+ ~' l3 U6 L/ w2 k 据《自由亚洲电台》网页报导,日本《产经新闻》是在本月廿六日发表〈社告〉,称将在二月十四日开始连载《邓小平秘录》。不同于过去《蒋介石秘录》使用国民党大溪档案,此书的编写以产经新闻社中国总局长伊藤正为首,多名记者编辑参与写作。 . @0 P- ^9 y/ F; |* F* O5 c0 Q0 _+ E1 ^* M
对于《产经新闻》选择在此时发表《邓小平秘录》,旅日作家石平向本则表示:「多年前《产经》就有关毛泽东的一本书进行了连载,很受欢迎,这次连载《邓小平秘录》是上次的继续。这次加上了文革的内容与中共政治斗争内幕。」 ) K5 q+ \7 l% H0 u# |6 S
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与《产经新闻》有合作关系的《日中通讯社》社长原博文表示:「《邓小平秘录》这本书是以六四天安门事件开篇的,邓小平这个人是以镇压天安门广场事件做开始。现在连载主要是与温家宝要来日本有关系。在对历史的认识上,中国人与日本人是有很大不同的。」 ! E' U' ]) P6 T. x
6 z/ h& e/ Y1 l3 w" Q# \-------------------------- 6 z' v$ I( i: o7 f; E9 w6 b o $ I V5 e7 {) r& ? O \日本产经新闻 8 s2 _3 D I% v$ M7 A0 i y2 s k9 `2 A9 t; u
【社告】「トウ小平秘録」 改革開放の実相 2月14日連載スタート 9 Z: [1 J* E1 s$ ], {5 l3 B' {/ W
産経新聞の新たな長期連載「トウ小平秘録」が2月14日付からスタートします。/ V' H; `7 ]: I# _* A
' q5 {2 Z) j) Y0 B! P 1兆663億ドル(昨年12月末現在)という世界一の外貨準備高を記録した中国。この経済発展の突破口を開いたのが、トウ小平氏(1904~97年)でした。今年は没後10年にあたります。# C. b3 G! W" D3 C
2 r/ p% o% e q: R* U- ? 毛沢東以来の中国共産党内における激しい権力抗争を生き抜き、事実上の最高指導者にのぼりつめたトウ氏の波瀾(はらん)万丈の生涯は、中国現代史そのものです。 ( T1 m% Q& }/ h8 K! W+ ^) v& G/ Z n/ F. z; q5 b5 N
トウ氏は政治面で社会主義と中国共産党の指導性を強調する一方で、経済面では生産力増大を第一とする独特の理論を唱えました。文化大革命時代の失脚を経て権力を握り、改革・開放路線へと大きくかじを切った決断が中国の驚異的な成長をもたらしました。6 M7 W% m; c$ k
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半面、膨張経済は都市(富裕層)と地方農村(貧困層)の格差拡大や環境汚染、さらには官僚の腐敗という矛盾の拡大を招いています。世界規模のエネルギー獲得戦略や急速な軍備拡張路線も気がかりです。こうした現代中国の実相を理解するには、トウ氏の足跡をたどる必要があります。 2 y) J" H6 j. h1 i p/ _9 t( n. N & I$ I4 d [$ Z- G1 [ 連載は伊藤正・中国総局長を中心に複数のスタッフが取材、執筆にあたります。第1部の「天安門事件」で、トウ氏がなぜ大衆を弾圧したのか、背景を掘り下げるのを皮切りに6部構成になる予定。ご期待ください。+ Q; w0 I1 T g; n6 v% f( w
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(2007/01/26 07:27) 6 M) ?5 x9 p" @" U% [ W, d& M8 ?8 N2 I" O
[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-15 11:39 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-15 10:48
日本媒体连载《秘录》 盛赞邓小平有远见 2007-02-159 q) e7 ?. `+ q- u5 c# V
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【星岛环球网】在邓小平逝世十周年(2月19日)来临之际,日本《产经新闻》从14日刊登《邓小平秘录》序言,揭开预定15日开始连载的这位中国已故领导人秘录的序幕,这家报社将把秘录分成六部分进行连载。 # I6 T( X9 q5 v8 O6 v 6 I' i. d( c3 s" Q/ m' q" m 香港《文汇报》报道,序言简述邓小平的生平指出,他从十六岁前往法国留学后未曾再踏进四川省广安的老家,家人之中,也只有三女邓榕在1989年才初次访问老家。邓小平讨厌个人崇拜,批评为出生地图利的作法。; U: j* J; O+ C! c+ y0 E
" W5 X) R) j8 Z% z% Z0 }4 N' } 文中盛赞邓小平富有远见,形容他是富有构想能力的现实主义者,改革开放初期在深圳等地设立四个经济特区,作为市场经济的实验场,并对香港制度提出维持现状的“一国两制”,成功恢复对香港的主权,并作为呼吁两岸统一的武器。 ! l& L- c4 n, r6 X1 D# Q$ h
1 a+ g1 p: N" x+ j( z$ L 邓小平离开人世将满十周年(2月19日),对于这位世纪伟人的十周年冥诞,邓小平三位女儿邓林、邓楠、邓榕透露,十周年当天,邓家众子女将在母亲卓琳带领下,用鲜花花瓣洒遍整个院子,以这种简单而独特的方式,来纪念邓小平。邓家的这种家祭方式从邓小平冥诞一周年时就开始了,至今已持续十年。 7 B' H# m9 L: T( U9 a; V) w6 S7 w- g$ [! o! k5 b
邓小平大女儿邓林说,父亲生前特别喜欢花草树木,无论家居京城还是外地,都会在院里院外栽满各式各样的花卉。在他晚年一直居住的院子里,更是常年鲜花盛开、草木繁茂。“而且,对任何花草树木他都喜欢,几乎没有什么偏爱。花开的时候,见到什么花都要上去闻一闻,乐在其中。” : h9 }6 z7 g5 K2 A( G- I( W $ i5 U& J6 z0 E1 a1 s5 P 邓林说:“父亲的每年忌日,母亲都会带着我们在院子里洒鲜花,为的就是让父亲闻着花香‘回家’看看……”她相信,虽然父亲离开她们已近十年,但只要一闻到花香,就会知道家里人在想他。 8 F" {3 s0 ~4 G
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与邓小平一样沉默寡言的邓林透露,正因为父亲酷爱花草树木,从小就喜欢画画的她也深受影响,后来所形成的风格就是花鸟国画。她告诉记者,父亲去世后,她为父亲画了很多不同版本的国梅,“他喜欢梅花,更喜欢梅花的个性。所以每当我画梅花的时候,心里都会自然而然地想,这是为父亲画的。” 6 b! c; P( m, W: O# e
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邓小平次女邓楠如今已是中国科协党组书记,官居正部级。这位从小就是邓家“小管家”的女部长,对纪念父亲冥诞的方式有着自己独特的见解。她说:“忌日采用什么方式来纪念父亲并不重要,重要的是他一直活在我们心里,我们经常都会想起他。我们一直用心来纪念他,这就是最好的方式。” " y; W; e- ^1 Y! s4 c4 k. r
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而邓小平晚年时候一直陪伴在他身边的小女儿邓榕(毛毛),如今提起父亲,思念之情依然溢满双眼。她说,她对父亲的怀念不会因为时间长了而减弱和变淡;“这种怀念是永恒的,化解不开的。爸爸离开我们已有十年了,但这种思绪随时随地还在伴随着我。今年是他离开我们十周年纪念日,我对他的怀念更浓烈。” - P2 x$ p& c. n0 Q" l! ^
6 X" D8 y( K' j ■トウ小平氏(1904~97年) 四川省生まれ。若いころにフランスに留学し共産主義革命運動に参加。中華人民共和国の成立後、副首相、党中央軍事委員会主席などを歴任。生涯で3度も失脚を経験したが、そのたびに復活、78年以降は事実上の最高権力者として改革・開放政策を推進した。89年6月の天安門事件の際、民主化を求める学生らの武力弾圧を決断、国際社会の批判も浴びた。 I5 |1 i* i/ ]) Y/ R7 Y+ M
1 P5 [, d9 M e/ ]% H5 Q/ S ■4つの基本原則 (1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想-の4項目のことで、トウ小平氏が79年3月に堅持すべき原則として打ち出した。共産党規約や中国憲法にも明記されたトウ小平理論の核心だが、市場経済が進むにつれ社会の現実や国民の意識と乖離(かいり)、政治改革の足かせになっているとの批判もある。 4 W G9 T! v7 j% a X 4 Y0 J8 I7 Q, i4 {, Q(2007/02/14 06:13)
邓小平秘录:搜集反党证据展开新反右派斗争 : O$ f# {. L* A2 x K & X ]; s/ ]4 l ; c- P: l: b4 b 日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」报导指出,邓小平认为专制手段的必要性,并经由搜集反党活动的证据而认为反右派斗争有其必要。6 m9 o# q/ [: B! V! }* V
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文中指出,邓小平在一九八六年十二月三十日向当时的党总书记胡耀邦和总理赵紫阳等六名中共党领导人物指出,必要时非采取专制手段不可,这项谈话宛如邓小平针对一九八九年天安门事件决定武力镇压的状况而言。 0 Z. C7 `( D* t5 Q( f7 S, H% Y* g4 |0 h
报导说,邓小平是针对中共领导阶层对安徽合肥学生示威的处理态度软弱加以批评,胡耀邦于一九八七年一月遭解职,方励之、王若望和刘宾雁三人遭开除党籍,当时包括方励之等三人在内,有约五十五万名右派份子遭迫害,斗争的指挥者是邓小平。/ j# r, n& I( \8 e0 f
4 ]6 W. F7 w. [) P 一九七八年开始每年有九成九以上的受迫害者恢复名誉,当时从事重新评价的是党组织部长胡耀邦,邓小平批评领导阶层的谈话显示出他对自由化思想的严峻态度。; Z* p& x4 v* v: h V1 H; P6 K
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根据一九八九年天安门事件后现身的北京市党委书记陈希同报告等资料指出,当时党全力搜集知识份子在集会中的言行及大学内发现的传单,作为策动动乱和组织准备的反党活动证据。; e2 B5 M i. i
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邓小平接获报告后认为反右派斗争是正确的作法,有必要新的反右派斗争。中央社 ) S5 O4 v0 L8 H9 ]4 s " ~* O# f3 C& _. |9 D ! K* l7 n6 L9 a0 W. }- b【トウ小平秘録】(5)第1部 天安門事件 反右派闘争" v7 X9 ^( L( h5 H
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■必要なら専制手段使う: s' [$ k9 s& x3 r E. e; f
# \$ n5 ^& A8 \8 K4 S 「専制手段は、必要なときには使わねばならない。使うときは慎重にすべきだが、もしだれかが流血事件を起こしたらどうするか。こちら側にけが人が出ても、事を起こした刑事犯は法により処理する。その決心がなければ、今度のような事件は制止できない。何の措置もとらなければ、われわれは後退し、面倒がさらに増える」(「トウ小平文選」第3巻) " U+ ]. K/ S( D* ` U ! @* L# x; u" A$ y, s 1986年12月30日、トウ小平(しょうへい)氏は胡耀邦(こようほう)総書記、趙紫陽(ちょうしよう)首相(肩書は当時、以下同)ら6人の指導者に対し、こう話した。 m4 t" ?6 o3 @% V* r
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この談話は、あたかもトウ氏が大衆行動への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)直前の状況について語ったようにも響く。7 I, ]5 ~& F2 `
: _0 ~! L( J5 m9 o% }; ?* Y1 M 談話は実際には86年の12月5日、安徽省合肥で始まった学生の民主化要求デモが上海、北京、武漢などに飛び火、指導部の軟弱な対応を批判したものだ。 4 [* X u) Z H. U( k3 p ( H+ w% N: i; M7 q. C そして胡氏は翌月解任、トウ氏がこのとき激しく名指し批判した天文物理学者の方励之(ほうれいし)中国科学技術大副学長と作家の王若望(おうじゃくぼう)、劉賓雁(りゅうひんがん)両氏の3人(方氏以外は故人)も党を除名された。 , {) Z9 ?7 N W( {0 g 9 c P) N; Q' C9 U この中で注目されるのは、毛沢東時代の重大な過ちとされている57年の反右派闘争についての発言。トウ氏は「ブルジョア階級右派に反対する闘争」と呼び、「やり過ぎた点は正すべきだが、われわれは全面否定はしていない」と話している。 ; _8 K5 N6 S& |' e" k0 w7 f 0 u, {: ~! K P 当時、約55万人が「右派分子」にされ迫害を受けたが、除名された3人もその中にいた。総書記だったトウ氏が闘争の指揮を執ったことで知られる。 G4 p& Z$ E7 Q
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78年から見直しが行われ、99%以上が名誉回復された。見直し作業を進めたのが、当時の党組織部長、胡耀邦氏だった。 6 a% H9 {9 p: H9 D, ]) k. M6 c; P) O; U4 y* U; h S" O
トウ氏の談話は、自由化思想への厳しい認識にあふれている。 F* R4 S k2 W5 d5 R( Z" T/ Q
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「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」) M8 L. c* h) M$ n8 W
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「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」 , m8 G+ ?5 J8 D7 w8 `4 Q % P7 V3 L8 O* @" w' J X, t だが、長い試練を経てきた3氏がひるむことはなかった。特に方励之氏は、さらに活発に動き、反体制色を強めていく。「中国のサハロフ」と呼ばれ、国際的知名度は抜群。招かれて外国に行ったり、国外で著書を出したりと、休むことがなかった。 % O0 U! L4 }; _( b 0 w6 w/ M% V( U! R/ h& M 5 [) ^$ o& N. h8 J! {4 w* D
反党活動の証拠収集6 N+ e( N+ Y' ?) S/ w% L1 }3 D
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天安門事件(第2次、1989年6月)当時、中国社会科学院歴史研究所副研究員だった包遵信(ほうじゅんしん)氏(事件後、懲役5年に服役)は、89年1月28日に北京の都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」で方励之氏の発言を聴いたときの衝撃を、台湾で出版した「六四的内情」に書いている。 4 W& K% S# m. N; M* s7 u y3 h7 k1 ~6 h' o% E 方氏は、これより先、トウ小平氏に民主活動家、魏京生(ぎきょうせい)釈放を要求した目的を「人権問題が闘争目標」と説明、それには「党外、体制外から闘い、実際行動に出るべきだ」と強調していた。 . c! Y* b' }7 L. [' W8 Q # A) V5 \* g" p: A2 ? 「扇動性が極めて大きかった。会場は寂として声なく、拍手も起こらなかった。重爆弾を頭に受けたようだった」と包氏は書く。& @* M5 k1 a" B" y
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その会合には、元毛沢東秘書の李鋭(りえい)氏、人民日報の元社長、胡績偉(こせきい)氏ら長老のほか、著名な改革派知識人が多数参加していた。彼らのほとんどは後の「89民運」(胡耀邦氏死去後の民主運動)を支援、自らも参加した。しかし、この時点では党外闘争や街頭行動までは念頭になかった。 ) u" g: J5 c3 j/ Q' T : J. Y: e, p: @/ F, T 天安門事件後に出た陳希同(ちんきどう)北京市党書記の報告など各種の資料では、この時の会合を含め知識人の言動や大学構内のビラを収集し、それに基づいて動乱画策の思想的、組織的準備をしていた「証拠」にしている。 # `7 T9 C. M: _' s% Q- T- V( P6 ^$ \% K5 J
陳報告のごく一部の要約を紹介すると-。 + Q& ~- `2 F& T- G, }6 x+ H9 `/ Y, Q7 J
「88年12月7日、『走向未来叢書』副編集長の金観濤(きんかんとう)は北京大での討論会で『社会主義の試みと失敗は20世紀人類の2大遺産だ』と述べた」 & s9 [3 G" G. b9 |4 J' Z( |8 M9 u1 B
「89年3月1日、清華大と北京大に『トウ小平討伐の檄(げき)-全人民に告げる書』という大字報(壁新聞)が同時に出、『4つの基本原則』を廃止せよと要求」 L2 ?% t$ H) j! n( b1 |5 T
/ `8 J$ G k8 a0 ~+ b5 a Z7 ?. S
「4月6日、北京大の大字報は『社会主義にはまだ存在の理由があるのか』『マルクス・レーニン主義はわが国の国情に合わない』と書いた」 $ t' }: d4 N* J# M4 ?7 R7 O# C; Q5 k : _) |) B* a+ b( [ 「北京の大学には、『民主サロン』『自由論壇』などが次々と登場し、北京大生の王丹(おうたん)が主宰する民主サロンは1年間に17回も講座を開催した」) X( A! g4 F) v( @ {8 \
e. V2 @' l- ~4 Q/ t【トウ小平秘録】(6)第1部 天安門事件 失脚の歴史 姑息で無力な指導だ 6 T. Z) a( v. U! N, X, |* S1 U' h _* Q' m! w. o, k% b
中国共産党の歴史は、政治闘争の連続だった。トウ小平(しょうへい)氏が最高権力を握った1978年以降も絶えることはなく、天安門事件(第2次、89年)までの10年余の間に、華国鋒(かこくほう)、胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)と3人の共産党トップが失脚した。/ G8 q- M. } S3 O3 d
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その中で、87年1月の胡総書記解任は、天安門事件の政治的背景になった事件だった。& L) C, u0 j ~$ K$ u' ~
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国営新華社通信の元高級記者、楊継縄(ようけいじょう)氏は、2004年に香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、天安門事件後、自宅軟禁状態にあった趙紫陽氏と3度インタビュー、その証言も加えて、胡耀邦事件も詳述している。 9 I" h+ u. ^ } f3 I5 w5 a 1 q t3 d) R4 [; N3 I5 q 前回、トウ氏が86年12月30日、胡耀邦氏らに行った談話のさわりを紹介したが、その3日前の27日、長老7人がトウ氏宅を訪れ、安徽省合肥で始まった学生デモの危険性を指摘、胡氏の「姑息(こそく)で無力な指導の結果だ」と訴えた。それを聞いたトウ氏が秘書に手配させたのが30日の会合だった。 ' ]; C' L2 n. Z1 r* D . `0 ]2 o% d& E9 | 長老7人は、天安門事件で重要な役勻担った8大長老のうち、王震(おうしん)中央顧問委副主任、彭真(ほうしん)全人代委員長、薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席の4人、それに保守派理論家のトウ力群(りきぐん)中央書記、胡喬木(こきょうぼく)政治局員と余秋里(よしゅうり)中央軍事委員だった(肩書は当時、以下同)。 4 w( Q# m* S, t. x. w1 X; r- {" [9 V1 r3 C7 M# D' `. R8 k4 W
これより前の25日、天津を視察した王震氏は、市幹部と会見するやテーブルを激しくたたき叫んだと、当時、天津支社勤務の楊氏は書く。 ( i5 `* t* Z& {: e1 T, M- B' u$ r' b, L
「反革命分子が造反した! 騒ぎを起こし共産党を引きずり下ろそうとしているんだ」 ( Q) G1 c8 w# I- ?' g, i3 D3 r8 }2 Q
「今も右派がいる。反革命もいる。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)がなんだ。反革命だ!」9 S. J9 A" X: {0 B) u4 O
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同月31日、党中央学校で講演した王氏の言葉はもっと激しい。 0 O4 d: f2 ?* L1 h" E" w# ~; x$ o4 N; j2 \, ]
「大学生は300万いるだと。こっちには300万の解放軍がいる。あいつら(学生)の脳天をぶち破ってやる。わしを誰だと思ってるんだ」: l, M$ N) B( F/ u9 w3 j1 @
# Z$ M4 @# k7 ?5 u- F8 T- X& o 王氏は新中国発足後、新疆ウイグル自治区に軍政治委員として派遣され、少数民族を武力弾圧したことで有名だ。 6 T$ o7 i, S: a# i* {" z 9 o1 Y: m. t8 ~3 h- y ≪胡耀邦は声上げ泣いた≫- a3 A8 N9 \) N0 M. [$ k" h3 ]* S
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外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市)& G/ q: C# u% @8 J n! I) @* T3 ]
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胡耀邦総書記の解任は1987年1月16日の政治局拡大会議で決まったが、その前に10日から、中南海の懐仁堂で、要人が意見交換する「民主生活会」が開かれた。 : N Q$ z3 g+ U6 W# A; u3 G3 m+ `! s0 Q. Y! K- I$ k2 }+ Q
胡氏は同月2日、トウ氏に辞表を提出、生活会の初日に「ブルジョア自由化」への対応などについて自己批判した。 8 a7 U# r1 f0 J" f& h2 \ $ D( w2 T) C8 V! M3 D 「政治原則上の重大な過ちを犯し、党に重大な損害を与えた」「『左』にばかり注意し、『右』を防ぐのを怠った」などと。+ g) _5 E+ d$ G$ P
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その後、胡氏を批判する発言が15日まで延々と続く。' B7 d2 r0 W8 e- U
) M& N+ L1 [7 q: ^6 o3 ?& D 「胡耀邦の心を傷つけたのは、良き友人までが事実を顧みず暴露をしたことだった。延安時代に『桃園の結義』(三国志演義の劉備、関羽、張飛による兄弟の契り)を交わした王鶴寿(おうかくじゅ)(中央規律検査委第2書記)は胡との私的会話まで暴露した。万里(ばんり)(政治局員)や趙紫陽のような改革派も批判的発言をした」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)1 ~7 w+ j9 m7 k$ N' @
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趙紫陽氏の発言は生活会最終日の15日。保守派で当時党中央書記だったトウ力群(とうりきぐん)氏が2005年に香港で出版した「十二個春秋」によると、党除名になった作家の王若望(おうじゃくぼう)氏らの名を挙げ「胡耀邦、あなたは彼らになぜあんなに寛容だったのか」「内外で開明的な印象を維持したかったのか」と追及したという。 9 [* ~7 L) g0 l8 G) F; J2 i 2 z- z7 u( W/ L `0 A2 W( N4 { 「生活会が散会した後、胡耀邦は懐仁堂の外で声を上げて泣いた。彼が受けた精神的打撃は大きかった。万里は同情し、その晩、胡の好物の犬の焼き肉を胡の自宅に届けさせた」(「楊書」)0 T, S" _6 ^$ r9 C6 X j
' [ f6 `) x6 N' ?) | n 生活会にはトウ小平氏も保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記も参加しなかった。両氏が出席したのは16日の胡氏解任と趙紫陽氏の総書記代行就任を決めた政治局拡大会議だ。「楊書」は会議に出席した朱厚沢党宣伝部長の証言を記している。 * m& p' N8 l( ^! K; s; n1 J' C' c2 D a) ?% H* s
それによると、会議はトウ氏が司会、最後に、陳雲氏が長い演説をした。その間、トウ氏は正面を見据え微動だにしなかった。陳氏の演説が終わり、薄一波氏がトウ氏の目の前で手を振り合図するが、反応がなかった。% ~: U* `* q$ t" A7 v
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「もう一度、合図するとトウ小平は目を覚まし『聞こえなかった』と言い、『意見がなければ、挙手で採決』と続けた」 + y& c! R! y [; t" _; T- ]0 Z9 b( P6 Z! P! w2 T
採決には、政治局員以外の長老らも加わり、全会一致だった。党のトップ人事が中央委員会総会ではなく、変則的な会議で決まった。陳雲氏は「この会議は合法的だからな」と参会者に念を押した。(伊藤正)$ a& p o0 j: [# r6 O9 S
邓小平秘录:保守派斗倒胡耀邦但未全面胜利' s0 X, s- @$ n, d. G1 U$ X$ w
" W' r% r2 B" t/ c$ @ & i$ L& E5 A8 {; f6 b" _1 D 根据日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」,中国共产党保守派虽在一九八七年一月斗倒党总书记胡耀邦迫他下台,但由于邓小平让总理赵紫阳接下胡耀邦留下的空缺,保守派并未全面获得胜利,后来保守派和革新派升高对立,元老们决定设法把赵紫阳也搞下台。" ^& }* K6 W' \( P. R0 h3 `
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文中指出,一九八七年一月中共高层在对胡耀邦进行斗争会议的「民主生活会」上,对胡以最严厉口吻最长时间的演讲展开攻击的是当时的保守派理论家,党中央书记邓力群。随胡耀邦之后,中央宣传部长朱厚泽也被解职,但是,由于邓小平选赵紫阳接任胡耀邦,保守派并未全面胜利。 c4 q# I1 Q. Y( l" {! L( @, L) _8 O$ `: t2 S- a
当时传闻赵紫阳曾坚决拒绝就任代理党总书记,他于一九九五年十二月接受前新华社记者杨继绳的访问时表示,他真的不想成为总书记,希望(以总理身份)从事经济改革,但同时表示,他未坚持自己的意见是由于认为在当时的情况下,只有他是比其他人较佳的继任人选。不过,曾是胡耀邦智囊的阮铭(目前住在台湾)和吴江则认为胡耀邦下台是赵紫阳搞的阴谋。 ; S6 \5 B Q: d/ Z" H8 b' F: f) R" ?6 }: z
秘录指出,邓小平针对思想和文化面的问题是支持保守派,但并未让保守派担任要职,对邓氏来说,经济建设才是一切,因此需要的不是保守理论家,而是改革的务实家。9 }9 q+ p* N/ v4 s* |* {9 P
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担任代理党总书记的赵紫阳在同年十月召开的第十三届党大会的政治报告强调改革开放,主张全力提高生产力的必要性,和邓小平的想法完全一致。根据杨继绳的著作指出,保守派重镇陈云希望邓力群能担任总书记,王震察知陈云的意见而为有利邓力群展开活动。改革派的党中央组织部副部长李锐发觉此一动向而怀有危机感,遂和赵紫阳的秘书鲍彤商量,致函邓小平。. @5 x( R+ C- k* x: N
& _ |; i7 ^/ I/ n: g: p: W 李锐在信函中除指出邓力群是一贯反对改革开放的极左主义者之外,并暴露他在延安时代曾私通自己太太的恶行,反对邓力群担任中央的职务。邓小平经由赵紫阳获得此信后指示:一,解除邓力群的职务;二,让邓力群成为政治局后补委员;李锐不要对邓力群进行报复。, g5 s; [1 X3 j1 ]5 u6 g! M
2 g# d+ G& S6 R4 b* l 在党大会前内定的新领导阶层草案中,邓力群原被列入政治局委员的名单内,成为候补委员是相当于降级,结果,党大会时,邓力群在中央委员选举落选,不要说是总书记,连政治局后补委员都未当上。陈云对此极为不满,大叫全都是李锐和鲍彤搞的鬼。第十三届党大会之后,保守派和改革派的裂缝加大,党元老们决定设法把赵紫阳搞下台。中央社, L" I. \7 n, G& B
, g" X% j+ m- i( U/ H【トウ小平秘録】(7)第1部 天安門事件 暗闘 保守派の完勝ではない/ A3 S0 |$ J2 D/ G
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胡耀邦(こようほう)氏を弾劾した1987年1月の「民主生活会」で、最も厳しく最も長い演説をしたのは、保守派の論客、トウ力群(りきぐん)・党中央書記(当時=肩書は以下同)だった。トウ氏は回想録「十二個春秋」(以下「トウ書」)に、「3時間半かかった」演説全文(29ページ)を載せている。 ' R2 }0 s7 r0 s. i. Y! T6 o9 S9 f) a: c4 @- \- g
その中でトウ力群氏は、70年代末以来の自由化との闘争を詳述。「反精神汚染」などの運動後もブルジョア自由化が蔓延(まんえん)し続けたのは、胡氏が自由化を擁護したためと厳しく批判した。トウ氏は演説をこう締めくくる。$ ]! \3 Z% q' |1 g% ^" D) Z, c
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「耀邦同志が主導的、積極的に誤りを清算し、思想上の消極面を克服するよう心から望む。特に耀邦同志と同じ観点を持つ同志は、耀邦同志(が誤りを正すの)を助け、自らもそうするように」 ( y& x! ~! w' R. S7 P+ Z: [: S6 s6 W% M$ U, y' Q
弟子に説教するような口調に、勝利感があふれる。それは陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記をボスにする保守派に共通する思いだったろう。過去に多数の「自由主義者」を血祭りに上げてきたが、ついに「頭目」を仕留めたのだ。 " M% I; o7 o+ P3 V, {! P0 O6 U; ]- y' g) |7 f
胡氏に続いて朱厚沢(しゅこうたく)中央宣伝部長も解任された。朱氏は85年に胡氏に呼ばれ、貴州省党書記から転任していた(後任は胡錦濤現国家主席)。 : F! S7 [/ g' H5 w1 j3 ~% O* L * m: h! P' a, n5 O7 }8 {. i' b かつて共産党内の改革派で、胡耀邦氏のブレーンだった阮銘(げんめい)氏(現在台湾在住)の著書「トウ小平帝国」によると、トウ力群氏は87年1月28日、後任部長の王忍之(おうにんし)氏を連れて宣伝部に行き、朱氏に引き合わせた。 : b, P& s. L: d * v7 T2 o: n4 q6 i, s C 朱氏「1年余り仕事をしたが、その是非は、歴史が評価するだろう」 4 \" O/ J2 \+ B. Y) t7 T( h0 i: N3 P% Q4 V/ D( Q/ \+ l) |
トウ力群氏「歴史の評価を待つまでもない。今評価してやる。胡耀邦の失脚が結論だ」 1 o% D4 @. f6 Z6 ~% J* {' Z( N6 F+ v& b- n: ^7 M
しかし保守派の「完全勝利」とはいかなかった。トウ小平氏が、胡氏の後任に趙紫陽(ちょうしよう)首相を選んだからだ。5 [# m: M" @5 d3 G% U: k9 i
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元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は著書「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で「当時、陳雲がトウ力群を後任にするとの伝聞があったし、可能性もあった」とする。8 h4 A% U+ h1 Q
! o( _1 E* [1 N- q8 u 「トウ力群のマルクス主義理論の水準は高く、1975年のトウ小平批判運動のときの態度もよかった。子女に腐敗のうわさはなく、陳雲の思想にも忠誠だった。陳雲陣営からすれば、理想的な人選だった」(「楊書」) " P3 A! M Q; J# p5 ]! }/ h9 G( S8 ?/ X+ W; T
一方、趙紫陽氏は総書記代行就任を固辞したと当時伝えられた。趙氏は95年12月、楊継縄氏のインタビューに「本当に総書記にはなりたくなかった。(首相として)経済改革をやっていきたかった」と述べ、さらにこう話している。: F& q% ` o% k+ M; E+ v" s
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「自分の意見を押し通しはしなかった。当時の情勢下では、後任には私しかいなかったし、私の方が(他の人より)ましだろうと考えた」" f' M. Z* t& s. c$ Q% g* M
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それなら固辞しなきゃいいのに、と思えるが、そこは趙氏のしたたかなところで、後に長老らが問題にするある約束を取り付けていた。胡耀邦氏のブレーンだった呉江(ごこう)、阮銘両氏はいまも、胡氏解任について趙氏の陰謀説を唱えている。 % K9 s* b/ G, V% s ! `% L1 O3 O! e# O 《ひっくり返った党人事》 . U% }6 z. U% d. g" q# \ 0 k+ v9 X8 ~3 f% e$ L 思想や文化分野で問題が生じる度、トウ小平氏は保守派を支持する一方、保守派を主要ポストに登用することはなかった。トウ氏にとって、経済建設こそがすべてで、それに必要なのは保守理論家ではなく、改革志向の実務家だったからだ。 u8 G" H# v4 N2 o C
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保守派は、趙紫陽氏を新たな「標的」に巻き返しに出る。 2 m' }" L* p5 H: N' r5 e 9 F& P' v' B, j8 U. o 5年に1度の党大会(第13回)が秋に迫っていた。施政方針を示す政治報告の起草段階で、保守派は反自由化の徹底を主張、それに対し趙氏は経済建設が中心と反論するなど暗闘が続いた。 : v4 d1 w g" B( O a6 t& O6 z7 [ 10月に開かれた13回党大会で、総書記代行の趙紫陽氏が行った政治報告は、改革・開放が基調になった。特に中国の社会主義を「初級段階」と規定、生産力の向上に全力を挙げる必要を説いた点が内外の注目を浴びた。それはトウ小平氏の考えと完全に一致していた。& f, D% V; n- B" X
: l+ l- O# Y7 u) `8 g 「楊書」によると、保守派の重鎮、陳雲氏はトウ力群氏の総書記就任に望みを寄せていた。その意を察し、王震(おうしん)中央顧問委副主任が多数派工作に動く。それを知り危機感を抱いた改革派の李鋭(りえい)中央組織部副部長は、趙紫陽秘書の鮑●(ほうとう)氏と相談、トウ小平氏あて書信を書く。& `3 D6 d- F/ Y3 v
R' v/ k5 l$ G) k, q その中で李鋭氏は、力群氏が改革・開放に一貫して反対してきた極左主義であることなどに加え、延安時代に李氏の妻と密通した旧悪も暴露し、彼を中央の職務につけることに反対している。 5 x% S @) X- |! k* I: t7 A$ A q: Q' ~7 o% e1 D
趙紫陽氏経由で書信を受け取ったトウ小平氏は、(1)力群の職務を解く(2)政治局候補委員にする(3)李鋭同志は復讐(ふくしゅう)しないこと-と指示した。5 h+ g9 l2 o( `4 P
: N) j, F' t5 ?% S: r* L$ [' Z. U# P このうち(2)は、党大会前に内定した新指導部案で政治局員リストに入っていたトウ力群氏を候補委員に格下げするという意味だ。ところが、党大会でトウ力群氏は中央委員選挙で落選、総書記はおろか政治局候補委員にもなれなかった。 2 ^" R; o+ d: Y7 f% g9 L. [8 m- _+ U* I W# L
陳雲氏はこれに強い不満を漏らし、「すべて李鋭と鮑トウが裏で画策した結果だ!」と叫んだという。13回党大会で、保革の亀裂は深まり、長老らは趙紫陽氏追い落としの決意を固めていく。(伊藤正) # {+ t! l0 q/ z8 j7 t+ k" H* D6 m0 u" u Q; i. u; C7 S
■精神汚染 暴力やポルノなどを扱った小説、映画などの作品からディスコ、ジーンズ、パーマなどの風俗、さらには理論、学説まで欧米の影響を受けた現象のこと。83年から批判キャンペーンが展開されたが、トウ小平氏が84年初めに終息を指示した。理論界では人民日報副総編集長の王若水氏の「社会主義の疎外論」がトウ力群氏ら保守派からブルジョア自由化の影響と攻撃された。 . D/ L7 u0 L; C- a) H* Z" o' F " G( B- l& z! A% H4 j( Q ■陳雲(1905~95年) 上海生まれ。25年に中国共産党に入党。中華人民共和国成立後、副首相として長年経済、財政政策を担当。文革中は一時失脚したが、78年に党副主席に就任、トウ小平氏と並ぶ指導者として80年代の中国政治に大きな影響力を発揮した。市場経済を鳥、計画経済を鳥籠にたとえ、鳥は鳥籠の中でのみ羽ばたかせるとの「鳥籠経済論」で有名。 9 S, U1 n, `% `- {! [; b' i . X2 p+ c3 q0 Q ●=彫の周が丹 ?8 P* h5 S3 S7 r/ w+ z/ s 4 b2 e' J; s+ T" j$ r' P' b(2007/02/20 07:26)3 k& y+ W; v }* f2 W
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2002年8月、北京にオープンした蝋人形館。トウ小平氏と並んで陳雲氏の蝋人形(左)が展示されている
$ Z1 H- {1 x5 v; S3 k トウ力群氏は、自分が指導していた中央書記処研究室が87年7月に解散させられたことなど、「趙紫陽(ちょうしよう)氏とその配下による引き落とし攻撃」を列挙。趙氏を「陰謀家」と決めつけ「その目的はトウ小平の支持なしには実現できなかった」と述べている。 5 n% ~4 j3 [' t a$ r8 O+ v4 R- L$ l5 A" ~, m& ~, u; Y
トウ力群氏の指摘は、トウ小平氏が大衆への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)全体を見渡したとき、重要な意味を持つ。13回党大会は、政治・経済両面で大胆な改革策を打ち出したが、それはトウ小平、趙紫陽両氏の合作だった。両氏の強い信頼関係が背景にあった。それがどう崩れたかが、天安門事件のポイントになるのである。. X* k$ S( I3 I2 n0 {# U
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党大会ではトウ小平、陳雲両氏以下、長老のほとんどが中央委員会から引退し、8大長老のうち再選されたのは楊尚昆(ようしょうこん)氏(政治局員)だけだった。トウ氏が早くから主張していた指導者終身制の廃止と幹部の若返り実現への一歩だった。' W$ J- A, o( ~* E
, X$ d) U1 m Q9 {+ { トウ小平氏は80年8月、政治局拡大会議での演説で、毛沢東の晩年の過ちを、「一言堂(ワンマン)」や個人崇拝を生んだ制度の欠陥に帰し、その直後に会見したイタリアのオリアナ・ファラチ記者にも終身制廃止の必要を強調している(「トウ小平文選」第2巻)。% u2 K5 C/ c; w7 n2 j1 y- w
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その最初のステップとして82年2月、老幹部退職制度を設け、同年9月の12回党大会では、老幹部で構成する中央顧問委員会を新設したが、老人支配に変化はなかった。政治局員25人中、60歳未満は1人、政治局常務委員6人中では胡耀邦、趙紫陽両氏以外は70歳以上だった。 6 l% v2 l/ u. ~+ c ! J; ]6 Y7 }$ k- v+ I7 z9 k, b5 o ≪長老たちは引退せよ≫ u. w. l& x: ~7 ?9 h. f, B* T
胡耀邦氏のブレーンだった改革派の呉江(ごこう)氏は、香港で出版した「十年的路」で、1986年になって指導者の若返りなど政治制度改革の検討が本格化したとする。そのきっかけはトウ小平氏がつくった。 # c6 W' H2 Y" k* E/ @, r' i3 F+ ?, J7 c8 z7 t
トウ氏は86年9月、米CBSテレビのインタビューにこう話す。9 H" j0 q, x, j
$ Y9 g" g% f4 b) F k0 e1 `3 j/ L 「(80年に会見したイタリアの)ファラチ記者に85年までで引退するつもりだと話したが、1年超過してしまった。早く引退したいが、党内も人民も承知してくれない。来年の党大会で引退すべくみんなを説得中だ」2 }; V2 E2 _; K0 Y i; u& x
# r0 l- N9 {# |8 I6 q' d4 M* {3 t' m4 E 趙紫陽氏は95年12月に行った新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏とのインタビューで、こう明かしている。 9 P! J. n, p# \: \7 `/ I! x5 h
「86年2月、胡耀邦が訪ねてきて、トウ小平から『13回党大会で政治局常務委員と顧問委主任をやめる(中央軍事委主席には触れず)ので、君も総書記をやめて顧問委主任を引き継げ』といわれたと話した。そうすれば、大勢の老同志も引き連れ引退させられる、と」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」) 9 u4 F0 t8 c7 p l* R" H/ J5 ?1 a/ ?* U; ^" _" T, L- D
13回党大会ではトウ氏が率先して中央委員を辞退、他の長老たちも追随し、大幅な若返りが実現した。トウ氏は中央軍事委主席に留任、陳雲氏は顧問委主任、李先念(りせんねん)氏は全国政治協商会議主席、王震(おうしん)氏は国家副主席と、政治局員でも中央委員でもないヒラ党員が要職に就く変則的な「引退」だった。1 `6 {7 W9 r% c! t$ C
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新しい政治局常務委員は趙紫陽、李鵬(りほう)、喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)、姚依林(よういりん)の5氏で、趙氏以外は新任だった。後に学生デモへの対応で趙、胡両氏の柔軟派と李、姚氏の強硬派、喬氏が中立と分かれたように、保革の妥協の産物だった。 4 ]! D* ~0 |; o- b4 O4 O) l8 s 7 ~' |. b% I! n1 T: n 「楊書」によると、トウ小平氏は当初、積極改革派の万里(ばんり)、田紀雲(でんきうん)両氏も加えた7人制にすることを提案したが、保守派が難色を示し、断念したという。' g- U# I; G x: V/ W
7 n* M4 \) u6 s2 h! E' @7 @4 q" J これについては田紀雲氏は04年6月、北京の炎黄春秋雑誌社の幹部との懇談で、こう話している。; L# B E3 g# B W! d
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「トウ小平は大胆な構想を持ち出した。中央委員に投票させ、得票の多い順に7人を選んだらどうか、と。一部の長老が同意せず、小平は押し通さなかった」 - i# x" ]' h3 l: f3 L2 D! P7 n4 |$ g/ x) c% N/ L: R5 N
トウ力群氏の落選が示すように、改革派大優勢の中で投票で決めたら、次期首相に内定していた李鵬氏はともかく、陳雲氏の弟子で70歳の姚依林氏は落選したに違いない。そうなれば、保守派は反発し、改革の妨げになりかねない。; f* B* n5 g! `# [$ J [ r
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トウ小平氏は「富強の中国」の夢を趙紫陽氏にかけ、改革実行の環境づくりに、83歳の力と知恵をふり絞っていた。(伊藤正)7 }# o3 v# l1 d
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【メモ】 # p" \# l7 q+ P( T+ a' p 0 | f- z( y7 ?1 }2 @- I 中国共産党の基本路線は5年に1度開かれる全国代表大会(党大会)で決定され、少なくとも年に1度開かれる中央委員会総会が具体的な政策と方針を決定、指導する。中央委総会閉会中は政治局および政治局常務委員会がその職権を代行し、党の最高機関となる。このシステムは、第13回党大会(1987年)以降定着した。4 n. W d. p) X/ X& s ^9 O7 r
7 D+ M |7 k$ n* y v 中央規律検査委員会は党規違反や汚職などを摘発。中央軍事委員会主席はトウ小平氏以降、事実上の最高権力者のポストとみなされている。直属機関には中央宣伝部、中央組織部などがある。' u2 m/ `1 [" w6 Q4 P% Y: @2 O" `7 O
2 C ]- k& m7 N/ C# M8 f0 }8 N# [/ ?& L 中央顧問委員会は1982年、トウ小平氏が老齢化した革命第1世代の古参幹部を引退させるために発足させ、長老たちを受け入れた。最盛期には約200人の委員が就任し、党指導部に対して大きな影響力を与えたが、92年廃止。 4 E; o, ]8 i( r( M( M ! a' x/ g! S' q/ [7 j(2007/02/21 08:11)6 S! `! O' R/ W- v4 M8 {- [% z
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1987年11月、北京・人民大会堂で行われた第13回中国共産党大会の開幕式に出席したトウ小平氏(前列中央)。向かって右は趙紫陽氏、左は陳雲氏
% i$ D0 i3 u7 |+ j. s英国《泰晤士报》驻京记者发自北京,题为《中国缅怀改变世界的人》 . E( `3 e3 r1 L- F' t M' k" k上世纪70年代邓小平复出的时候,中国最高的建筑物是18层的北京饭店。如今,53层的京广中心高耸入云,而且,到了2008年,高330米的国际贸易中心将超越京广中心,成为北京最高的建筑物。要不是邓小平决心实行对外开放和透过进行经济改革摆脱贫困的话,中国的建筑物或许依然不会很高。 . i3 B$ v5 y- f% e$ e2 V- y* g* p: k( X
不过,尽管邓小平在改变中国的过程中起到了如此关键的作用,但对邓小平逝世10周年的纪念很可能会像他本人一样低调。今天是邓小平逝世10周年纪念日。 1 i" S0 p: h* h- m
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她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。 8 Q7 ]1 j3 b O, J: [! ]
$ A5 ]% p7 p, e' q, C邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。” 1 _. ]: Q* d7 e o
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生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 7 \2 [5 r: K! l7 [% `; B7 a Y# P' v( v7 J: @ 邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 - ~8 U) A" G& j3 J5 M! |4 W8 ? ( O, Q$ x3 x/ k 她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 5 y9 v( c( ^3 a6 }2 a7 f) b: v , [1 Y1 o$ m! W- V/ O 她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” ! ] k8 I1 J# U; A
$ a1 e7 J8 B% |0 F0 D 在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 7 N' `$ Q5 d0 R* h
. c4 q, `5 {6 L$ t 邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 6 ?. ^- X9 S+ X/ c: j( t; c6 D a) {
香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。” 6 e; v& a- l% } \( j 1 ~0 t G) ^4 r& C" k 4 `, m) G( o/ H- y8 D 他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 ! I- a# b1 C9 n* O6 r t2 h: B- @6 |
在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 8 l- E9 I& e6 O$ P8 q# W7 {/ C% P1 m `5 M$ U1 _+ |6 T+ G
邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。 . A' q' B, S7 C( o) \% F8 {7 J( W8 }; x
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China honours man who reshaped world 0 [- r j! Z0 EWhen Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. 2 I% @0 Z0 b) r* [& S7 q3 a7 D$ B, j: \3 v5 N
China might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. ( `" ?3 d9 t, x
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But despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. * Z5 w y6 U1 R- E . z }, S# E7 Y, H; KHis daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. ! F# v3 Y( b: Y9 T/ A% w8 Z
' W4 L( P% w2 [% P+ G# K5 d) g“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” : n5 r5 y4 a! ~
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Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. ( v8 ^+ c% I8 d, _" p! Z 4 y/ t: u' S# g( n nMs Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. : L+ J1 e, m/ t2 p2 ?+ L- r# N8 o) [9 B
She said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” 9 G+ |' h5 s' z4 p5 u$ i# K5 _, u" }
Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. 1 n( U2 i3 ^2 S$ n8 j1 r8 n, R3 B- w
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Deng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. $ _9 t& h! |4 j' ~5 a+ t) I5 s0 j7 d! k7 h0 \6 V+ o5 j) W
David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” 1 e9 ]7 @2 R2 s, s% g& T- C
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He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. ) O0 B$ n5 T- E6 Z- |) c- L) ?" U
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Mr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” $ Q* p5 w M! Z4 g 5 ?: T h0 x0 P7 L, tMs Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. , B- R7 r6 L. Y2 Y3 G7 a
( e) P9 s1 e$ [# m! YBut he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. 8 Y) Y, ?) h8 k m/ [
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His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” v3 j) r- X+ H @ 8 D9 }( D& c/ Q! S2 KLong road to riches . u4 @$ M) o# y4 y D4 f" _ & I1 j2 D8 }+ @; d6 W1 b* yNow # _7 Y4 c& k2 c5 N5 @0 w) b2 K( x A9 r/ A. Q( u9 x
Population in cities: 550 million 5 G; x: X& |/ o6 d5 ~5 I3 Y0 m$ u
6 r" T9 N& d/ rGross domestic product: $10 trillion 9 ~* L! o2 n. m( ]5 [% y5 Z+ M0 w, G" W( ~, p$ t
Oil consumption: 6.5 million barrels a day / u' }! }0 f; p! Y$ F
6 \. c0 o9 A* }7 I8 e
Exports: $954 billion 7 @; l2 a5 o/ }- } + a' e# |! D$ W1 @Population below the poverty line: 130 million ( _1 j6 T3 S; o
! d7 ]* v0 I) X. }1 g* K8 x- v
Ten years ago 0 a! C4 t* _7 K6 T+ z8 D7 Q# y, \! B; @" B/ p
Population in cities: 370 million - s- I9 W, X& ^: u/ F3 t( t $ Z& N$ |8 y1 qGross domestic product: $4 trillion q/ v$ q+ O! y, M0 \4 U5 Z* f1 e# m+ M& v# U
Oil consumption: 3.9 million barrels a day ; q/ G* r! a9 @4 O; B, X+ r, ?, C. @5 L
Exports: $182 billion 4 P- d, y! T7 T T- G3 n6 }, f* _! x4 d$ ?8 t+ m, d+ l) y
Population below the poverty line: 120 million 8 c7 O0 F2 u5 x: Y, g5 S+ V% c! m2 |0 e" Q( g
Sources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies0 ]$ m ~) Y- G2 n* z# V& t
; C; n+ N' k- B% Z
) W$ L- P8 a& l' f! }; r“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。5 o. o/ Z8 h& ]) |
改革风波造成赵紫阳地位动摇 9 G5 t V, Z0 H- X5 K 9 d: z) I6 k$ y; |; i, ?% i) m(中央社记者张芳明东京二十三日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八八年夏天,中国实施价格改革引起的风波造成党总书记赵紫阳的地位大为动摇,保守派展开把赵紫阳赶下台的行动。% {% C4 u4 s. ^, E$ n
+ }+ D: l) k/ j0 m# L, d
文中指出,一九八八年夏天,中国在邓小平主导下的价格改革造成物价高涨,同年九月决定转换经济政策后,邓小平和赵紫阳之间开始出现隔阂。邓小平在接见外宾时指出,目前最重要的是整顿经济秩序,改革过急往往是错误的根源。五月曾表明大胆推动价格改革的邓小平变得宛如另外一人,显示物价改革发生的问题对他造成的冲击,反对改革的陈云提高了其存在感。 " `3 {# Z1 F( b& K/ E4 U0 u7 g当时的中国每次改革开放发生问题,保守派批评的箭头并非指向邓小平本人而是针对其“代理人”,邓小平也加入批评其“代理人”的行列,物价风波大大地动摇了赵紫阳的地位。 % c" T" o* V6 R) J, l& {8 K, S) K9 M! P1 q/ {6 C3 P m' }
“邓小平年谱”(中央文献出版社)指出,邓氏从一九八八年九月以后,每个月三次左右和赵紫阳共同出席会议或参加活动,但是,十二月二十日一同和中央军委扩大会议出席者见面后到次年三月四日为止,两人约两个半月未有接触,这段空白期到底发生何事引起注意。 5 r7 H. E+ Q; ] u7 L9 a : M7 X: k# _& E& ]. }赵紫阳于一九九六年十月接受访问时曾指出,他在一九八八年曾前往邓小平家说明对新权威主义的看法,邓氏在当时提出方励之的问题。方励之以煽动学生示威的罪名遭党除名,成为一九八八年九月以后,保守派重拾发言权并加强思想控制的背景原因。十二月在北京召开的改革开放十周年学术研讨会始终由保守派主导,对此表示反弹的知识份子的行动也趋于热络。 7 |; j" J" h5 a2 [) s & j/ M' Z$ p3 Q% O9 G“邓小平年谱”未记载会谈内容的面谈包括一九八九年一月十日和总理李鹏的会谈,一月二十三日和二月十日则依次和全国政治协商会议主席李先念和国家主席杨尚昆的会谈,当时和李先念的会谈成为把赵紫阳赶下台的开始。 8 {9 t' V2 X/ g, n. u/ z* ^8 o' x
【トウ小平秘録】(10)第1部 天安門事件 改革の盲点' l, b& j& v3 C+ w6 L6 ]# h, L
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1988年夏、事実上の最高指導者であるトウ小平(しょうへい)氏の指示で断行した価格改革が物価急騰と高インフレを招き、9月に経済調整に転じた後、トウ氏と趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の間にすき間風が吹きだす。「トウ小平年譜」(下巻、中央文献出版社)のトウ氏の発言からは、改革にブレーキをかけ、調整策に傾いていくのが読み取れる。 : K4 S# ?& K" q. L1 u3 w- E 0 F2 B" [7 \- d, { 「改革をやりつつ、環境を正し秩序を整えるのに賛成だ。インフレや物価上昇を抑えても、改革・開放を損なったり、経済を萎縮(いしゅく)させることはない」(9月12日、趙紫陽氏ら指導者への談話) ; {6 P( c s3 b6 C: n % f. Q+ G6 c* g0 ?& I% p* @; B 「速度の速さは本来いいことだが、速すぎると面倒を起こす。インフレは主として厳格な管理を欠いた結果だ」(9月16日、自民党の二階堂進元副総裁との会見で)! \( }' l+ V! P+ |4 y! t
( P9 r5 s4 H8 E
「われわれは現在、経済秩序の整頓を第1にしている。急ぎすぎは往々にして大きな過ちの元だ。しばらく前まで発展の速度が速すぎたのが、多分、(インフレの)原因だ」(10月5日、ケニアのモサ大統領に)1 b1 g- Z: f' M2 y) D$ W
0 S2 U5 [! \8 F) R+ Y/ t4 k' Q7 I 価格改革を大胆に進めよと言っていた5月ごろとは別人のようだった。トウ小平氏が最も嫌う「秩序の乱れ」「社会の混乱」が学生デモではなく、自ら発動した価格改革によって発生したことに衝撃を受けたに違いない。 " ?1 L ^- g6 L7 c$ E 1 O5 _( x# V" \- D それは価格改革に反対していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任の存在感を増す結果になった。9 W4 C9 w5 i9 [. i4 F
, R: I$ \- `. F3 y1 ?+ }/ C 「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、陳氏は88年5月18日、姚依林(よういりん)副首相から価格と賃金の改革案について報告を受ける。 + W, a. q( M( I5 ?& F+ H) j3 E, w b* l0 E( D$ F) _! m
姚氏は、改革の結果、89年から5年間、物価は年10%上昇するが、賃金はそれ以上伸び、5年通算では物価は60~80%上昇、賃金は100%増になるとの試算を説明した。それに対し、陳雲氏はこう話す。- U1 ^4 \( d# Q- h3 g( s T
C8 e7 S, J: E' B$ f2 l
「5年連続で物価が10%上昇するなんて、趙紫陽は大衆に向かって言う勇気があるのか。(姚氏が『言いますよ』と答えると)じゃあ賃金のない農民はどうなるんだ」9 v: a# v' u$ |# L3 x' ?! S
- N( i: E6 C7 e1 q6 D1 E& d 陳雲氏は同月28日には同じ保守派の李鵬(りほう)首相を呼び、この改革案に強く反対した。 9 k3 R( _3 M! V# h& K7 i* i% x( e' R- I) v
88年9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で経済調整への転換が決まったが、趙紫陽氏は一切自己批判せず、李鵬、姚依林両氏が意見を述べた後、一言付け加えた。( C4 T* t/ [% {9 n
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「どうやらわれわれは事態を知るのに遅れ、対応が遅かったようだ」* r. g3 Q# Q+ Z. W* @! H
' t$ Z8 y$ b& P) E( e: v. u, N(中央社记者张芳明东京六日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年五月四日党总书记赵紫阳对出席在北京召开的亚洲开发银行理事大会说明对大陆民运的看法后,拟以对话来收拾事态,邓小平对民运对策曾态度犹豫,学运领袖王丹等采取绝食抗议行动使得情势为之一变。 % ?. O0 S& ]0 M4 n5 t Q7 I: L/ ^+ U6 ^' j+ f
“秘录”指出,一九八九年五月四日亚洲开发银行在北京召开理事总会后,党总书记赵紫阳有意经由对话收拾学运。中共于八日和十日分别召开政治局常委会和政治局会议,决定促进与劳工界、媒体和学生的对话,早日召开全人代常委会及检讨处理腐败和民主政治建设具体案。全人代常务委员长万里决定六月二十日前后召开常委会。# @0 K# v, G: n: g* S4 L
' r9 v1 X0 @1 _* _中共党中央对民运改以柔软路线因应并非未遭到保守派的抵抗,且在社会各界引起复杂的反应,多数学生回到教室,五月八日时,只有北大等少数学生继续罢课,反应最敏感的是媒体界和知识份子,五四以后,要求“表现自由”的气势增高。3 C* P8 F9 l0 q4 s
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五月九日,中国青年报发表千名以上新闻从业人员要求和政府对话的信函,新闻报导和社论也出现很大的变化,支持赵紫阳路线的色彩升高。人民日报高层在内部达成共识,采取慎重态度未像中国青年报那样积极报导,主要是担心这种作法会提供反对赵紫阳讲话的藉口而挑拨激化邓小平和赵紫阳之间的矛盾。4 B1 e- N) }3 m% ]- O) c X5 T
: X) c; H4 y# q5 C张良编著的“中国六四真相”指出,杨尚昆国家主席于五月十一日和邓小平见面,指出王震虽反对赵紫阳五四讲话的内容,但是这项讲话确实有助使得示威趋于平静。邓氏则指出,李先念和王震等元老曾来电话要求他留意赵紫阳讲话。他接着指出,数天来一直思考到底是柔软对策还是强硬对策有利于解决问题。 8 U# c- T% l# Z2 O& G( a& M& w $ c2 X9 g* x! _1 r8 @! M% v) X杨尚昆随即向邓小平试探修改四月二十六日人民日报社论强硬路线的可能性,表示赵紫阳希望能稍微淡化社论的语调。邓氏只回答表示有意了解其他政治局常委的看法,并未表示反感。# o6 i3 t8 x4 g1 T0 g8 O" k$ k
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当时邓小平脑中最在乎的是四天后苏联共产党书记长戈巴契夫的访中,他和杨尚昆有相同看法,认为历史性的中苏和解不宜在民运示威中进行。/ N0 Y# `3 U6 Y3 O+ t
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就在邓小平对如何处理民运表现出犹豫之际,北大的王丹和北京师范大学的吾尔开希等激烈派学生领袖开始焦躁,主要是由于五月四日以后学运内部出现分裂而失去方向性。他们为了夺回学运主导权采取激烈的战术,进行造成情势一变的绝食行动。; Q# [5 ?, L6 d4 S5 W; ~
" V; L% G; v2 q$ j【トウ小平秘録】(21)第1部 天安門事件 内部分裂 2 L- G& ^. R$ E s* }+ M; ? ?4 o" w1 F; O, n! q2 b+ i
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中国共産党の前総書記、胡耀邦(こようほう)氏(1989年4月15日死去、肩書は当時、以下同)の追悼がきっかけとなった北京の学生たちによる民主化要求の運動は大きなうねりとなり、事態は予断を許さなかった。& |: K% I: G, k! J1 `9 A( X
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89年5月4日のアジア開銀(ADB)理事総会後、主導権を握った趙紫陽(ちょうしよう)総書記は、社会の腐敗批判や民主的権利拡大などの要求にこたえ、対話を通じて事態を収拾しようとした。 ; T8 P8 Y, f" Q, |5 ^7 K3 p0 i5 b1 k# U' h
5月8日の政治局常務委員会に続き、10日に政治局会議を招集、(1)労働者、報道界、学生との対話を促進(2)全国人民代表大会(全人代)常務委員会を早期開催し、改革案を討議(3)腐敗問題と民主政治建設問題は政治局で具体策を検討-などの方針を決定する。+ h+ P! z5 H+ u) d: ~' x
" D% G( E% l% m これを受けて、改革派の万里(ばんり)全人代常務委員長は同日、6月20日前後に次期常務委を開くことを決めた。議題には、集会・デモ法草案や新聞法起草状況の聴取も含まれていた(万氏はこの2日後の5月12日、カナダ・米国訪問に出発する)。1 w2 `* a+ `5 J W; f' a
/ g/ s1 G2 K r) g 柔軟路線に抵抗がなかったわけではなかった。陳希同(ちんきどう)北京市長は6月4日の天安門事件後の30日に行った全人代常務委への報告でこう述べている。9 ^" ^% i6 }5 k. V ~
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「北京市側の強い要求で開かれた(5月)8日の政治局常務委で、趙紫陽の5・4講話は4月26日の人民日報社説の精神と一致しないと指摘する者がいたが、趙は『間違っていたら自分が責任をとる』と述べた」6 h2 x; G& H% \5 E: |+ J
9 J6 n+ e; ~, }- \$ B* [ 張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、その指摘をしたのは陳市長自身で、「大学の同志(当局)の中には、総書記の講話は、学生運動を動乱と言わず、4・26社説と一致しないとして戸惑いがある。どちらが正しいのか、と」と主張した。& j& w9 B U$ H8 W! R8 d- x- Y
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党中央の柔軟路線への転換は、社会各界に複雑な反応を起こした。多くの大学で学生は教室に戻り、5月8日の時点で、一部学生が授業放棄を続けていたのは北京大などごく少数だった。中国政法大など穏健派の学生側は、対話代表団を組織し、政府との対話に戦術の重点を移す。% L2 q1 l' [; x; v
9 U* f' n3 R; a- Z3 Y( p3 I 最も敏感に反応したのは報道界と知識人たちだった。4月下旬の世界経済導報弾圧事件を機に始まった知識人らの「表現の自由」要求は、5月4日以降勢いを増す。* C4 |& b6 s, K) k7 Q0 \5 |* R* v* y
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9日には「中国青年報」の李大同(りだいどう)記者らジャーナリスト1000人余が政府に対話を要求する書簡を発表、10日には100人余の文学者が自転車デモをした。新聞の報道、論評にも大きな変化が表れ、趙路線への支持色が強まった。# w- Q% K4 Q2 A/ }' ^( A( f% c
; J, B# h: w$ I 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、5月8日、銭李仁社長が、「胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員、宣伝・報道担当)から、趙紫陽講話の精神を実行し、どんな要求も提出してよいと電話があった」と明かしたという。趙氏が6日胡啓立氏らに「報道を少し緩和してよい」と指示したことが背景にあった。 9 O+ V+ u/ u5 |6 y, s; T6 K0 s" p' \2 U
しかし、陸氏は銭社長や譚文瑞(たんぶんずい)総編集長と、胡績偉(こせきい)元人民日報社長の民主化要求発言を掲載するなどしていた中国青年報のような積極報道は控えることで合意する。「趙講話反対の口実を与え、トウ小平(しょうへい)と趙紫陽の矛盾を挑発、激化させる」と懸念したためだ。8 F0 i3 a4 e1 I) K
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陸氏は何東昌(かとうしょう)国家教育委副主任ら保守派が「趙講話は党を代表せず」と触れ回るなど巻き返しの動きに出たことに注目、「状況は微妙だ」と書いている。 R1 {0 @ ^8 @. U, m! R ; Q4 U6 a! {" t) P' N そうした中で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席は5月11日、トウ小平氏に会う。楊氏は「王震(おうしん)同志(国家副主席)は趙紫陽講話に反発しているが、講話がデモの沈静化に役立ったのは確かだ」という。 & l* v: s7 Q% f' \- ^" F* e1 ]: s+ c. c0 V
それに対しトウ氏は李先念(り・せんねん)政治協商会議主席や陳雲(ちんうん)中央顧問委主任ら長老から、趙講話に注意を促す電話があったことを明かした上で、こう話す。 * N) \" ~% B) t8 V* N% T ?% }. T* d2 D* [: v
「数日前から考え続けているんだが、結局、(柔軟策と強硬策の)どちらのやり方が問題の解決に有利なのか」 5 X; K* w: @$ @6 N( r + _8 e- g$ ]3 }1 Y7 {8 |$ _& n そこで楊氏は、人民日報社説の修正を打診する。「趙紫陽は社説のトーンを少し和らげるよう望んでいる」: Z0 ?) X' h# |: M
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トウ氏は「ほかの常務委員の意見はどうなんだ」と言っただけで、反発しなかった。トウ氏の頭を占めていたのは、4日後に迫ったゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中だった。歴史的な中ソ和解をデモの中でやるわけにいかないとの点で、両氏は一致する。 , M, m8 }2 W0 ^ " o: e5 ?! _ ~4 \4 } トウ氏はこの時点では、趙氏に秩序回復の期待を抱いていた。楊氏に「一度、3人で話し合おう」と話したのはその表れだった。 6 M+ G- m6 W6 `- F9 z# T; \$ N1 ?- W: R+ x. O
《以上のトウ・楊会談は「真相」による。「トウ小平年譜」には会談した事実も載っていない》) h, Y0 d' }7 ~2 w8 ]+ m2 m' I
* l, x/ r& q% R8 f, \& l/ w トウ小平氏が迷いを見せる一方で、北京大の王丹、北京師範大のウアルカイシ氏ら過激派学生リーダーは焦り始めていた。デモは4・26社説で勢いを取り戻したものの、5月4日以降は方向性を失い、運動内部に分裂が起こるなど迷走していた。 1 f; o; ?: M6 F" d ! v. L" u. |4 x* F0 d 彼らは運動の主導権を奪い返す過激な戦術に出る。情勢を一変させた絶食行動だった。(伊藤正)/ ?1 S$ Q* L/ r! Q; j) X2 v
邓小平秘录:学生绝食战术给保守派动武藉口% L8 X$ ~/ X4 f& x- L5 c ^
中央社! \3 x+ l. A S2 y! O+ W7 {
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日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十三日民运学生在天安门广场开始绝食行动造成党总书记赵紫阳的柔软路线出现破绽,也带给保守派武力镇压的藉口,与天安门事件有关的学生领袖和知识份子后来都为当时的作法表示后悔之念。0 g% v: E1 s. ]) W7 o8 I1 B' F
2 A F+ W$ b% W! D& x 「秘录」引述「六四参加者回忆录」一书指出,民运学生是于十二日晚上在北京大学「三角地」广场决定采取绝食战术。学生对话代表团领袖江棋生前往会场拟阻止绝食战术,但是北京师范大学学生柴玲向数千名听众哭诉,造成绝食自愿者接二连三出现。8 |7 g1 F% e9 e6 Z
8 |* |( @7 v' ?; s0 r6 {8 u2 M # ~) k. h' G9 @. ~ 但是,柴玲对王超华反驳指出,北大学生已决定绝食,「高自联」无权阻止学生自动自发的行为。十三日,王丹宣读绝食宣言,约一千人开始在天安门广场静坐绝食。绝食宣言的重点是要求政府撤回四二六人民日报的社论,并让学生以对等立场和政府对话。4 F+ M5 P/ v: R* \7 i" Z) a2 w' |
* w" V4 W! f8 D+ h* S 王超华和中国法政大学及人民大学的学生已逐渐形成以对话路线收拾事态的稳健派,但是,却被采取绝食战术的北大和北京师范大的激进派夺回主权,升高了学生运动和政府之间的对决色彩。: Y9 u3 b; e1 [# E2 t, E' d
: w& b3 c% b+ |* _: h4 W 十四日下午,光明日报召开知识份子的集会,会上统一战线工作部来电话给该报记者戴晴,要求说服学生中止绝食,会上全员近打全部出动进行说服工作,但是,并未能阻止学生的绝食行动。 C( ?$ h, C' M R
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就在前一天的十三日上午,赵紫阳和杨尚昆前往拜会邓小平,邓氏已知道学生的绝食战术。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳向邓小平说明十日政治局会议的决定,将采取防止腐败等具体措施终止学运。 % k/ F4 @, @/ \7 C3 E* i( a- y# g# `8 K/ }
邓小平指出他面对李先念等多数元老的强大压力,但表示同意赵紫阳的对话路线。赵杨邓三人会谈达成的共识是,十五日苏联共产党书记长戈巴契夫访中之前能够恢复秩序。/ o8 B/ m. M- Z9 l w# t" y
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对赵紫阳来说,这是相当于「最后的通告」,无论如何须在十五日以前让学生中止绝食行动。但是,对话和说服都未奏功,十四日晚上可说已经决定了赵紫阳的命运,邓小平和杨尚昆在未能排除学生离开天安门广场的情况下欢迎戈巴契夫的到访。 : H& C5 Y' F5 F* K; l4 o7 U: c & P0 s" M5 @6 n2 M5 l 学生绝食是于北京宣布戒严令次日的五月二十一日才被迫中止,在学生坚决实施绝食的九天之间,流血镇压的剧本已被写下。 x0 B Q3 F4 D0 Y; o; l6 o. j+ q5 P- E z& r0 j
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【トウ小平秘録】(22)第1部 天安門事件 絶食宣言 G" X* L( W8 H3 e4 ?2 f; u# _+ g( p5 S+ M* F# d9 Q
■急進派が押し切った K) A7 y( j. _& ^6 @+ X$ I0 j& R
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1989年の天安門事件に関係した学生指導者や知識人たちのほとんどが後年、後悔の念を表明していることがある。5月13日に天安門広場で始まった絶食戦術だ。それによって、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線は破綻(はたん)し、保守派が武力鎮圧を決める口実になったからだ。 " d# J4 z- Y; c* ^2 C% S $ S P8 {& G: x 戦術が決まったのは12日夜、北京大学の「三角地」広場での集会だった。人民大学研究生(大学院生)で学生対話代表団のリーダーだった江棋生(こうきせい)氏は、絶食戦術を阻止するため集会に行く。しかし北京師範大の柴玲(さいれい)氏が泣きながら、数千人の聴衆に訴え、絶食志願者が続出したという(「『六四』参加者回憶録」明鏡出版社)。 6 R# ]( a6 i; ]' H" L 7 H: t/ _8 b' e2 Q# m! A- n; I 同書では、北京電影学院生の馬少方(ばしょうほう)氏が、詳しい経緯を明かしている。それによると、11日、人民大近くで昼食中に、北京大生の王文(おうぶん)氏が切り出したのが発端だった。馬氏だけでなく、北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ氏らも反対だったが、午後、王文氏に迫られ、8人が絶食提案書に署名する。7 A( \+ Q/ T4 h- Z; s. T* u
5 O) c* ~$ g$ n9 U しかし北京市大学生自治連合会(「高自連」)内では、中心メンバーの中国社会科学院研究生の王超華(おうちょうか)氏(女性)をはじめ反対論が強かった。北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏は「天安門之争」(明鏡出版社)で、王超華氏と妻の柴玲氏との激論を紹介している。 ' U" [& T$ K5 @ G& T( y4 j# |! Q! t2 x& D 絶食提案書を手に「なぜ高自連は許さないのか」と迫る柴氏に、王氏は「焦る気持ちは分かるが、上部(政府)は、学生運動が終息すれば、穏当に解決しようと準備中との情報を得ている」と突っぱねる。 5 _3 W* X$ a0 G) F7 t# {4 H: B / D5 z, R6 l! o* E. C y' A# d! H+ i それに対し柴氏は「もう北京大では絶食を決めている。学生の自発的行為をとめる権利は(大学間の連絡組織である)高自連にはない」と反論。13日に王丹氏が絶食宣言を読み上げ、約1000人が天安門広場に座り込み絶食に突入する。% _3 u; i7 h& C1 y0 ]6 k5 p
: I& y' S1 L' S. T/ `2 h 宣言のポイントは、学生デモを反党的な「動乱」とした人民日報の4・26社説の撤回と、対等の立場での政府との対話だった。政府側は11日に高自連に対し、週内、つまり13日までに回答を約束、改革派の閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長(中央委員)が政府側代表になることを決めていた。 6 _6 h+ `5 I# M1 Y. E2 t7 G- Z) k: C8 w$ [
王超華氏が柴玲氏に言った「上部の準備」とはそのことを指す。王氏は中国政法大や人民大の穏健派とともに、対話路線で事態を収拾する主流派を形成しつつあった。しかし、絶食戦術で北京大と師範大の急進派が主導権を奪回し、以後、学生運動は政府との対決色を強めていった。 7 S: W$ g; H% ]/ H * y+ ]4 a* m1 }. o7 d; Z* r 在米の政治学者、楊炳章(ようへいしょう)氏は「李鵬(りほう)(首相)ら(保守派)は絶食を趙紫陽の開明政策への風刺と、また趙紫陽周辺は、それを李鵬の保守政策への抗議と、それぞれみなし非常に喜んだ」と「小平大伝」(香港・時代国際出版、04年)に書いている。7 J# u9 I. X0 k" @
+ A$ o2 U2 O$ ~2 U 李首相はともかく、趙氏周辺が絶食を歓迎したというのは、後知恵的な推測にすぎない。なぜなら趙氏秘書の鮑●(ほうとう)氏は、閻明復氏に学生との対話を促し、5月13日夜と14日午前に高自連代表との対話を実施したからだ。 $ q% m: a& e8 x# _; G) e, e0 |/ B K
14日午後、光明日報で開かれた知識人の会合中、同紙の戴晴(たいせい)記者に統一戦線工作部(閻明復部長)から電話で、学生らに絶食中止の説得をするよう要請があり、ほぼ全員で説得に行く(会合に出席していた包遵信(ほうじゅんしん)中国社会科学院副研究員の著書「六四的内情」による)。0 R% K7 p( {7 X/ g1 L- J
3 T1 x3 C2 `4 s3 O( c 政府との対話も知識人の説得も、絶食をとめることはできなかった。本来、政府側が対話に応じれば絶食は中止するはずだった。しかし対話が実現すると、学生側は4・26社説の撤回に固執したうえ、党首脳との交渉に条件を引き上げた。 6 y j% n# S, U( E+ b/ ]8 j. {. K! W7 d L
13日午前、趙紫陽氏と楊尚昆(ようしょうこん)国家主席はトウ小平氏に会いに行く。既に学生の絶食戦術は伝わっていた。張良編著の「中国『六四』真相」によると、趙氏は、10日の政治局会議で決まった、腐敗防止など具体的措置を取り、学生運動を終息させると説明する。 P, O) ?( G* R2 E
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それに対し、トウ氏は、李先念(りせんねん)政治協商会議主席ら多数の長老たちから強い圧力を受けていることを明かしつつ、趙氏の対話路線には同意した。趙、楊、トウ3者会談の一致点は、15日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中前に秩序を回復することだった。7 n. r$ \1 m+ h/ a8 A/ |0 y
- M0 G& S8 J/ p( Z9 G" |( { 趙紫陽氏にとっては、「最後通告」に等しかった。15日前に、何としてでも天安門広場の座り込みをやめさせねばならない。しかし、対話も説得も功を奏さなかった。 ) Z, L' K' O' g4 b. u g1 h7 p+ I! Q8 \: }0 Z1 g+ N" \
14日夜の時点で、趙紫陽氏の命運は決まったも同然だった。13日の3者会談で、トウ、楊両氏が「中国の象徴」とした天安門広場から学生を排除できず、ゴルバチョフ氏を迎えたからだ。7 v) Y2 t) w1 N7 ^8 ^# Z. O: W
1 s& T& X; ]# |7 b6 t- P
絶食が中止されたのは、北京に戒厳令が布告された翌日の5月21日だった。絶食断行中の9日間に、血の弾圧へのシナリオが描かれた。(伊藤正) / P6 ^. M5 ~7 g9 q/ D6 w& [# Z) @* r" u% T5 G- j: Q5 E' i
●=彫の周が丹/ r2 \6 C0 i% B1 e G
$ Z" ]. r. O4 X# y) a, L. C ◇ ' S; d& W. E. @. o6 }1 u; N0 y" f, |8 I4 l, J7 Z- r! j1 q+ F
【用語解説】中国社会科学院 " L$ V n" }3 T! t ; p# p' f$ b9 P+ e 中国政府直属のシンクタンク。1977年に中国科学院から独立し創設。歴史、考古、民族、言語、文学、思想、新聞、社会などのほか、日本研究所など世界の地域研究も手がける社会・人文科学の総合的な研究所で、政府に献策する。学者育成のための研究生院を併設。天安門事件当時、多くの研究生が学生運動に関与した。本文中の王超華氏は事件後、国外に脱出。; P9 q8 k( i: d. z- w
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(2007/03/07 )
, `7 J; S: g; e( U8 F赵紫阳于十七日早上送函给邓小平要求见面,希望邓小平能修正四二六社论,他把这次见谈视为最后的希望。“邓小平年谱”指出,十七日下午,政治局扩大会议在邓宅召开,除常务委员之外,杨尚昆也出席。 + R- q( M/ v, i) A6 d9 g$ c q* M9 V9 i! _
赵紫阳事后在软禁下的一九九二年七月对老友宗凤鸣指出,他要求见面,结果邓小平却通知其他人也出席,显示出无意听他的意见。邓小平在当时已下定了重大的决心。 & t, l1 [4 A$ a; Y1 `! F) r 5 l e' W( t; \9 L p3 T6 J" Q% S1 B【トウ小平秘録】(23)第1部 天安門事件 中ソ首脳会談 . m* l. @/ z& w( L1 N 4 p S Z' E; Y# G9 N6 M北京の大学生が天安門広場で絶食に入って3日目の1989年5月15日、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(肩書は当時、以下同)は北京に到着した。歓迎式は、空港で行われた。本来、国賓を迎える会場となる人民大会堂東門前は使えなかった。天安門周辺には50万人のデモが繰り出していたからだ。 ' y' Z4 i4 ?! t: S" F9 R$ F; o6 ]+ K2 V1 c4 t4 G; |% g% D
宿舎の釣魚台迎賓館に着くなり、ゴルバチョフ氏はソ連大使に「中国にも改革の波が起こったようだな。すばらしい」と話した。書記長はリムジンの窓越しに「われらに自由と民主を」「ペレストロイカ万歳」など、訪中を歓迎するスローガンを多数目にしていた。 * p+ T- q, W/ \9 J0 e/ A % T# @! S, Q7 }2 X- ?2 T/ k! D ゴルバチョフ書記長は16日午前にトウ小平(しょうへい)氏、午後に趙紫陽(ちょうしよう)総書記と会談する。趙氏はそこで、トウ氏が最高指導者であり、午前の会談をもって中ソ関係は正常化されたと話し、その理由をこう説明した。 ' e* f3 I2 T1 ]2 n( _- }2 ~6 d9 a# e
「87年10月の第13回党大会で、トウ小平同志は中央委員会から退いたが、(大会後の)中央委員会総会(1中総会)で『最重要問題についてはトウ小平同志のかじ取りが必要だ』と決定した。以来、われわれは重要問題の処理に当たってはトウ同志に報告し、教えを求めている。この重要決定はあなたに初めて話した」 & N4 ~& z: F) |+ [. W& D 3 h; Y" U- D* ~" Q1 t 重大な発言だった。「秘密決議を漏らして闘争の矛先をトウ小平同志に向けさせ、情勢を一層悪化させた」(天安門事件後の李鵬(りほう)首相や陳希同(ちんきどう)北京市長の報告)として、趙氏の罪状になった。: S( _& ]1 H: v: ]
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趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏(中央委員)によると、趙氏は1中総会の開幕の辞で、この決議を読み上げ、満場一致で採択された。その2日前、趙氏から「引退するトウ氏に敬意と感謝を表したい」と頼まれ原稿を起草したという(同氏著「中国的憂思」香港・太平洋世紀出版、00年)。 5 D ?( P( h$ i" o6 l: T4 D/ \% x4 M5 a; A& `/ Z; |
鮑氏は「李鵬は(学生デモを反党的と断じた人民日報4・26社説の)『動乱』規定はトウ小平講話に基づくと言いふらし、とっくにトウを前面に出していた」と趙氏を弁護したが、タイミングがいかにも悪かった。 8 N5 u7 _8 B$ d. |. b" q( T5 Q3 R: a. b& y$ U. F y9 m3 t
新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は「この談話(趙紫陽氏のゴルバチョフ氏への説明)を聞いたとき、多くの人は、趙紫陽には局面悪化の全責任をトウ小平にかぶせる意図が潜んでいると考えた。これでトウと趙の関係は決裂した」と書く(「中国改革年代的政治闘争」)。/ V; v( | P5 N% P8 b5 s" w
8 W3 b0 T8 y" q その報道の後、学生が「垂簾(すいれん)政治反対」「老人は引退せよ」などとトウ氏攻撃を始めたからだ。 " g' a" V0 c) s, F; p $ T# L: @3 ~& O5 I8 t7 C 趙氏とゴルバチョフ氏の会談が終わった後の16日夕、天安門広場では、閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長が絶食中止を必死で訴えた。約2000人になった絶食学生からは病人が続出していた。4 P3 c/ f' m+ u7 P
# h( @% Y/ \6 Z1 m; p 北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ両氏は動揺し、絶食中止を提案したが、拒否される。世間の同情と支持、メディアの注視が集まる中で、絶食学生らは高揚し、運動は統制力を失っていた。3 ~9 M% m2 j" x/ S' J" K8 U2 I
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この日のデモも50万人規模になり、労働者や文化人、ジャーナリストなど、参加者の広がりが目立った。大学の大半は再び授業放棄に入った。5 \ P# X/ Z% w3 l' z! s: X
; }7 ]4 ]+ h7 c# J 既に趙紫陽氏主導の柔軟路線の行き詰まりは明白だった。16日夜の政治局常務委員会では、強硬派の李鵬首相、姚依林(よういりん)副首相と趙氏が激論になる。趙氏はなお人民日報4・26社説の修正が事態解決のカギと主張する。 & t/ Z# E6 r& C0 K! B/ b! N: J( G# @2 l9 @# x: k
しかし、それまで趙氏を支持していた喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)両常務委員は疑問を示した。常務委にオブザーバー出席していた、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と薄一波(はくいっは)中央顧問委副主任も柔軟路線に反対した。; d/ o+ S( c' n1 ]" p
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学生運動同様、趙紫陽氏も退路を失いつつあった。形勢逆転には絶食の即時中止しかない。趙氏が17日未明、党中央を代表して発した書面談話には悲痛な響きがある。 5 o" R4 [* g! g 1 q3 B) D2 \) e3 T \8 l 「学生諸君、君たちの要求する民主と法制、反腐敗、改革推進の愛国の熱情は尊い。党と政府は決して報復しないと約束する。諸君が絶食を中止し、学校に戻った後、党中央と政府は君たちとの対話をさらに進める。再度お願いする。絶食をやめてくれたまえ」 - ?$ @/ b" @" I; s3 y& U1 J* P8 y5 E* w0 T0 p% d' J# h
陸超★(りくちょうき)氏の「六四内部日記」によると、この談話は16日夕、中ソ会談の写真を持ってきた楊尚昆主席の長男でカメラマンの楊紹明(ようしょうめい)氏に人民日報の銭李仁社長が会い、趙氏の談話を同紙に出すよう楊主席への説得を頼んだのが発端だった。党中央は17日未明に新華社を通じ全国に流したが、学生運動の「動乱」規定の否定を否定しておらず、「効果には疑問があった」(陸氏)。 , U% h3 V. R2 h' ^1 ]1 ~$ |- u, z2 {$ ]+ d
趙氏は17日朝、トウ小平氏に面会を求める書信を送る。トウ氏に4・26社説の修正を受け入れてもらうためだ。趙氏は面談に最後の望みをかけた。 : {, Y, y/ o1 | , ]$ U% Z2 V0 @0 v# I) Y' L. t. ?+ ?/ F 「トウ小平年譜」は「17日午後、住居で政治局拡大会議」と記している。その通り、トウ氏宅には李鵬、姚依林、胡啓立、喬石の常務委員と楊尚昆氏も集まっていた。+ F% K, d9 h3 L/ i9 X. B8 U R/ G
. w( P1 R) _$ G( n7 S4 w& T 「私が面談を要求したのに、トウ小平は彼らにも通知し呼んでいた。私の意見は聴く気がない表れだった」と趙氏は92年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」開放出版社、07年)。, D+ q o1 Y+ a: E
" C2 q2 q- H* Q0 o. S- c2 A トウ小平氏は既に重大な決心をしていた。 . M: j5 _1 l) r: }( a, F* {* z+ A F5 g; k
(伊藤正)9 H( K9 |; W4 b5 k; a8 a! K
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【プロフィル】宗鳳鳴氏 $ v Y8 E$ u: o, D2 i# c; `, l0 C8 f7 y9 ~1 K$ `) v
趙紫陽氏と同郷の河南人。航空技術畑出身で、元北京航空航天大学教授。80年代に国家経済体制改革研究会に参加、趙氏と親交を持つ。趙氏が天安門事件後、軟禁された1年後の90年7月から、死去3カ月前の04年10月まで、「気功師」として趙氏宅を約100回訪問し対話した記録本を今年1月に刊行。00年刊行の回想録でも、趙氏の発言を紹介している。- n; w ]( Y% a, ] }. t
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●=彫の周が丹; m- R' I3 j4 _- v7 [7 f2 B
; Z7 Z5 n0 X. ^% O 市民の抵抗、将兵の動揺、軍長老の反対…。戒厳令を布告したものの、直ちに武力で秩序を回復するとのトウ小平氏のもくろみは崩れ、社会全体と対抗していく。しかしトウ氏は、焦ることなく、武力行使に向けた態勢を徐々に整えていった。# {" ^3 K: l/ s# H n
- \% v0 L" t, M/ B
「トウ小平年譜」によると、戒厳令布告当日の20日午前、トウ氏宅で政治局常務委員会拡大会議が開かれた。会議出席者は、陳雲(ちんうん)、李先念(りせんねん)、彭真(ほうしん)、楊尚昆、王震(おうしん)の各長老と李鵬、喬石(きょうせき)、姚依林(よういりん)の3常務委員で、戒厳令に反対した趙紫陽、胡啓立(こけいりつ)両氏の名はなかった。& v7 n9 @) K% w: l v! |
6 ~3 q6 H; ~# c p% R* R, N8 O 「年譜」には、この会議でトウ氏が江沢民(こうたくみん)上海市党書記を総書記に昇任させる提案をしたとある。趙紫陽総書記と胡啓立常務委員は停職になり、失脚したことが間もなく分かる(解任決定は6月24日)。4 `% v8 Q! P! R- `8 ^) t* p* _% M
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「陳雲伝」(下巻、中央文献出版社)によると、トウ氏がこう話した。 / p" u) p- h! X7 }% Z. c6 O1 v# q+ V) k* a
「問題の根は党中央にある。党内には2つの司令部ができた。この処理に当たり、(学生デモを動乱と規定した)人民日報社説は正しかった。譲歩するかどうか。譲歩すれば中華人民共和国はなくなってしまうだろう」' ?$ p3 @6 x+ o2 `
9 v- `% J, y _! ] 党中央は1つの司令部にまとまり、あとはどう騒ぎを鎮めるかだ。 * o6 F( ?% Q* D+ u6 l# p; s/ T8 n + D. o$ L9 ^' ?1 p 一方、運動側は指導の中核がなく、戒厳令を撤回させる戦術も決め手を欠いた。 1 J, e0 N- K; u- A+ p2 O9 p( q# [, L7 z
そうした中で浮上したのが、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会常務委員長への期待だった。(伊藤正) / P: S; r5 o; Q( C2 p U& s3 Y
◇ . T( }0 p! y4 i1 a7 q/ T* f " Y; k' U; y5 @9 W* d0 `) z【用語解説】戒厳令9 ]; `* r- J' e; [% O
; O4 c0 ?) a/ b' p. w 暴動などの緊急事態発生時にとられる非常措置で中華人民共和国憲法に規定。全国または省・自治区・直轄市への戒厳令は全国人民代表大会常務委員会が、その一部地区の戒厳令は国務院(内閣)が決定する。89年3月にチベット自治区のラサで騒乱が発生した際にも発令された。96年に戒厳法が公布され、国家に危害を及ぼす集会・デモ、ストの禁止や報道管制など具体的に規定した。 2 X1 ~/ c5 M) d- O) \1 m( `& k: |2 g" ]; L
(2007/03/11)
2 D( n% u/ `9 r* [7 c9 j' @: q. \ k 五月二十三日,北京出现戒严令之后最大规模的数十万人的示威后,中共有关当局下令各部门和工作场所禁止示威,二十四日以后,参加示威者急速减少,中共元老们的动向也逐渐明显化。大陆知识份子预感党中央行使武力的行动已接近,继续说服学生撤出广场,学生也曾决定撤出广场,但是悲剧仍然发生。 ' `# P y4 V+ _! e3 h* C# n6 T9 } c$ O
【トウ小平秘録】(27)第1部 天安門事件 緊急帰国 f9 _' f! L9 f / Y* d0 L( U. c6 {' a# \天安門広場での座り込みは続いていた。1989年5月20日の戒厳令布告後、学生側は北京市民とともに軍の市内進駐を阻止していたものの、政府が学生の要求に応じる気配は全くなかった。むしろ政府が武力行使に出る可能性が日々増していった。 3 P) H4 v1 O, w) I1 }7 N 6 R9 l9 e/ K8 r7 W& i3 A - Z7 s8 P2 x/ B9 @ ]. b5 S2 D, y
期待は裏切られた }0 T7 m/ b* h& w! t$ \! R, B7 ?
( o1 k* x: ~2 d# j. T6 k そうした中で、外遊中の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長(肩書は当時、以下同)への社会の期待が高まる。きっかけは5月17日の新華社電が、万氏が訪問先のカナダで、学生運動を「改革を促す愛国行動」と肯定する発言をしたと伝えたことだった。, P V. V+ r$ H" q$ S/ e
& H+ b: d; o x0 F s% o 万氏の外遊出発前に、6月20日前後に予定していた常務委会議を繰り上げ開催しようとの動きが常務委員を中心に始まる。/ E. J1 O! Y& K. }
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万里談話が伝わった5月17日は100万人デモが行われ、トウ小平(しょうへい)氏や李鵬首相の強硬姿勢を批判、絶食学生への声援がピークに達していた。政府に対話を通じた事態の平和的解決を促すことが、緊急会議招集呼びかけの当初の狙いだった。 U; x8 Z: e; z9 \' p9 i, v
, H4 v* w. D3 d y7 F: s しかし戒厳令後には、政府への対抗色が強まる。例えば21日に胡績偉(こせきい)・元人民日報社長ら40数人の全人代常務委員が署名、発表した緊急会議提案書は「法的手段を通じ人民の意思を反映させる」と述べていた。某常務委員は「李鵬をクビにする」と語ったものだ。 R7 X; u) q; E( z * w) g4 }8 H: N E' e8 ? 党中央の指導下にある全人代が党の決定を覆すことはあり得ない。が、万氏が帰国して全人代常務委を招集すれば、戒厳令反対の声がさらに強まり、形勢を逆転できるとの淡い期待が趙紫陽(ちょうしよう)総書記周辺にあった。8 @; Z6 r8 k/ g. _' C i& V
0 f/ i% u! O9 F) b+ C" t, M 趙氏を支持するコンピューター会社「四通集団」傘下の四通社会発展研究所の曹思源(そうしげん)所長が、緊急会議招集を胡績偉氏に働きかけ、自ら各常務委員の署名集めに奔走したのはその一例だ。3 A: q0 F0 M( U& ?8 }* Q3 m
* ]; B5 }8 P# e6 x/ M1 L また張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、趙紫陽氏は5月21日、秘書の鮑●(ほうとう)氏を通じ、万里氏に早期帰国を要請したという。万氏は趙氏の長年にわたる改革の同志であり、外遊前には趙氏の柔軟路線を支持していた。 q( X" [- Y# i3 \6 A( R' |
- B% r1 d' h& S
万里氏への期待は社会各層に広がり、学生たちも同様だった。学生たちは25日に万氏の帰国を歓迎する大デモを計画さえしていた。 4 a4 C0 @% l0 r A( I+ t) `& I, M9 ^3 z6 P9 q3 A
しかし期待は裏切られる。万里氏は5月25日未明、日程を繰り上げ帰国したものの、帰着先は北京ではなく、上海だった。「病気療養のため」との新華社電を信じる人はいなかった。2日後、万氏は、党中央の決定への支持表明をする。 9 a# v4 a/ f" m9 D. N) R' E, M( W' M: Y8 r' ^) G5 X
「真相」によると、トウ小平氏の指示で、党中央は22日、トロント滞在中の万里氏に「米大統領との会談(23日)終了後、速やかに帰国し、しばらく上海で休養するよう(との指示を)決定した」と至急電を打っていた。同時に、上海の江沢民(こうたくみん)書記を23日、北京に呼び、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が江氏に対し、万氏への説得工作をするよう指示したという。 5 `( X u- B& c4 i8 h O- X0 i- M* p' c6 G1 q
《万氏はこの件を含め、天安門事件に関しては沈黙を守っている。趙紫陽氏は97年7月、友人の宗鳳鳴(そうほうめい)氏に万氏への怒りを表し、事件への態度を明確にすべきだと述べている(「趙紫陽軟禁中的談話」)》 6 h9 Q+ E! B, L1 F6 Z ' ^: a3 @% e4 \( y. Y. H 万里氏の帰国問題は、トウ小平氏ら長老のリードの下、李鵬氏ら強硬派が事態をコントロールしつつある表れだった。各分野で締め付けを強化、天安門広場の「清場」(学生一掃)への準備が進む。! M3 c) a6 a) \
, d9 _1 r( ~7 ^8 ? z2 k 人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、新成立の「宣伝協調小組」(組長は王忍之(おうにんし)中央宣伝部長)が5月23日、各メディアに対し、すべての報道は「(戒厳令を予告した)5月19日の李鵬、楊尚昆講話と一致しなければならない」と通達した。 $ B2 a& W5 I6 ^ 5 \! a. H4 S0 R& e$ C( J3 f その23日、北京では戒厳令後最大の数十万人デモが行われた後、各官庁、職場にデモ禁止令が通達された。24日以降デモ参加者は激減する。* O1 M- h1 l) K) |- L+ h0 \8 R
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楊尚昆氏は24日、全軍拡大政治工作会議を開いて、戒厳令に至る経緯を説明、動乱を制止し秩序を回復しなければならないと思想工作の徹底を図る。7 t, t- n( k- v* F/ }: I
N$ y! A8 }( h4 y" Y6 n6 O! h 陳雲氏は26日、顧問委員会常務委会議、李先念氏は27日、政協会議主席団会議をそれぞれ招集して演説、彭真氏も26日、全人代副委員長7人と座談会を開き、戒厳令支持で意思統一を図った。# m- v* j* {' H& N* X* b
# k, S L) @8 f
知識人たちは、武力行使が近いと予感し、学生たちに広場撤収を説得し続けた。 $ Y- `+ T9 n% F- z. p" i+ N/ p& p; e i5 L
いったんは撤収方針が決まるのだが…。(伊藤正)8 [& z; @4 D' { _; O
/ i* r. ~+ k1 A% q% d0 Z. v i ■全人代常務委員会 国家の最高権力機関とされる全国人民代表大会(全人代、国会に相当)の常設機関。委員長、副委員長、秘書長、委員で構成され任期は5年。年1回開催する全人代の閉会中、憲法の解釈・実施、法律の制定・改正、経済計画案や予算案の修正、戒厳の決定などを行う。# ]- b+ D" M7 u! {' i7 r
G4 t$ v2 m6 y; g- e【トウ小平秘録】(28)第1部 天安門事件 撤収拒否 2 ^' g! l$ O. a: o4 S+ D6 t : J& x" z! K+ ^( v. I, z3 v6 T■必至だった血の鎮圧 , c* C+ z \( N# d# q3 c0 L* E9 e 3 [2 p0 n2 L$ b' ~& G: h 「血の鎮圧」を回避する方法はなかったのか。1989年5月下旬の時点で、当局側の武力行使が切迫していた以上、流血を避ける唯一の方法は学生が天安門広場から撤収することだった。それが難しかった。 - }0 Y2 ]' i8 P* A 2 K* h+ e- e3 d3 V) a 5月中旬の学生の絶食行動開始後、全社会的な運動に発展、権力闘争の様相を深める中で、知識人グループが運動に参加したものの、彼らの指導力に限界があったのも要因だった。 3 r8 W% F3 n1 c3 y1 @ & h0 e& e+ K7 Y3 J/ ~ 5月20日の戒厳令布告後、知識人の大半は広場撤収を主張した。中国社会科学院歴史研究所の包遵信(ほうじゅんしん)副研究員(肩書は当時、以下同)もその1人だった。包氏は「六四的内情」に、25日午後、北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)副所長と交わした会話を記している。 6 W" d* j3 N3 W' I) r6 q. }! r( b. f
包氏「何とか学生たちを撤収させないと」 - N3 ^+ |: ^: }5 t5 r B. \( x: F3 M: a2 R/ [9 m5 G5 O
王氏「解決した。今晩広場で発表することになっている」, {3 p0 h( I$ W; A4 O, l5 W; M( Y
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包氏「(撤収は)いつ?」 0 v! E4 ~0 A3 k7 c6 p 2 d) _+ k+ ?9 ` 王氏「今月末だ」 U# v3 e' K2 ]; r: V' T8 E9 u( }- B# j* R
王軍濤氏は学生運動の軍師的な存在で、特に「北京市大学生自治連合会」(以下「高自連」)の王丹(おうたん)(北京大生)、劉剛(りゅうごう)(北京大研究生)らリーダーに強い影響力を持っており、撤収の説得に成功していたはずだった。0 B, C7 b) n z$ \% h
- g$ N) ]# z! A8 v
ところが、広場総指揮の柴玲(さいれい)氏(北京師範大生)が突然変心し、月末撤収を拒否したと包氏は言う。 1 _6 A" ? O h0 r! f% W0 q ) b6 M# L4 ]& u8 b 「柴玲の変心についての伝聞が強く印象に残っている。彼女は撤収の主張は、知識分子が広場の運動を左右しようと企図している表れだと話したという。(それは違う)撤収は学生の身を思ってのことであり、全くのぬれぎぬだ」 - ?( \: L: D; i4 ~* \% S3 ^# v' x% Y& L3 H
柴氏の夫で、北京大研究生の封従徳(ふうじゅうとく)氏の著書「天安門之争」によると、25日夜からの広場占拠グループ会議で、97%が撤収に反対票を投じ、それを柴氏が発表したという。数千人の座り込み者の8割は地方大学からの上京組が占めたことも影響した。彼らは強硬派だったからだ。 , \& g; h7 @0 y. Y' \3 ?) @3 o6 B' R; ?* ?) I( {
高自連内部は方針の違いや多額のカンパ資金の分配法などから対立が絶えなかった。5月27日、柴玲、封従徳両氏は、高自連から資金が来ず、運動継続が困難になったと王軍濤氏に訴えたという(陳子華ら著「浴火重生」への王氏寄稿文)。/ _: D9 \& p) j# U4 U5 c' s
$ D% _9 T5 U2 M; c* [1 C 王軍濤氏は2004年に書いたその文章で、自らの運動経験や思想遍歴を加えながら、89年の学生運動とのかかわりを詳述している。その中で、広場の学生たちの撤収拒否を受け入れた点が最も興味深い。$ Y p' E/ A$ [; g& l8 [* c4 u! y" Z
% Q2 ?/ O$ q2 k/ y2 v/ S# A* } 彼は文革以来の豊富な運動経験から、学生が撤収を拒否した段階で、武力行使は不可避と読む。しかしこの運動の主体は始まりから学生だった。彼らの意思を尊重しないわけにはいかない。 5 u* A+ q/ U( p% U, w4 p" T + `3 q- ]. J5 k$ `7 j そう考えた王氏は、最後まで責任を果たす決意をする一方、武力行使後の弾圧に備え、主要な学生指導者らの国外逃亡の手はずに着手する。 8 d" l6 t; _' W j4 N$ m1 q Z" }# G
≪王軍濤氏は、血の鎮圧2日後の6月6日、王丹、包遵信両氏とともに国内で逃避行に入る。3氏とも10月までに別々の場所で逮捕されたが、多数が国外に脱出した≫3 K1 v3 r. ?4 d# Y
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王軍濤、包両氏の主要な罪状の一つは、5月27日の「首都各界聯席会議の十項目声明」に反対しなかったことだった。: i) E0 }$ M& Z+ }2 b: C- l) W4 j
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声明は、学生、知識人、労働者など9組織連名で、学生運動の過程を総括し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を支持、李鵬(りほう)首相らを非難した上で、全国人民代表大会(全人代)常務委員会開催予定の6月20日まで運動を継続すると宣言していた。 " z2 S% n- j6 B! ^. v# i- a G9 ? ^ I' R, y9 u6 c 連合組織では過激な意見が通るのが常だが、知識人グループがそれまでの主張を変え、天安門広場占拠継続を支持したことは、運動の主導権が体を張っている学生にあったことを意味していた。 , n4 }! m4 A* `8 s! b" i4 v* M+ [/ W9 L1 a: Z$ j. J
この声明には加わらなかったが、当局側が天安門事件後、反革命暴乱の「黒い手先」と名指した組織に、「3所1会」があった。中国経済体制改革研究所など3つの研究所と1つの学会を指し、趙紫陽氏のブレーングループとされていた。 1 ]( q% {" h3 R# y+ Q% o : M. k9 d7 W& ^ 直接的罪状は3所1会が共同で5月19日夜発表した声明。それは戒厳令が近いことをにおわせ、政府部門のデモ参加や全人代常務委の早期開催を呼びかけていた。2 z" z) N* F& b' ?
3 i, d+ T. s! o! I3 O9 b+ e. Z
3所1会は、官製組織で、趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏と深い関係にあったため、鮑氏が戒厳令や趙氏の窮地情報を漏らし、政府に対抗する動きに出たと断定された。鮑氏はその容疑を一貫して否定している(回想録「中国的憂思」による)。 " N; o, O3 K8 f ! o9 _8 c( b0 D" M/ J 鮑●氏は5月28日、突然逮捕され、北京市北部の政治犯収容所「秦城監獄」に送られる。それは、トウ小平(しょうへい)氏ら長老や李鵬首相ら保守派指導部が、武力制圧を決意し、具体的作戦に入った合図でもあった。(伊藤正) ; d% Q& M, O7 c, }; n: K1 P& G ! B* d' g" Q6 ?4 B8 \8 D ■3所1会 中国経済体制改革研究所、国務院農村発展研究センター発展研究所、中国国際投資信託公司(CITIC)国際問題研究所と北京青年経済学会のこと。いずれも1980年代に設立、改革政策を研究するシンクタンクで、鮑●氏が支援していた。文中の北京社会経済科学研究所は84年に設立された独立系シンクタンクで、出版などの副業を収入源にしていた。いずれも天安門事件後、解散。 ' I- W" s7 W5 _# R4 b; ?+ t" L; F1 w' ?' ]
●=杉の木が丹 # j' q i) h% ]5 ?* a m( R! `* @: u9 h2 o. } M
(2007/03/14)
, K' ~4 a/ G J, r5 q& O+ x, b6 s天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败的运动被卷入保守派和改革派之间的权力斗争,不少人认为邓小平是被保守派的谋略所利用。邓小平为何对民运决定使用武力?尚有值得检验查证之处。 1 P- c! c4 l. P5 H$ m& L. e3 n: c0 E
【トウ小平秘録】(33)第2部「南巡講話」 隠密旅行 7 W- e0 o4 c) ~6 g2 f; A' o+ P
! f, E* t/ ~4 N( p+ k春節(旧正月)を間近にした1992年1月17日。帰省客であふれ返る北京駅構内の6つのホーム中、唯一片側1線だけの東端のホームに、行き先表示のない7両編成の列車が止まっていた。6 q8 |6 |) Q# l7 h( t* T3 M ]$ ?
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+ i1 [# O% v" L u
期するものがあった b! M- O! D5 i) o# U
# i/ B: w. a7 C: o. i6 N4 ^ 普通の長距離列車と見かけは同じだが、内部には会議室、娯楽室や医療施設などもある。「緑皮車」と呼ばれる中央指導者専用列車だった。 8 v/ N4 x" P2 d0 l5 ?# O # b! \, ?) [: [6 x4 c 午後3時すぎ、パトカーに先導された車列がホームに乗り入れ、30人ほどが緑皮車の中に消えた。トウ小平(とうしょうへい)氏一家とお付きの人たちだ。一家は、88年以来4年連続で、春節休暇は上海で過ごしている。が、この年、列車は京広線(北京-広州線)に入り、南に向かった。) j6 P+ ~ E; b9 w$ s4 X9 m1 y
2 }9 P) u' A+ [+ V# k
緑皮車が同じホームに戻ってきたのは2月21日。この1カ月余の間に、トウ氏は湖北省武昌(武漢)を皮切りに広東省深セン、珠海や上海市などの地方指導者に談話を発表した。南巡講話ないし南方講話と呼ばれ、89年6月の天安門事件後、停滞した改革・開放の全面推進を号令、今日の経済成長の起点になったことで知られる。4 f" j* `& M1 C) T; w+ N
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2004年8月22日、トウ小平氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤(こきんとう)国家主席はこう述べた。8 H! x6 n1 F X+ {
/ D' b9 ]( f6 z4 B" s 「92年初め、トウ小平同志は88歳(満年齢では87歳)の高齢ながら、南方視察に赴き重要な談話を発表、長期にわたり人びとの思想を困惑させ束縛してきた多くの重大な認識問題に対し、理論面から深遠な回答をし、(中略)わが国の改革・開放と社会主義現代化建設を新たな段階に推し進める重大な貢献をした」 , [, z0 b" P) K' a; K4 a " {3 ^$ K% z: B! y5 t$ Y トウ氏は天安門事件後、党中央軍事委員会主席を辞任、翌90年春には、国家軍事委主席も辞して、一切の公職から離れた。80年にイタリア人女性記者オリアナ・ファラチ氏に語って以来の「念願」だった引退がようやく実現した。9 j5 R( M9 p5 v4 b: x, P
2 l5 s4 Z: c0 { 引退後、トウ氏は「今後は政治に口を出さない」と言い、外国人訪問者には、江沢民(こうたくみん)総書記(肩書は当時、以下同)ら新指導部は「よくやっている」と信任する発言を繰り返していた。しかし時間がたつにつれ、保守色を強める政権にいらだちだす。 9 i6 e+ O, w& R& h0 [. a1 i; y 6 K0 H8 ~% {; V3 }1 R トウ小平氏は、心ひそかに期するものがあったに違いない。が、南方視察の意図は、だれにも話していなかった。旅行計画は隠密裏に進められ、しかも急だった。8 q f8 Q4 v! q3 ?
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≪天安門のツケがきた≫ f$ M9 i! z; M" R
7 W% V0 B0 M: Z) g4 F 元新華社通信記者の田炳信(でんへいしん)氏著の「トウ小平最後一次南行」(04年、広東旅遊出版社)によると、ひそかに計画されたトウ氏の南方視察の最初の目的地だった広東省に、中央弁公庁が電報で通知したのは92年1月1日午前。内容はたった2行だった。 % {1 f1 Q; w# U5 c5 O; [' f7 K! r* X0 s" U+ ~6 f: \
「トウ小平同志は南方で休息する。安全・接待工作をよろしく」 ) d3 ~- T7 V6 X+ e & S+ x8 J, y/ Z: S 広東省の謝非(しゃひ)党書記は直ちに、南海市で新年休暇中の指導者接待担当の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長を呼び戻した。2日後の1月3日、中央から3人の先遣隊が広州に着く。トウ氏弁公室責任者の張宝忠(ちょうほうちゅう)氏は、陳氏に言った。3 |; E8 u2 U6 a% j
5 O Q p3 ]! ?# r5 x8 V 「小平同志の今回の訪問は休息が目的だ。改革・開放の成果を見たいというだろうが、87歳の高齢であり、疲れさせないように手配を頼む」6 W* f u! G' \# s/ x
2 D' c" V- n8 K$ S8 I7 d: F! y 1月17日に北京駅を出発したトウ氏の同行者は、卓琳(たくりん)夫人、2人の息子、3人の娘とその配偶者、4人の孫たち、それに事務所スタッフらだった。指導者の動向報道のため、視察には必ず同行する新華社も今回は通知を受けず、記録映像撮影班3人が同行しただけだった。 # A; g4 h l: U* P8 |2 s7 A/ h2 |. y C$ [; _+ t K
身内だけの「休息」旅行、と信じ込んでいたのは、トウ氏の「耳と口」といわれた3女のトウ榕(とうよう)氏も同様だったらしい。彼女は95年に訪仏した際、フィガロ紙記者に南方視察について質問され、トウ氏の講話は予想せず、メモ用紙を持ち合わせなかったので、最初の講話は、ティッシュペーパーにメモしたと話した。; B! c0 Z: `. R/ d o0 x
! E- R) [4 ~1 L2 C4 K8 e! N しかし、陳開枝氏は後年、トウ氏来訪を知ったとき「歴史的な訪問になるかもしれないと直感した」と語っている。陳氏は84年のトウ氏来訪時のことを思い起こしていた。 7 V" Y2 _: ~4 f" j9 I+ B + P* a& b4 C- }% S# r5 ? トウ氏が広東省を視察したのは、それ以来8年ぶりだった。84年当時、同省は深センなど3つの経済特区を中心に急成長中だったが、陳雲(ちんうん)党中央規律検査委第1書記ら保守派の批判を受けていた。トウ氏は経済特区を視察後、その発展ぶりを称賛、全国の経済成長を加速させた。7 u s( |$ Y: [% x% n# f) ], h y
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天安門事件後の状況は84年よりずっと複雑かつ深刻だった。江沢民政権は「安定はすべてを圧倒する」をスローガンに、国内の思想・言論の引き締めと経済活動の整理整頓に精力を注いだ。3 ~ U( n/ m# V4 A# \- ?
. u/ J) Q' i6 v; x1 K9 |/ Z 計画経済を信奉する保守派が人民日報など主要メディアを支配し、市場経済化を公然と批判。ソ連・東欧の激変を受け、「和平演変」(平和的手段による社会主義から民主主義への体制移行)への警戒論が跋扈(ばっこ)した。- ~* K+ M: v) m5 [) f' j
6 N# f8 r0 I; s& f" R+ r* {' E/ y1 e その結果、外国からの投資は激減し、経済成長の低迷を招いた。天安門事件のツケは改革・開放の危機になって表れた。' x* O/ J8 _$ b6 H7 ]# }: [
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トウ小平氏に残された時間は少なかった。中華振興の夢をかけた改革・開放を守るため、トウ氏は人生最後の闘争に出る。それが南巡講話だった。(中国総局長 伊藤正) " ^. ?) R7 K+ C# H; P# q% q. ?0 G: X* V |% Z# `, [: j8 I9 B( T
■経済特区 加工貿易など外向型経済発展を目的に、税制上の優遇措置や外資の誘致、利用など、特別な管理、運営を認められた地区で、途上国の輸出加工区がモデルになった。1980年に広東省深セン、珠海、汕頭と福建省廈門(アモイ)の計4地区に設置、88年には海南省が追加された。特区を先導役に、80年代半ば以降、経済開放区、経済技術開放区など特区に準じた優遇措置を受ける開放地区が次々に誕生した。5 T- _/ q& T1 _: W8 D
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第1部あらすじ ) L: l$ A5 `* J. o( T! H. H/ X O' m
死者が少なくとも数百人にのぼったといわれる天安門事件(1989年6月4日)は中国現代史の大きな分岐点として後世に伝えられよう。 9 h3 [; S. r' y& V9 p% ^( g. {2 K* b# X. L
「トウ小平秘録・第1部天安門事件」では、トウ小平氏が、なぜ人民解放軍を出動させ、デモを続ける学生や労働者らを武力で鎮圧する事態に至ったのか、背景を掘り下げた。3 Q! ^: _8 m# t7 H
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89年4月、急死した中国共産党の改革派指導者・胡耀邦前総書記(肩書は当時、以下同)の追悼集会を契機に、北京の大学生らは天安門広場で集会を繰り返し、党の腐敗を批判する大規模な民主化要求運動を展開。党指導部内では強い姿勢で臨むべきだとする李鵬首相・長老ら保守グループと、対話による解決を主張する趙紫陽総書記ら改革派が対立し、深刻な権力闘争に発展した。* D4 x: W/ R7 S! f% ?
邓小平秘录:邓南巡讲话 警告保守派( x+ ?3 C/ p( T
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日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,已故中共领导人邓小平于一九九二年初的南方视察,名义上虽是休息,实则是经过深思熟虑的一项行动,而南巡讲话的主要目的是对抗拒改革的保守派提出警告。- S5 j" r m; W( B$ U
8 `8 u8 X- R8 R2 N报导指出,邓小平于一九九二年一月九日进入深圳,采访此行的中国媒体指出,由邓小平的谈话可看出他的广东之行是有备而来,是对北京、中国全境乃至全世界的发话。. H. K, R9 F( ^3 H4 [! o
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邓小平在讲话属性中要求不推动改革开放者下台,矛头是指向保守派和党总书记江泽民等中共中央领导人,他南巡的手法类似毛泽东一九七一年七月至九月的南巡。毛泽东是为对付具有野心的林彪,后者最后在逃亡国外途中于蒙古坠机死亡。 / }$ I% M$ F! ?" }9 y2 Z l8 U% z0 q. _6 N' X$ f J
报导指出,邓小平南巡之际,国家主席杨尚昆如影随行,一九九二年一月二日,两人一起和中央军事委员会副主席刘华清和广东军区司令官朱敦法会谈,具有夸示邓小平仍掌握军权的作用。 : f( y5 E' P2 C- S0 h/ E5 j 2 u, J3 m& m, ^0 f( B- t* c$ b【トウ小平秘録】(34)第2部「南巡講話」 保守への警告 % m. G4 K* g+ X% A4 {9 ?% D" [# W: M) z* L4 J, J
1992年初めのトウ小平氏の南方視察の名目は、「休息」であった。トウ氏の事務所は最初の滞在地、広東省党委員会に対し「(地元指導者の)現況報告は不要、題辞は書かず、報道は禁止」という3原則を事前に通告、「家ー旅行」を装った。 2 N5 N8 H1 l6 X6 J4 n- I* L: s( a9 h
手法は毛沢東に似る# \0 z E* e% }7 u0 h0 w
3 e1 N3 h0 ~/ U, P しかし、トウ氏一行が同年1月19日午前に深セン入りして以来、11日間の広東省滞在を密着取材した新華社通信広東支社の高級記者、牛正武(ぎゅうせいぶ)氏(肩書は当時、以下同)は、田炳信(でんへいしん)・元新華社記者の取材にこう話している(田氏著「トウ小平最後一次南行」による)。) k8 @1 [' _9 M( K
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「トウ小平の講話を聞いて、彼の広東訪問は事前に考えをめぐらし、準備をしてきたと分かった。即興の話ではなく、熟慮をしたものだった。それは単に南方の人たちだけでなく、北京に、全国に、そして世界に向けて話したのだ」2 q2 o1 J! S' {* o+ L
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牛記者が広東省党委の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長から取材を要請されたのは、トウ氏が深センに到着した当日だった。牛氏のほかに、地元の南方日報と広東テレビの記者も同じ要請を受け、取材に加わっていた。 5 |* \! Y% U, D0 O& H+ K' {2 U6 T& e8 S r5 A7 g
陳副秘書長の一存でできることではない。トウ氏事務所の王瑞林(おうずいりん)主任が、いずれトウ氏の講話をまとめて報道させることを計画していた可能性が高い。 7 `2 N8 z6 m! B# Q" V8 L. q( j: ]+ I; ]8 i2 n/ d) d
講話の内容は後に紹介するが、「改革・開放をやらない者は下野せよ」といった極めて衝撃的なものだった。その矛先は保守派イデオローグだけでなく、江沢民(こうたくみん)総書記ら中央の指導者にも向けられた。$ Q O- X) t( m; Z! J
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トウ小平氏は91年初めの上海指導者への談話以来、それに近い警告を発してきたが、改革・開放に抵抗する勢力がいるという状況に基本的な変化はなかった。南方視察はより強い警告を出す必要があると判断した結果だった。 1 X" u' ^5 H" o7 I3 [* [: A4 ?( w- d: f) x3 Z/ }
このトウ氏の南方視察は、71年7~9月の毛沢東の南方視察と手法が似ている。毛沢東は当時、「後継者」に指名した林彪(りんぴょう)国防相の野心を知り、極秘裏に南方各地を回って、林らを厳しく批判する講話をする。3 h, w# s5 T6 j$ ]/ \
; b5 c& c0 ?' T 毛沢東が直接、林彪を攻撃しなかったのは、軍を握っていた林を警戒しただけでなく、講話が中央に漏れ伝わることを計算し、林に近い極左派にも警告、林を孤立させる狙いがあった(林雨星著「林彪全伝」など)。 6 ?/ h1 N( w0 I; D3 k0 F, k$ ?8 v+ P3 X1 q% Y& @ }& a6 e
毛沢東は林彪が謝罪すれば、一定の処分ですます考えだったという。しかし毛の残酷さを知る林彪らは、毛暗殺を謀って失敗、9月13日、国外逃亡の途中、モンゴル領内で墜死してしまう。" R1 T3 G1 }9 y: a/ b
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林彪事件である。 7 k0 f" }. I; \ y9 L) @8 ^$ {1 @4 r* @/ T' c. I$ M
+ d3 o8 |% Z8 w, H- E+ t2 U6 e冒険せず何もできぬ 4 i" s6 p' E" {* c$ S, K) } w, u. |
トウ小平氏の南方視察(1992年1~2月)も、党中央の保守派への警告を狙いにしていた。が、トウ氏は2年前の90年、国家中央軍事委主席を辞任、一党員でしかなかった。しかも「求められればアドバイスはするが、中央の仕事には口をださない」と公言していた。% z. f9 ^9 ]9 c: e) t1 O
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元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は、著書「中国改革年代的政治闘争」の中で、トウ氏の南方視察には安全上のリスクがあったと書く。なぜなら中国の伝統的勢力である保守派攻撃が目的だったからだ、と。 7 l: p( \! P. o5 W 9 P, w$ C$ u5 A, F トウ氏は、身辺の人の懸念にこう話したという。 ; s' Y) b; D% D; i/ Q" \% i9 u/ O6 w
「心配するのは道理がないわけじゃない。だが、わしは冒険してみようと思っている。冒険せずして、何も成し遂げることはできない」) {/ W* l! j7 ^7 j: P8 {# Z' B
* d# L3 R, K% M% u2 ^2 ] 後に公開された南方視察の記録映像には、トウ氏に影のように寄り添う1人の重要人物が頻繁に登場する。トウ氏の数十年来の盟友で軍の実力者、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席兼中央軍事委常務副主席だ。1 a- H0 f. U- M
3 h2 Q: m! z8 \5 U トウ氏の言動日誌である「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏は南方視察計画が決定する直前の91年12月28日、自宅で楊尚昆氏と会話している。その際、トウ氏が楊氏に計画を明かし、同行を依頼したとみられる。7 P( i6 E! J5 I( Q3 M9 W. m" b+ I7 X* U
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トウ氏は、深センに到着した翌日の1月20日、楊尚昆氏とともに、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席や広州軍区の朱敦法(しゅとんほう)司令官らと会見した。劉、朱両氏とも、かつてトウ氏が政治委員を務めた第2野戦軍の部下だった。 " j( A- e7 N/ x! X ) J f2 ^9 G6 q3 i, j$ w2 Z 劉氏がこの時、深センにいた意味は深長だ。2人の軍事委副主席がそろって北京を空け、トウ氏の元にはせ参じたのである。それはトウ氏が依然、軍の支配者であることを誇示し、安全上のリスクなど消し飛んだ。/ ^' U* B) v5 U# @# e
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天安門事件が世界に教えたのは、中国の最高権力は、共産党トップの総書記ではなく、軍権を握る中央軍事委主席であることだった。事件後の89年11月、トウ氏はそのポストを江沢民氏に譲った。 ' ^9 r, l- q9 ]4 i5 w/ a) H' z$ j: |7 Z
しかし、軍権は軍歴のない江氏ではなく、楊尚昆氏とその弟の楊白冰(ようはくひょう)軍総政治部主任の手にあった。楊白冰氏は89年12月の軍の会議で「全軍は改革・開放の護送船団たれ」と演説、トウ氏の信頼を得ていた。 8 c, R; N1 p! Y8 a V# m5 b d2 ^& W; r, r: U
トウ小平氏は天安門事件に続いて、「人生最後の闘争」といわれる南方視察も軍をバックにしていた。その必要があると認識するほど、トウ氏の危機感は強烈だった。% j! h0 C E. }$ h( I# k. k# h
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それを知るため、次回からしばらく天安門事件後の情勢を追う。(中国総局長 伊藤正)- _& m4 X+ z |/ L: y( [
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■林彪事件 1969年に毛沢東の後継者に指名された党副主席兼国防相の林彪が71年9月13日、夫人の葉群、息子の林立果(空軍作戦部副部長)らとソ連への逃亡途中、モンゴル領内で墜死したとされる事件。70年夏の中央委員会総会で、葉群らが国家主席に林彪を就けようとして、毛に批判されたのが発端。林立果がクーデター計画を立案、71年9月、南方視察中の毛暗殺を企てたが失敗、河北省の北戴河から空軍機で逃亡を図った。作者: 日月光 时间: 2007-4-21 09:51
トウ小平秘録】(35)第2部「南巡講話」「不在」情報 0 Y2 }0 ~5 f- h( ` P% Z" X 1 U& u" A, P6 T ~1 Q1989年6月3日夜から4日未明にかけ、中国の首都北京で戒厳部隊が学生、市民を武力鎮圧した天安門事件は、国際社会を震撼(しんかん)させた。 & M+ D- w' H% ? J2 c/ A3 T# C& c' {3 Z( U+ X6 X; f4 n# P
米国をはじめとする西側各国を中心に、中国政府を非難する声明が相次ぐ。国際協調によって経済建設を進めてきたトウ小平(しょうへい)氏の改革・開放路線からは信じられない出来事だった。 6 E# ?. G& Y( j5 F! u" L% d3 T, l( h) v; X; Q' J, ] E
本連載の第1部「天安門事件」で書いたように、胡耀邦(こようほう)前総書記(肩書は当時、以下同)の死去(89年4月15日)を契機に学生運動が始まってから「血の鎮圧」に至るまで、トウ小平氏が決定的役割を演じた。 , U v! N6 f) T; c0 Y5 O3 P4 C$ J0 a . e0 a/ p x2 l& Z しかし、事件直後には、武力行使はトウ小平氏の決定ではないとの見方が少なくなかった。それどころか、トウ氏の軟禁説、重病説や死亡説まで流れていた。当時、私が支局長を務めていた共同通信北京支局にも真偽不明の情報がさまざまな形でもたらされた。( k/ ?4 c7 U; j* M% y
8 x* k9 `7 R$ W; e 6月6日夜、取材から戻った若手記者が「トウ氏は5日午後11時35分死亡した」との「確かな情報」を話し、速報の許可を求めた。ソースは以前から接触のあったトウ氏事務所の関係者と称する男という。3 r g' e, h" I
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私は記者に、男に再度会い、目の前でトウ氏事務所に電話させ、確かめるよう指示。その結果、情報は虚偽と判断し「大誤報」を免れた。報道機関が飛びつきそうな情報には、この種のデマが多かった。 , S7 o4 n+ i9 {$ X3 t: W) y- N. L. ]7 T5 C F" x9 s) y
その原因の一つは、トウ氏が5月16日にゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会談した後、一切動静が伝わらなかったことだ。党中央や軍内で分裂が起こり、内戦に発展する可能性もあるとの観測も呼んだ。 $ u3 q! X2 u1 [" T 1 D& k( A U0 v U5 j: C8 t そうした観測を拡大させたのが6月7日、戒厳部隊が北京市・東長安街の建国門立体橋付近で、建国門外外交官アパートとその南側のビルの両方から銃撃を受け、兵士4人が死傷、応撃したという事件だ(新華社電)。& V% x* |& U; G% t! t
( Z/ Z Z* ]" G. x 一般中国人は入れない外交官アパートからの発砲はあり得ない。この約2時間後、十数台の軍用車が威嚇発砲しながら東長安街を移動、通りに面したアパート十数戸が被弾した。西側軍事筋は当時、最初の銃撃は軍内の反乱分子によると分析、外国人に矛先が向けられる可能性を指摘した。 / a9 W+ |9 u* O. S$ ]2 r8 s- B6 r # v: {+ s6 ~3 J9 V, R べーカー米国務長官は翌8日、「中国の権力闘争は継続中で、情勢は不透明」と語り、中国に滞在する米国公民の一斉引き揚げを勧告。日本など各国もそれに続いた。最高実力者、トウ小平氏の「不在」が各国の不安を一層募らせた。 6 {* Q( h/ i, Y! ?+ S ]& [/ b* _$ y9 T* M" T. b$ C) _, S7 y3 i- z
トウ氏の健在が確認されたのは6月9日夜だった。その日午後、中南海懐仁堂で、李鵬(りほう)首相らを伴い、戒厳部隊幹部と会見、講話をした様子が国営テレビで流れた。そのニュースに「安堵(あんど)」した一人は、ブッシュ米大統領(現大統領の父親)だったろう。/ s6 r" m, W A# w/ k" A, X
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◇* T/ S9 V% O3 d# Q
& Y9 K8 f: I. A9 V# d. t% _* M& A( S" V( S" M, _% R
/ ~) T. B7 J( ^2 R. o' _( H米特使が秘密訪中した3 Z$ U/ {7 y; O
4 i8 Z; j4 Z; H, } A% k4 ^ 天安門事件(1989年6月)への米国世論の激しい怒りをバックに、ブッシュ(現大統領の父親)政権は事件発生直後に、軍事交流や武器輸出の停止など5項目の対中制裁を決定、上下両院も反対ゼロで制裁支持決議を採択した。それは7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)の対中制裁の基盤になった。 " r9 [" g8 {( s) {' ?3 p) d' q5 J. x( o' Y" r$ R0 @6 b6 g
しかし当時のブッシュ大統領は、ニクソン(元大統領)訪中以来の対中関係重視策をとり、国務省内の強硬論を抑えていた、とロサンゼルス・タイムズ紙の元北京支局長ジェームズ・マン氏は書く(「アバウト・フェース」、邦訳「米中奔流」共同通信社)。' r1 h# s B5 v j0 E
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ブッシュ氏が対中融和を願ったとしても、仮にトウ氏が死去したり、強硬派が全権を掌握したなら米中融和のチャンスはなかったかもしれなかった。ブッシュ氏は70年代半ば、米中国交樹立前に初代の駐中国米連絡事務所長を務めて以来、トウ氏とは信頼関係にあった。 8 k8 U4 D S( j3 { " V; w& a" ^4 {" o! o0 d ブッシュ大統領が極秘のルートでトウ小平氏に親書を送ったのは、6月21日だった。# J" p' M" M0 M3 S4 i) K! K* P! d/ B- K0 {
; ?, i5 h# |" z8 v. p7 O0 }- q; y 「閣下との率直な意見を交換するため、極秘に特使を派遣したい」( ^1 {$ h" Y9 C( z5 y3 m$ M
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中国外相をつとめた銭其●(せんきしん)氏の回想録「外交十記」(世界知識出版社)によると、ブッシュ氏はそれ以前に中国側(たぶん当時の韓叙(かんじょ)駐米大使)に、米中関係を重視しており、対中制裁は議会と社会の圧力でとらざるをえなかったものだと理解してほしいと伝えていたという。. V+ d8 ]8 Y# R; y! k4 l& @6 i
( s M+ k2 n2 e4 I8 p5 r* s: l8 C トウ氏は翌22日、米特使の極秘訪中を歓迎すると返信、その中でこう述べた。( N0 l" ~: _$ R" h/ m% Y+ R