' A s! u- g 江沢民氏は5月30日に北京に呼ばれ、31日、トウ小平氏から次期総書記を命じられる。トウ氏は続いて、李鵬、姚依林両氏と会い、改革・開放を徹底、腐敗を撲滅し人民の信頼を得るよう話した後、次期総書記に江氏を決めたと告げ、一致協力するよう指示した。 & W3 u2 [& f% T' i X3 f 8 q5 |3 O! U/ @2 C8 d- p 《「トウ小平年譜」は、李、姚両氏への講話を掲載しているが、江沢民氏との面談の記述はない》& I! y0 H+ k3 G" Q5 c
4 Z, p: t( `; K4 ?6 {1 X 長老会議2日前の25日、新華社香港支社長の許家屯(きょかとん)氏は中南海で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と会う(「許家屯回憶録」)。 3 Z! E: O! s: `1 K/ Y- Q' w ! G, K+ o- p! y, O- l 楊氏は趙紫陽氏の停職を告げ、後継者は未定だが、「李鵬はありえない」と断言した後、言う。; L% I5 C" g/ v! u7 Q& W: h1 z" x/ D
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「トウ小平同志は、既に退路はないと話し、戒厳令を選択、軍を動員して動乱を平定することになった。党中央の決定を支持してほしい」3 ]3 m! ~6 e6 u
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許氏はしばらく言葉を失った後、言う。5 V8 }7 i4 G# I$ n
$ |' Q5 x# G2 Q v& O 「戒厳部隊が進軍を開始した。武警のジープはその先陣だ。部隊の進攻を断固阻止せよ」 9 m4 V" M- s9 m) _7 r1 i/ @! f( Z* Y
情報は瞬く間に広がり、市民たちは軍の進入阻止地点に殺到した。そこへ丸腰の兵士たちが行進してくる。市内各所で兵士たちは包囲され、身動きできなくなった。 + e4 L2 z2 Q4 F1 b: X9 [" d7 _2 V8 J2 I7 _- X: Y* B
3日未明、東部の建国門近くでは、数十人の兵士が路上に座り込み、取り囲んだ市民らから「人民の軍は人民を愛する」などと説得されていたが、一部では兵士への投石や暴行事件も発生した。 % y" L6 O# y' F 1 L2 @9 P% F5 E+ a6 D& u& ^ 新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者も3日早朝、西長安街の西単で、私服の将兵を満載した大型バスが立ち往生し、市民たちが「北京人はあなたたちを歓迎しない」とシュプレヒコールしているのを見ている。(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。8 ^: x6 Q8 [6 @, b: P" z' o8 q! X
8 r9 u3 M) ^, r f. }% V5 o 3日の昼間、西単周辺では、戒厳部隊を守ろうとする防暴警察(機動隊)と市民の衝突事件が頻発、午後には催涙弾が使われる。秘密入城作戦は失敗に終わった。& G. l1 z) p1 w/ J
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張良編著の「中国『六四』真相」)よると、3日午後4時、中央軍事委が緊急会議を招集、楊尚昆(ようしょうこん)軍事委副主席(国家主席)が「事態はわれわれの善意の及ばぬ段階に入った。断固たる措置を決めねばならない」と述べる。3 F6 w- y, Z+ g. U- P
邓小平秘录:六四悲剧是学运卷入权力斗争 - R, R- k) A# L ! \9 W- F3 x2 P8 D(中央社记者张芳明东京十八日专电)日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,邓小平推动改革开放,但坚持共产党独裁的毛泽东遗训,天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败运动被卷入中共保守派和改革派之间的权力斗争,而招致最后的血腥镇压。: S8 s" B: D+ q* {% Q; C: U. Y
2 ^6 g' G+ `1 |: @「秘录」指出,一九八九年六月的天安门事件今年将届满十八年,中国不知道「六四事件」的世代增加,北京市民也将当时的体验关闭在记忆的抽屉里,中国媒体在上个月刊登邓小平去世十周年的特别报导都未提「六四」,有关人士指出这是中国报导管制的结果。- z! B. O" V. j3 U) D8 y
9 C- L0 l3 k. _9 v+ \" x邓小平在天安门事件后的一九八九年六月九日接见戒严部队干部致词时指出,这次的风波迟早要来,那是由国际的大气候和中国本身的小气候来决定,不是人的意思可以改变。8 V7 P @, S! i8 ^- J& G
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邓小平所提的「大气候」是指一九八零年代后半,戈巴契夫的上台加速苏联和东欧的民主化及政治变革的潮流,「小气候」则是指中国自一九七零年代末期改革开放以来,政权内外升高对同样改革的要求。 ) ~( j6 m) [! s+ R3 b* S2 H1 p4 y1 ]2 c# ?! {( o
一九八九年东欧的社会主义政权相继崩溃,一九九零年苏联也放弃一党独裁,次年苏联瓦解,但是,邓小平与内外潮流背道而驰,以武力粉碎民意坚守一党独裁的社会主义。他在接见诺贝尔奖得主李政道时强调,中国包括共产党领导的四项基本原则,指责胡耀邦和赵紫阳未实行而犯错。* R& y$ Z* \' y+ N8 N+ p" M) l
2 v7 K) l& k0 a. T- r, |2 F邓小平推动的改革开放政策是以市场经济化和国际化为基本的经济建设,与毛泽东路线是不相容,但是,他坚持的四原则就是毛路线,特别是核心的「共产党领导」的一党独裁是毛遗训,成为保守和改革斗争的种子。 : d4 w% S4 Y; h1 x& d. u0 g( A7 F3 t& w
一九八零年代,中国的经济和社会出现激烈的变化,人民意识思想倾向欧美,但是一旦发展成为对党的批评,邓小平和保守派联手以四原则为盾牌展开镇压,为的是坚持政治权力和生活特权的金字塔型党统治制度。& T; W8 r& y2 Z, F- `* W3 h
, n% j3 ?: w* @7 k在一党独裁的制度下,一九八零年代官僚腐败大增,一九八九年四月胡耀邦去世后引发的学生运动除要求民主化,也反对腐败,邓小平等元老和李鹏的保守派将之视为企图颠覆党领导体制的挑战。 & ^. |) y6 D7 v- x1 m5 A; t. P2 W! [5 x f! t4 D3 R
天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败的运动被卷入保守派和改革派之间的权力斗争,不少人认为邓小平是被保守派的谋略所利用。邓小平为何对民运决定使用武力?尚有值得检验查证之处。. u+ s" i, l7 ~- a5 L1 Y
5 l I4 s( ]0 d) ?邓小平在讲话属性中要求不推动改革开放者下台,矛头是指向保守派和党总书记江泽民等中共中央领导人,他南巡的手法类似毛泽东一九七一年七月至九月的南巡。毛泽东是为对付具有野心的林彪,后者最后在逃亡国外途中于蒙古坠机死亡。 ) k$ ~$ V- D6 J5 f# x 5 ^9 o" F/ i" b3 K: c: V报导指出,邓小平南巡之际,国家主席杨尚昆如影随行,一九九二年一月二日,两人一起和中央军事委员会副主席刘华清和广东军区司令官朱敦法会谈,具有夸示邓小平仍掌握军权的作用。 , [; M! p' y4 i/ b6 {
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【トウ小平秘録】(34)第2部「南巡講話」 保守への警告 . ^ |6 a9 m- p+ H$ m + [0 j8 D* ]4 v* ]& `: j, I- W2 R1992年初めのトウ小平氏の南方視察の名目は、「休息」であった。トウ氏の事務所は最初の滞在地、広東省党委員会に対し「(地元指導者の)現況報告は不要、題辞は書かず、報道は禁止」という3原則を事前に通告、「家ー旅行」を装った。 7 T7 ?, k" E5 t6 h7 C 3 c& ]/ d% w( [+ {3 {手法は毛沢東に似る 7 D9 i( _- E$ [4 F5 o: W- F 0 m: | w# b9 w1 F- R9 I9 G. X しかし、トウ氏一行が同年1月19日午前に深セン入りして以来、11日間の広東省滞在を密着取材した新華社通信広東支社の高級記者、牛正武(ぎゅうせいぶ)氏(肩書は当時、以下同)は、田炳信(でんへいしん)・元新華社記者の取材にこう話している(田氏著「トウ小平最後一次南行」による)。 ! I0 M2 e/ g, u) L2 W7 f6 t1 u0 f3 I) ~2 n- V0 e6 o
「トウ小平の講話を聞いて、彼の広東訪問は事前に考えをめぐらし、準備をしてきたと分かった。即興の話ではなく、熟慮をしたものだった。それは単に南方の人たちだけでなく、北京に、全国に、そして世界に向けて話したのだ」 5 g1 Y& \8 c2 i6 t% Q7 F 1 i1 [* `1 B+ g: _- B 牛記者が広東省党委の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長から取材を要請されたのは、トウ氏が深センに到着した当日だった。牛氏のほかに、地元の南方日報と広東テレビの記者も同じ要請を受け、取材に加わっていた。 5 w- B8 m8 V3 v% ~+ Q, j# d' L4 N, K2 k9 d6 V+ |, r
陳副秘書長の一存でできることではない。トウ氏事務所の王瑞林(おうずいりん)主任が、いずれトウ氏の講話をまとめて報道させることを計画していた可能性が高い。 V0 L1 ]5 R M- h/ a
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講話の内容は後に紹介するが、「改革・開放をやらない者は下野せよ」といった極めて衝撃的なものだった。その矛先は保守派イデオローグだけでなく、江沢民(こうたくみん)総書記ら中央の指導者にも向けられた。 2 g( ^/ Z3 `6 q6 u$ h+ i / W9 S* F8 ]$ I3 h トウ小平氏は91年初めの上海指導者への談話以来、それに近い警告を発してきたが、改革・開放に抵抗する勢力がいるという状況に基本的な変化はなかった。南方視察はより強い警告を出す必要があると判断した結果だった。 / |% N+ W* M+ q* G. F6 t8 ] + x+ s$ x+ `# u1 `' X このトウ氏の南方視察は、71年7~9月の毛沢東の南方視察と手法が似ている。毛沢東は当時、「後継者」に指名した林彪(りんぴょう)国防相の野心を知り、極秘裏に南方各地を回って、林らを厳しく批判する講話をする。 . V& ]& M) B' d% E6 [ 0 X7 Q4 j% k2 O5 P6 l/ p& b6 p 毛沢東が直接、林彪を攻撃しなかったのは、軍を握っていた林を警戒しただけでなく、講話が中央に漏れ伝わることを計算し、林に近い極左派にも警告、林を孤立させる狙いがあった(林雨星著「林彪全伝」など)。2 Y! @" v/ t4 C% y3 P3 e8 X5 O; p) \
1 E8 T6 l9 s) k5 I8 m, P 毛沢東は林彪が謝罪すれば、一定の処分ですます考えだったという。しかし毛の残酷さを知る林彪らは、毛暗殺を謀って失敗、9月13日、国外逃亡の途中、モンゴル領内で墜死してしまう。( F3 G7 `& X* W# ~4 P: }
6 N3 i9 ~' {7 r 林彪事件である。 - x2 N9 E: H9 I- X' ?# V+ H* e3 U, s# }7 [4 m$ | L8 W. B7 D
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冒険せず何もできぬ! n% e8 }' V+ Z
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トウ小平氏の南方視察(1992年1~2月)も、党中央の保守派への警告を狙いにしていた。が、トウ氏は2年前の90年、国家中央軍事委主席を辞任、一党員でしかなかった。しかも「求められればアドバイスはするが、中央の仕事には口をださない」と公言していた。* W: p# @' b2 a* W5 y
. q/ ^9 A d: W- u: f1 y 元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は、著書「中国改革年代的政治闘争」の中で、トウ氏の南方視察には安全上のリスクがあったと書く。なぜなら中国の伝統的勢力である保守派攻撃が目的だったからだ、と。 3 Z2 @0 n. e6 p! |9 C$ _) ^4 f) | 8 T0 t- N9 d8 [. Z- v" }! T トウ氏は、身辺の人の懸念にこう話したという。 ! f0 \: |1 h4 X; R$ v- w 7 e( ?7 j( t5 g 「心配するのは道理がないわけじゃない。だが、わしは冒険してみようと思っている。冒険せずして、何も成し遂げることはできない」) U! G4 K/ J9 @6 O: X" q
9 Y ~* b: |: y( h 後に公開された南方視察の記録映像には、トウ氏に影のように寄り添う1人の重要人物が頻繁に登場する。トウ氏の数十年来の盟友で軍の実力者、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席兼中央軍事委常務副主席だ。 5 R. \ ~- |8 N: ` \! E F : D2 T6 @7 v% \9 [ L. a トウ氏の言動日誌である「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は南方視察計画が決定する直前の91年12月28日、自宅で楊尚昆氏と会話している。その際、トウ氏が楊氏に計画を明かし、同行を依頼したとみられる。2 l8 w" b* \( p. P1 b) u* w% u
; g+ _( D, A% ?' h トウ氏は、深センに到着した翌日の1月20日、楊尚昆氏とともに、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席や広州軍区の朱敦法(しゅとんほう)司令官らと会見した。劉、朱両氏とも、かつてトウ氏が政治委員を務めた第2野戦軍の部下だった。 0 x1 A1 o, {4 `: q* S ; C9 a' V$ m7 V) b, O# q' Q3 d 劉氏がこの時、深センにいた意味は深長だ。2人の軍事委副主席がそろって北京を空け、トウ氏の元にはせ参じたのである。それはトウ氏が依然、軍の支配者であることを誇示し、安全上のリスクなど消し飛んだ。 % t1 q$ y% }5 _8 I- t H0 W4 L5 \) S G @, \
天安門事件が世界に教えたのは、中国の最高権力は、共産党トップの総書記ではなく、軍権を握る中央軍事委主席であることだった。事件後の89年11月、トウ氏はそのポストを江沢民氏に譲った。9 T) R) X( E# T. k% y5 g5 G
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しかし、軍権は軍歴のない江氏ではなく、楊尚昆氏とその弟の楊白冰(ようはくひょう)軍総政治部主任の手にあった。楊白冰氏は89年12月の軍の会議で「全軍は改革・開放の護送船団たれ」と演説、トウ氏の信頼を得ていた。 & E' u9 N* u5 x( _: k: q$ o/ p" `) E8 s- ]
トウ小平氏は天安門事件に続いて、「人生最後の闘争」といわれる南方視察も軍をバックにしていた。その必要があると認識するほど、トウ氏の危機感は強烈だった。1 e8 X0 {2 s2 V2 v
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それを知るため、次回からしばらく天安門事件後の情勢を追う。(中国総局長 伊藤正) 1 S: T1 Y/ @0 o5 s7 e2 B 1 a I: g4 Z' v& k, x; O, U! k■林彪事件 1969年に毛沢東の後継者に指名された党副主席兼国防相の林彪が71年9月13日、夫人の葉群、息子の林立果(空軍作戦部副部長)らとソ連への逃亡途中、モンゴル領内で墜死したとされる事件。70年夏の中央委員会総会で、葉群らが国家主席に林彪を就けようとして、毛に批判されたのが発端。林立果がクーデター計画を立案、71年9月、南方視察中の毛暗殺を企てたが失敗、河北省の北戴河から空軍機で逃亡を図った。作者: 日月光 时间: 2007-4-21 09:51
トウ小平秘録】(35)第2部「南巡講話」「不在」情報 6 Y; S. t: F1 Y$ x8 [% t/ {; N O5 h* K
1989年6月3日夜から4日未明にかけ、中国の首都北京で戒厳部隊が学生、市民を武力鎮圧した天安門事件は、国際社会を震撼(しんかん)させた。% k* c1 n3 w- \6 I
+ w4 z" o# t8 S: J+ B* U p 米国をはじめとする西側各国を中心に、中国政府を非難する声明が相次ぐ。国際協調によって経済建設を進めてきたトウ小平(しょうへい)氏の改革・開放路線からは信じられない出来事だった。% O& t' o- p) M3 u; X. c8 A
( `! G" D2 ?9 r 本連載の第1部「天安門事件」で書いたように、胡耀邦(こようほう)前総書記(肩書は当時、以下同)の死去(89年4月15日)を契機に学生運動が始まってから「血の鎮圧」に至るまで、トウ小平氏が決定的役割を演じた。' v) U- W2 H, q+ r
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しかし、事件直後には、武力行使はトウ小平氏の決定ではないとの見方が少なくなかった。それどころか、トウ氏の軟禁説、重病説や死亡説まで流れていた。当時、私が支局長を務めていた共同通信北京支局にも真偽不明の情報がさまざまな形でもたらされた。 $ w6 \' `: F+ p* N 1 z4 c* s/ ~; F3 h- X 6月6日夜、取材から戻った若手記者が「トウ氏は5日午後11時35分死亡した」との「確かな情報」を話し、速報の許可を求めた。ソースは以前から接触のあったトウ氏事務所の関係者と称する男という。! _2 j! b2 G# t8 s) G' n6 [! Y7 {
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私は記者に、男に再度会い、目の前でトウ氏事務所に電話させ、確かめるよう指示。その結果、情報は虚偽と判断し「大誤報」を免れた。報道機関が飛びつきそうな情報には、この種のデマが多かった。 5 y$ O R( }& |3 a: |) I" l 3 v0 y& V2 b' J5 m, E その原因の一つは、トウ氏が5月16日にゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会談した後、一切動静が伝わらなかったことだ。党中央や軍内で分裂が起こり、内戦に発展する可能性もあるとの観測も呼んだ。4 f3 M+ s) U# R: J0 b" V- e$ K6 V
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そうした観測を拡大させたのが6月7日、戒厳部隊が北京市・東長安街の建国門立体橋付近で、建国門外外交官アパートとその南側のビルの両方から銃撃を受け、兵士4人が死傷、応撃したという事件だ(新華社電)。; W( K7 F6 A0 Z* q2 ~- I, _ e" O! k
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一般中国人は入れない外交官アパートからの発砲はあり得ない。この約2時間後、十数台の軍用車が威嚇発砲しながら東長安街を移動、通りに面したアパート十数戸が被弾した。西側軍事筋は当時、最初の銃撃は軍内の反乱分子によると分析、外国人に矛先が向けられる可能性を指摘した。$ j3 c7 c3 [* Y" n
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べーカー米国務長官は翌8日、「中国の権力闘争は継続中で、情勢は不透明」と語り、中国に滞在する米国公民の一斉引き揚げを勧告。日本など各国もそれに続いた。最高実力者、トウ小平氏の「不在」が各国の不安を一層募らせた。$ A, V2 D0 ~! H3 a& d
【トウ小平秘録】(37)第2部「南巡講話」 米中秘密外交2 Q8 x7 S* D" @& C( E
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■へたな妥協はできない" C' I, e, g/ O j
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米国の対中政策は、ダブルスタンダード(二重基準)とよくいわれる。1989年6月4日の天安門事件後、ブッシュ米大統領(現大統領の父親=肩書は当時、以下同)による対中秘密外交も例外ではなかった。共産党政権による最悪の人権蹂躙(じゅうりん)を声高に非難しながら、その政権と陰で手を結ぼうとしたのだから。- n9 y) i3 S) x
# \: y: A" W% r3 z! b. I 当時、中国外相として対米折衝の全過程にかかわった銭其●(せんきしん)氏は著書「外交十記」で、89年7月のスコウクロフト米大統領特使訪中に始まった秘密外交を詳述している。 Y+ R4 R5 N% j! z% e' H$ F/ X4 E 5 K f0 j1 ]. g$ e% ` 銭氏は、米国が密使を送ってきたのは「中国を制裁し、孤立させることは、自国の世界戦略と長期的利益に合致しないと認識していた」ためと見抜く。しかし対中制裁は中国に重くのしかかっていた。 q+ @2 O9 l2 X0 p$ \4 r J3 d. T- v% |5 M
スコウクロフト氏とトウ小平(とうしょうへい)氏が人民大会堂で会談したのは7月2日午前。トウ氏はその直前、李鵬(りほう)首相と銭氏に「今日は原則問題だけにし、具体問題は話さない。米国の制裁は気にしないし、われわれを脅し倒すことなどできない」と話す。7 I# P6 h' P. W+ z2 U( f( i+ @. e
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銭外相が、7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)でどんな制裁が決まるか分からないと話すと、トウ氏は語気を強めて言った。 % U& y4 g$ ^& U$ L ' s9 L( _8 t8 k) O2 z$ B 「7カ国といわず、70カ国でも(制裁は)無駄だ。中米関係はうまくやらねばならないが、恐れてはだめだ。中国人の気概と士気を持て」 ' e$ d2 h, _* L' j5 O3 a+ e: B6 O. m) ?* t8 G7 O8 t
トウ氏はスコウクロフト氏との会談を極めて重視していた。対米関係の修復なしに、改革・開放の未来はない。しかしそのために原則問題では絶対に譲れなかった。 + B( q9 I* l; \% s; d4 c I/ Y* n) O: F6 g: E% E' E6 s" \3 h トウ氏は、会談で「中米関係は危険な段階にある」と切り出し、米議会の強硬な動きを「米側にはそれが破滅的方向に発展するのを止める兆しがない」と話す。3 w: J% x+ D1 U" P7 Z
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トウ氏は、「幸いにも米側にはブッシュ氏、中国側には私らのような冷静な指導者がいる」とし、双方の利益に立って主張し合い、決着させようと述べた。だが、「問題は米側にある」と指摘し、こう続ける。 ; y, G' k0 ~6 w' n6 t) H4 ^1 h1 J0 l3 A
「中国は米国を傷つけてはいないが、米国は広範囲で中国の利益と尊厳を傷つけた。中国には『鈴を付けた人が鈴を外さねばならない』という言葉がある。米国は、実際行動で中国人民の信用を得、火に油を注がないようにしてほしい」+ }/ Z2 \( ~" i7 [* _" @% e% F
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「鈴」とは、対中制裁を指す。トウ氏にすれば、天安門事件は中国の内政問題であり、それに対する制裁は内政干渉にほかならなかった。 : L- k1 \1 }7 U- e9 o, H0 y& i# q3 _4 L
中国は6月23、24両日、党中央委員会総会を開き、天安門事件を正当化する総括をし、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を解任、江沢民(こうたくみん)指導部が発足したばかりだった。それを決めたトウ氏がへたな妥協をする余地はなかった。 ; q" u* r$ v- H: A, ]$ l. ^# J, I ) y/ l1 `8 \1 v; U& N* T 「中国はいかなる内政干渉も許さない。どんな結果になろうと、中国が譲歩することはあり得ない。確固として独立、主権、国家の尊厳を守る」: u% j- w( B+ o
e; }) H# T# F- Y4 o4 S1 O4 Z トウ氏は、冒頭の話をそう締めくくった。 * N+ j2 b' X& i& I7 R! d0 T8 T5 F# { k/ U/ q, i
≪3度密書を送った≫! z- V* \, v0 M7 l) t6 P! o4 Z
; a R) y# }$ r. }7 D. m Y# W4 g9 j 1989年7月2日、北京の人民大会堂でトウ小平氏と会談した米大統領特使のスコウクロフト補佐官は、ブッシュ大統領(現大統領の父親)が「中国人民の真の友人」であり、「偉大な中国、中国人民と密接な接触をしてきた点では歴代大統領中唯一無二」と述べ、訪中の目的を話す。 9 b, ~8 A4 z9 ~# ^3 f/ n , X3 ~# h: }& N7 A$ u; M' ]6 o8 A 「大統領は、ニクソン訪中(72年)以来かつてなかった風波を深く憂慮している。中国指導者と接触して困難を克服、米中関係を回復・強化させようと私を派遣した」& ~! ]4 {# ^. L/ s! Z1 f- T
8 T# I# b7 l. H, C 関係の危機をもたらしたのは天安門事件だったが、スコウクロフト氏はそれには触れず、関係改善に中国の協力を求める。米国内では、反中世論はますます高まり、議会はより強力な制裁決議を準備していた。 9 y d/ U# W6 A* x: s ; F. g0 ?+ ~) y+ R) B6 b2 Q* k 「大統領はそうした厳しい制裁議案には反対だし、今後も反対する考えだ。しかし、もし議会が全会一致で決議し、(大統領が)拒否権を行使する事態になれば、大統領の立場は極めて困難になる」# Q$ |" V2 k' \0 ^9 F
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大統領は世論の反発を受け、疑念をもたれかねない。スコウクロフト氏の言葉には、民衆弾圧の緩和▽北京の米大使館で保護している反体制派学者、方励之(ほうれいし)氏夫妻らの出国▽早期の戒厳令解除-などで米世論を和らげるのに中国側の協力を求める意図が込められていた。2 I. w% N6 w7 ~$ Z. C$ j