日本媒体连载《秘录》 盛赞邓小平有远见 2007-02-15 # X, Q" k) l, D; }, n9 z4 P7 B" n. R& L3 I \# B
【星岛环球网】在邓小平逝世十周年(2月19日)来临之际,日本《产经新闻》从14日刊登《邓小平秘录》序言,揭开预定15日开始连载的这位中国已故领导人秘录的序幕,这家报社将把秘录分成六部分进行连载。 3 t: q ]. h8 ^; s" E ' K- {' O( Z6 M" o1 ^) x3 T 香港《文汇报》报道,序言简述邓小平的生平指出,他从十六岁前往法国留学后未曾再踏进四川省广安的老家,家人之中,也只有三女邓榕在1989年才初次访问老家。邓小平讨厌个人崇拜,批评为出生地图利的作法。0 Z& t0 C, H9 }/ p
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文中盛赞邓小平富有远见,形容他是富有构想能力的现实主义者,改革开放初期在深圳等地设立四个经济特区,作为市场经济的实验场,并对香港制度提出维持现状的“一国两制”,成功恢复对香港的主权,并作为呼吁两岸统一的武器。 & M6 |5 ]$ x1 ? g$ S2 } 7 S6 G, D8 `& F0 w* o+ U& L9 T 邓小平离开人世将满十周年(2月19日),对于这位世纪伟人的十周年冥诞,邓小平三位女儿邓林、邓楠、邓榕透露,十周年当天,邓家众子女将在母亲卓琳带领下,用鲜花花瓣洒遍整个院子,以这种简单而独特的方式,来纪念邓小平。邓家的这种家祭方式从邓小平冥诞一周年时就开始了,至今已持续十年。 8 h7 V& K C& \9 R% F- c* q 7 q; e8 t, Q, [) W T 邓小平大女儿邓林说,父亲生前特别喜欢花草树木,无论家居京城还是外地,都会在院里院外栽满各式各样的花卉。在他晚年一直居住的院子里,更是常年鲜花盛开、草木繁茂。“而且,对任何花草树木他都喜欢,几乎没有什么偏爱。花开的时候,见到什么花都要上去闻一闻,乐在其中。” 9 k# L2 ]+ C1 n5 O
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邓林说:“父亲的每年忌日,母亲都会带着我们在院子里洒鲜花,为的就是让父亲闻着花香‘回家’看看……”她相信,虽然父亲离开她们已近十年,但只要一闻到花香,就会知道家里人在想他。 ' K7 U( M' i2 e% R' U/ d
& ?, B) M d7 P( Q# e' A( ] 与邓小平一样沉默寡言的邓林透露,正因为父亲酷爱花草树木,从小就喜欢画画的她也深受影响,后来所形成的风格就是花鸟国画。她告诉记者,父亲去世后,她为父亲画了很多不同版本的国梅,“他喜欢梅花,更喜欢梅花的个性。所以每当我画梅花的时候,心里都会自然而然地想,这是为父亲画的。” * f# _# W( q" E A
Z& j7 x3 Z b) E5 E 邓小平次女邓楠如今已是中国科协党组书记,官居正部级。这位从小就是邓家“小管家”的女部长,对纪念父亲冥诞的方式有着自己独特的见解。她说:“忌日采用什么方式来纪念父亲并不重要,重要的是他一直活在我们心里,我们经常都会想起他。我们一直用心来纪念他,这就是最好的方式。” 6 E0 W: N* _+ ?. d3 d, n0 N, @0 C6 R
而邓小平晚年时候一直陪伴在他身边的小女儿邓榕(毛毛),如今提起父亲,思念之情依然溢满双眼。她说,她对父亲的怀念不会因为时间长了而减弱和变淡;“这种怀念是永恒的,化解不开的。爸爸离开我们已有十年了,但这种思绪随时随地还在伴随着我。今年是他离开我们十周年纪念日,我对他的怀念更浓烈。” $ p6 ]& w6 P9 @% [# f
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邓榕曾经这样描述自己对父亲的感情:“如果问我们生活中有哪一部分能够剥离出来跟父亲没关,我可以告诉你,没有,不可能!”作者: 日月光 时间: 2007-2-15 10:56
邓小平秘录:杨尚昆承认64事件犯下大错 6 d; o/ t4 u. w; Q& b& Q& Y% k( t0 x: H2 F6 O& m* p
日本产经新闻今天开始连载“邓小平秘录”,首先锁定一九八九年六月震惊全世界的“天安门事件”。文中指出,邓小平至死未对武力镇压一事留下反省或悔恨之词,但是,当年参与开枪命令的现职国家主席杨尚昆则在生前表示反省之意,承认共产党犯下最严重错误,早晚必须加以纠正。4 P" ~4 s% W' O: [3 c
中央社东京十五日专电 # h ?7 c" ]1 d3 }: j8 P6 l3 F0 E7 `4 x8 C
日本产经刊登「邓小平秘录」序言 7 C' j/ a$ Z' K$ K; [0 z* P
日本产经新闻14日刊登「邓小平秘录」序言,揭开预定从15日开始连载的中国已故领导人秘录的序幕,这家日本报社将分成6部分进行连载,由分析邓小平镇压中国民众的「天安门事件」背景开始叙述有关邓小平的秘辛。 $ {8 B8 ]- }- R. C5 S
6 m H/ ?/ q1 l N( N 产经在序言中简述邓小平的生平指出,合理主义者的邓小平和孤高自持的革命家毛泽东成为对比,邓小平在遗言中显示,不愿意重踏毛泽东的覆辙。他在1978年主导的改革开放政策被称为中国的「第二次革命」,毛泽东发动的大跃进在1960年代造成好几千万人饿死,邓小平则同意农民的部分个人生产,他著名的「白猫黑猫会抓老鼠的是好猫」,就是当时的名言。 + S: u; { p! |. E7 B
2 C5 K+ c, b) d6 b+ x+ C 序言指出,中国在邓小平的改革开放下,以计画经济和公有制为支柱的社会主义原则逐渐被破坏,引进的是资本主义原则和手法,中国人民从毛泽东晚年时的物质贫困和精神压抑下解放,追求丰足和自由成为第二次革命的精髓。 6 v$ y1 k+ e" h4 C5 c' L5 v8 T ( n( z! u7 M$ c" t, H 文中形容邓小平是富有构想能力的现实主义者,改革开放初期在深圳等设立四个经济特区,作为市场经济的实验场,并对香港制度提出维持现状的「一国两制」,成功恢复对香港的主权并作为呼吁两岸统一的武器。 ( D7 S# S, b& z, W. R9 K' F0 V" ?8 R u- ~7 c# j8 V2 {
序言指出,邓小平的一贯主张是,迈向「共同富裕」的步骤是让部分人先富起来的「先富论」,这种主张一方面为中国带来急速的成长,但另一方面也造成贫富悬殊的扩大和腐败的蔓延,「先富论」产生的矛盾已成为极严重的问题。 3 n7 `# a V1 A$ N d% T/ p. d) D- p
' H4 j4 Q$ Q* C' L 文中指出,邓小平在经济上虽是突破社会主义框架的革新派,但在政治上则是断然的保守派,他和路线敌对的陈云等中共元老避开对立,立于元老政治的顶点发挥影响力,这是扔掉有意进行政治改革而和元老对立的胡耀邦和赵紫阳的理由。 / V& a W i: [
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序言指出,江泽民和胡锦涛师承邓小平路线,目前的中国对扩大矛盾的改革开放提出反省,而出现赞美毛泽东的声音;但另一方面,政治改革和民主化的要求也在升高,「邓小平」仍是中国现实政治的中心。 0 _( r# E& V: d4 f9 d3 h$ `1 Z
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序言最后指出,邓小平渡过战争、革命和斗争的中国现代史,对他而言,一生最大的危机是天安门事件,天安门事件和文化大革命在不同的意义下是现代中国矛盾的爆发,也是重大历史的转捩点。9 P2 D) ?' \: S( U9 T5 c
}2 a" U( h; g3 T矛盾生んだ「先富論」' w. h, E6 `: B) D+ Q
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トウ小平氏は着想力に富んだ現実主義者だった。改革・開放の初期、深センなどに4つの経済特別区を設け、市場経済の実験場にしたり、19世紀末以来、英国の植民地だった香港の制度など現状維持を認める「1国2制度」というアイデアを打ち出し、主権回復に成功したりした。 " j4 ?' y, R! Y1 Q& j7 ~ 3 ]7 ~ i8 R8 e4 | それは、台湾への統一呼びかけの武器にもなっている。 0 w2 q2 C1 S5 W0 ~2 G* k; [7 w7 n. n, h% Q
1993年9月、トウ氏は弟のトウ墾(こん)氏と会話している。トウ氏は、天安門事件(89年6月)後間もなく引退したが、事件後に保守回帰が強まると、南方視察に出て、改革加速を号令する南巡講話(92年)を発表、経済を成長軌道に戻すのに成功していた。$ h3 D' K7 }! D2 V- z6 a% K
. S t9 c: m/ O8 C& g. E トウ小平年譜(2004年、中央文献出版社)によると、弟との会話の中で、トウ氏は、江沢民政権に満足の意を表し、「国が発展し、豊かな国の一公民になればよい」としながら「引退してもやることがないわけではない」と述べている。89歳にしてなお「社会問題を観察し、意見を言う」必要を感じていたのは貧富の格差への懸念からだった。 3 c. R9 p* x2 E5 }6 X% K6 ~ 4 q0 H' @% C+ x& ^* z5 G 「富をどう分配するかは大問題だ」( W0 ]- o$ C* C2 B# V
2 [$ a- T# \& Z5 @' e, V6 ]- s 「この問題の解決は発展を図るより困難だ」 * n- g' k$ @+ b9 C; q$ F |5 y- V- D' T
「一部の人が富を得て、大多数が持たない状況が進めば、いずれ問題が起こるだろう」: N9 ^8 I. A6 @9 x9 W8 F
* _, y- [2 O2 B' m3 d トウ氏の持論は、「共同富裕」へのステップとして一部の人が先に豊かになる「先富論」で、南巡講話でも力説していた。それは急成長をもたらした半面、格差の拡大と腐敗の蔓延(まんえん)も招いた。今日、先富論の生んだ矛盾ははるかに深刻になった。 % t8 s4 u& |" _3 h* F1 n" y& ] " Z5 Y: C7 U# A, w7 v トウ墾氏には、79年に打ち出した社会主義の「4つの基本原則」を、社会主義市場経済の優越性と自賛している。4原則と改革・開放が、トウ小平理論の2つの根幹だ。しかし国際化、情報化が進み、国民の生活も意識も急変する一方で、それに呼応した政治改革を4原則は妨げてきた。0 M5 x+ J+ O) D3 }& p
/ r3 }: J6 \% F! c h. x 毛沢東と違い、トウ氏は元気なうちに現役を引退、江沢民氏を総書記に指名し、92年には江氏の後釜に胡錦濤氏を内定した。両氏の使命はトウ路線の継承だ。 0 [) C, [1 n! L; x ; ^5 F! s# G2 `& f' R 中国ではいま、矛盾を拡大した改革・開放への反省が起こり、毛沢東賛美の声が上がる一方、政治改革や民主化要求も強まる。「トウ小平」は依然、現実政治の中心にいる。 ' R5 e7 ?% F9 u4 t; F* G& l1 t+ _7 I( Y* J" T' O+ t* V9 s H
トウ小平氏は戦争、革命、闘争の中国現代史を生き抜いた。氏にとって人生最大の危機は、天安門事件だったろう。それは、文化大革命とは違う意味で、現代中国の矛盾の爆発であり、大きな歴史の転換点にもなった。; M, G4 a$ n5 P% U y. U
8 {! ?" [7 b4 b' w (中国総局長 伊藤正)$ }2 x& }* S4 [. b
2 w1 h: c2 R- S T ■トウ小平氏(1904~97年) 四川省生まれ。若いころにフランスに留学し共産主義革命運動に参加。中華人民共和国の成立後、副首相、党中央軍事委員会主席などを歴任。生涯で3度も失脚を経験したが、そのたびに復活、78年以降は事実上の最高権力者として改革・開放政策を推進した。89年6月の天安門事件の際、民主化を求める学生らの武力弾圧を決断、国際社会の批判も浴びた。 " |& U; j, c! m2 M: k4 z& R5 W7 I) w* d5 I
■4つの基本原則 (1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想-の4項目のことで、トウ小平氏が79年3月に堅持すべき原則として打ち出した。共産党規約や中国憲法にも明記されたトウ小平理論の核心だが、市場経済が進むにつれ社会の現実や国民の意識と乖離(かいり)、政治改革の足かせになっているとの批判もある。/ w: G. {1 V1 f8 ~
邓小平秘录:老邓听到胡耀邦去世猛抽烟 5 I$ J5 g0 ?3 |5 B% Q 5 r5 j# B# L" b) \日本产经新闻今天连载「邓小平秘录」,报导一九八九年四月十五日胡耀邦由於心脏病发作去世,邓小平听到这项消息熄掉香烟,两手手指无力地交叉在胸前一言不语,但片刻后开始猛吸烟,想必他警戒的是民众对胡耀邦死亡的反应。7 k, r" O. a( b A ?* L; m
9 x" j" f, K! R$ q/ d% I文中指出,今年一月十五日薄一波去世,他是曾在一九八九年天安门镇压事件采取强硬路线的八大元老最后死去的一位,他也是在一九八七年一月积极支持将当时担任党总书记的胡耀邦解任的一位。后者由於对一九八六年十二月安徽合肥学生民主化示威表示应放任无产阶级自由化而和保守派元老对上。 ! [: P/ U0 _3 ^. B y2 P* c! \* D! w0 f% u! W' P& E
秘录指出,「亚洲周刊」曾报导,当时担任贵州书记的胡锦涛曾针对胡耀邦被解职一事对部下表示(处分)相当不公平。学生和知识份子很多人虽也都有相同的看法,但并未发生抗议事件,改革派的赵紫阳被选为胡耀邦的后任也是原因之一。/ e$ ?# }: Z/ @; f" C# Y. d2 E
' V7 \2 S' ]/ J# O4 {0 i0 o( v胡耀邦去世消息传出后的十五日晚上,北大等部份大学贴出追悼胡耀邦的大字报,十六日,大字报扩大至二十所大学,批评元老政治的内容也增加,一般市民也开始追悼胡氏,十七日晚上,中国政法大学等学生在天安门广场的示威揭开各大学竞相组织示威并扩大规模,由追悼胡耀邦而转为攻击保守派。 - U4 U9 Z& f6 A- V& |; f- }9 J7 N& C" x. W9 W8 J+ w. f3 \% Q- d. G
胡耀邦的突然去世带给中共领导阶层冲击,据「中国六四真相」报导指出,赵紫阳总书记接获中央办公室主任温家宝的报告后召开政治局紧急会议,决定讣文内容和葬礼程序并於午后报告邓小平,邓氏由於已接获报告而显得相当平静,但政治秘书王家瑞事后透露,当邓小平得知胡耀邦去世的消息后熄掉香烟,两手手指无力地交叉在胸前一言不语,片刻后开始猛吸烟。 , ~+ U4 n. H# D g8 ^# u4 J % Y$ i' X2 b! x/ J$ F邓小平针对胡耀邦的去世同意赵紫阳报告提议将胡氏定位为党卓越的领导者,对由於主张「无产阶级自由化」而被迫下台的胡耀邦来说是异例的待遇,邓小平对胡耀邦去世保持戒心的想必是「民众的反应」。 # p4 \8 A+ P' W! X/ q& g! K$ q7 j3 O+ ]& z- h2 w
一九七六年一月,毛泽民未出席周恩来首相的追悼大会而引起民众的怀疑,发表追悼周氏演说的邓小平被迫下台,同年三月底开始,追悼周恩来的活动遭到镇压,发展成为第一次天安门事件。中国资深记者指出,不仅是邓小平,所有领导阶层都想避免一九七六年事件的重现。6 |: P- Q$ Q' o7 t2 ]# N+ \% G. V
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一九七六年,北京市民对四人帮的反弹是以追悼周恩来的方式爆发,一九八九年已具有以更强烈对政权反弹的社会条件。北京市党委的资料指出,一九八九年四月十五日日晚上,市委会召集部份大学和周边区党委干部下令警戒少数别有居心份子的煽动行动。各种不同立场者都对胡耀邦的去世有不安的预感,学生一开始示威,预感变成现实,迈向悲剧。 0 A9 Y9 c1 `0 v* t0 k$ d6 O . K! E* G3 ^4 e2 u" \& @- q' ^【トウ小平秘録】(3)第1部 天安門事件 胡耀邦の死2 B/ g4 u% }5 K) T1 W1 _
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今年1月15日、元中国共産党中央顧問委員会副主任の薄一波(はくいっぱ)氏が98歳で死去した。 % ~! Y/ s0 J' f8 f/ v ! s- P! ?* {' d% z( ^/ R0 [- H猛然とたばこを吸った# c3 [+ |4 o' y8 b" s! O
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天安門事件で強硬路線をリードした8大長老の最後の1人だった。1980年代、中国政治の支配者は、トウ小平氏を中心にした8大長老であり、87年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任劇も彼らの合意による。そのとき、薄氏も解任を積極支持している。 ( j) m1 Y! T# N8 q9 a. g" F" o ; ~7 M5 W$ B+ x 胡氏の解任は、86年12月に安徽省合肥で始まった中国科学技術大学学生らの民主化要求デモに関し、「ブルジョア自由化を放任した」ことが直接的罪状にされた。背景には開明的な積極改革派の胡氏と保守派長老らとの確執があった。2 u- ?; S; ?7 q. ]
4 X M* H% T; a8 a 当時、貴州省書記だった胡錦濤(こきんとう)氏は、部下に「(処分は)あまりに不公平だ」と語ったという(「亜州週刊」07年1月7日号)。. p z# _; b% f/ G4 `: _
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そうした思いは学生や知識人の多くに共通していたが、解任に対する抗議行動は起こらなかった。後任に、改革派の趙紫陽(ちょうしょう)氏が選ばれたことも一因だった。, y1 Z! Y, ]" [; R4 k9 Q) j
, T- D3 m1 H- r& \0 Q# O, b' } 89年4月15日午前7時58分、その胡耀邦氏が死去した。8日の政治局会議中に心臓発作を起こし、入院先の北京病院での急死だった。「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したことを、当時「人民日報」副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は香港で06年に出版した「六四内部日記」(卓越文化出版社)に記している。 2 d" Q& x: n9 e. {! G4 D0 P7 i$ C$ x& ~% u7 z! y# |1 k( U
予感通りに事態は展開していく。8 n& P; L/ H( r n5 l( w
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訃報(ふほう)が伝わった15日夜には、北京大学など一部の大学に胡氏を追悼する壁新聞が張り出された。16日になると、壁新聞は少なくとも20大学に拡大、長老政治を批判など政治的内容のものも増えだした。天安門広場の人民英雄記念碑では花をささげて、胡氏を追悼する一般市民も現れた。 , e& G9 T, w' x; H* [; |' M9 f$ c$ U) T: C
そして17日午後、中国政法大学学生らが天安門広場までデモをしたのを皮切りに、各大学が競ってデモを組織、規模が大きくなると同時に、その性格も胡耀邦追悼から、保守派攻撃へと転じていく。 A( M/ }+ r. I0 o# W* g$ o$ O* n; D* o k, T; _' f
胡氏の急死は、指導者たちにも衝撃を与えた。2001年に刊行された張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、温家宝(おんかほう)中央弁公庁主任(現首相)から報告を受けた趙紫陽総書記は、政治局緊急会議を招集、訃告の内容や葬儀の手はずを整え、午後、トウ小平氏に報告に行った。トウ氏は既に訃報を知っていてかなり平静だったが、政治秘書の王家瑞(おうかずい)氏は後にこう語ったという。 |: b& Z' B/ F. W7 U N2 X/ O& s: n3 t3 Z# U, H
「小平同志は耀邦同志の死を聞くと、吸っていたたばこを消し、両手の指を力なく胸の前で交差させたまま一言も発しなかった。しばらくしてまたたばこを手にし、猛然と吸い始めた」4 i ^' \ G5 J, k5 D! l) P: i
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胡氏の急死について、トウ小平氏は、その夜発表の訃告で胡氏を「長い試練を経た忠誠な共産主義戦士、偉大なプロレタリア革命家、党の卓越した指導者」と位置づけるとの趙氏の報告に同意、さらに22日の追悼大会に出席すると表明した。 / w4 m$ @' m/ M) z# B% A ' H: i9 ^9 [. e$ _& W/ n 胡氏の解任(87年1月)の理由が「ブルジョア自由化」だったことからすれば異例といえる扱いだった。( ` {7 Y" i& \4 B) o' l& Q1 U; o: e
0 P$ k) ]! C4 R1 E8 F( d; m% i 半世紀に及ぶ腹心であり右腕だった胡氏への同情もあったろうが、04年刊行の「トウ小平年譜」には、胡氏の死に関して「4月22日、人民大会堂で挙行された胡耀邦追悼大会に出席」としかなく、脚注で追悼期間中に北京などで学生デモや動乱が発生したと記されている。 # U- a$ E. V* P3 O( ]" L% G1 u1 g4 E- t* G& C2 Y) g* h1 Q4 V
むしろトウ氏は「大衆の反応」を警戒したのだろう。76年1月、人望を集めた周恩来首相の追悼大会に毛沢東が出席せず、大衆の疑問を招いたことがある。周氏の追悼演説をしたトウ氏は失脚、同年3月末からの周氏の追悼活動が弾圧された、第1次天安門事件に発展した。/ L4 _$ X1 a6 k Y- I5 C5 j; Z3 c8 u
; m+ C5 M: S Q7 U) } 「トウ氏に限らず指導者たちが76年の事件の再来を避けようとしたのは間違いない」と中国のベテラン記者は話す。76年は北京市民の極左4人組への反発が、周氏追悼の形で爆発したが、89年はそれよりはるかに強い反発を招く社会的条件があった。% ]; u3 O9 c9 Q0 i
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天安門事件後に刊行された北京市党委員会弁公室編集の「1989北京制止動乱平息反革命暴乱紀事」によると、同市党委は4月15日午後7時、一部の大学と周辺区党委幹部を招集し、「少数の下心を持つ者の扇動を警戒せよ」と指示したという。 ! |/ C9 j; i! f' ]# B ) T& z% _( ]5 u& n; ~* Y: y1 T さまざまな立場の人が胡氏死去に不穏な予感を持っていた。学生のデモが始まると予感は現実に変わり、悲劇へと向かっていった。 ' }, l9 s; x0 S/ ^& j7 T5 Q+ R & \/ i# ?- i/ v Y9 H# { ` その経緯を追う前に、事件の背景をみていきたい。+ Y* ~. ? s2 s4 C' K2 ~
8 s. U: U# d9 e! M2 J8 }0 T' G9 M. P (中国総局長 伊藤正) - b8 @* b! V* U- |" ?. F5 s# X9 m# F7 f3 r5 w4 s7 H+ _
◇ 9 v; ]1 m8 w8 l9 H" o u" I. M 1 }$ [' r* [$ A6 \8 x0 J【用語解説】8大長老+ Y# }0 }0 w. ^
+ p3 r# v) v$ G' V% d2 T; W# N 赵紫阳的作法激怒保守派元老国家副主席王震,大骂前者,九月以后攻击更趋激烈。中国的文艺作品常成为论争的火种,政争的工具,河殇问题升高知识份子的危机意识,发展成为对政权的批判,方励之的公开信则成为保守和改革对决的导火线。% F$ a% j! v1 y
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中央社 8 e7 p d( e n, g, [* e 1 w7 X5 y5 D, x" X3 ?( g- m+ E; C' u7 r
1 d7 H& q8 J+ `6 @" | & D: m g. O$ Q& D) I【トウ小平秘録】(4)第1部 天安門事件 魏京生事件 % t, I8 }1 m( n, Y) {" N% \2 cトウ小平(しょうへい)時代の重要な特徴の一つは、トウ氏自身をはじめ権力の中枢を文化大革命の被害者が占めたことにあった。その結果、毛沢東時代の誤りを批判し、文革路線から改革・開放路線へ転換することもできた。 4 f+ W% o. [; {# ]& j$ h5 V6 q5 a6 R. \
$ `# ]+ z6 n; ^, A, q6 S' a' K釈放要求公開状に激怒 3 `! d( ^7 d% G簡単だったわけではない。1976年9月に毛が死去した後、江青(こうせい)女史ら極左4人組を逮捕して誕生した華国鋒(かこくほう)政権は、毛路線の継承を掲げていたからだ。 : r* c2 ?1 e: z1 q7 k8 A トウ氏の権力奪取には、毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする「2つのすべて」派を打倒する必要があった。毛無謬(むびゅう)論は78年5月、「真理を検証する唯一の標準は実践である」キャンペーンを口火に打破され、同年末の党中央委総会(3中総会)でトウ氏の指導権が確立、改革・開放へ転換する。 , `! Z" k: S) G( t2 i4 r. u 9 R& p" I5 [+ X$ }4 d% P2 L5 s この理論闘争で大活躍したのが胡耀邦(こようほう)氏だった。胡氏は「思想の解放」を唱えてタブーを次々と破り、文化・芸術や報道を活性化させた。80年代、改革・開放が進み西側の文化や思想の影響が強まる中で、政治体制の改革を求める声が広がった。 1 @+ P4 h# [8 A0 V, ^9 i - y9 V6 x m" {& k 第2次天安門事件(89年6月)と第1次天安門事件(76年4月)の違いは、76年には獄舎にいるか、骨抜きになっていた知識人が、89年には運動の一翼を担ったことだった。 4 q! `- b# A9 o" ^: _7 ? 8 R! l- p4 [$ |7 y7 l 前回書いた、北京市党委員会が警戒した「一部の下心のある者」の多くは知識人だった。事件後、当局側から名指しされ批判された知識人は著名人だけで約50人に上る。その代表的人物は、86年12月の安徽省合肥の学生デモを扇動したとして、党を除名された天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏だった。% Y" Z8 F2 p& O! z
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方氏は李淑嫻(りしゅくかん)夫人とともに、除名後も精力的に民主運動を続けた。北京大学の「民主サロン」や、北京初の民営書店、都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」の設立に参加、知識人と学生の交流を促していた。( ^" l6 p- p) n9 c1 I" ]. X& P
2 N5 {) H3 x/ R3 }7 _1 i 私が88年12月に北京の自宅に方氏を訪ねたときも意気軒高で、トウ氏らを痛烈に批判、民主化は必ず実現すると話していた。それから間もない89年1月初め、方氏は行動に出る。服役中の民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を求めるトウ氏あての公開状を発表したのだ。 . u; ?6 {1 B# C5 H: a! H4 A 2 R) `1 ~5 j. t& O! H2 G0 g5 ? 方氏の要求にトウ小平氏は激怒した。それは翌2月に訪中したブッシュ米大統領(現ブッシュ大統領の父親)主催の夕食会に、招待された方励之夫妻が公安当局に出席を阻止される異例の事態になって表れた。魏京生事件は、トウ氏にとって特別な意味を持っていたからだ。 e. x# c+ c4 {: w" y; Q1 Z
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攻撃の矛先 民主運動へ) w6 R Q; H ?! T6 C* f6 _
胡耀邦氏が1978年に開始した(毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする)「2つのすべて」派への攻撃は、青年層の強い支持を受け、民主化要求の壁新聞運動に発展した。それは同年末の党中央委総会(3中総会)で改革派を勝利に導く「院外活動」の要素があり、トウ小平氏も当初は壁新聞を支持していた。 + z0 i3 s, z: C& k3 ]. q0 D6 T" l ところが、当時、過激な文章を次々に発表していた魏京生氏がトウ氏に批判の矢を向けると、トウ氏は逮捕を指示する。 2 N: R& X% t- R1 I7 Q- m& u, O9 {# R$ `
当時、胡耀邦氏のブレーンで、毛派との理論闘争に活躍した阮銘(げんめい)氏(台湾在住)は、魏京生事件について、産経新聞の取材にこう話している。 * L4 h5 }4 Q" t: `+ y+ F+ Z+ v' I' |0 I2 b1 H$ u
「魏京生逮捕後、胡耀邦は厳罰は望んでいなかった。懲役15年の判決と聞いて驚き、胡に問いつめると、資料は直接、トウの元に行き、トウ小平自ら(量刑を)決めてしまったので、なすすべがなかったと言っていた」 - l, S q. S- y/ Z6 Y ; b/ {, K4 B; y- O/ x6 \6 A1 } トウ小平氏の政治理論の神髄である「4つの基本原則」は、魏京生氏逮捕と時を同じくして打ち出された。トウ氏の言葉によれば、その核心は「党の指導」、つまり一党独裁体制の堅持にある。「独裁か民主か」と問い、トウ氏を「新たな独裁者」と攻撃した魏氏が、4原則を生んだともいえる。# y. F, V5 c% j K5 d
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天文物理学者の方励之氏の公開状は、改革派知識人を刺激、政治犯釈放や民主化要求の公開状が相次ぐ。その背景には、前年秋、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が価格改革の失敗を理由に実権を失い、保守派の李鵬(りほう)首相らによる引き締めが強化されたことがあった。 8 [: f. S5 y7 Q6 Y9 E1 Q0 L; ]( s& c A5 M% @
それより前、知識人が警戒心を持つ出来事があった。テレビドキュメンタリー「河殤(かしょう)」問題だ。8 G x/ A; E U7 F
$ W# U" C/ h; G0 x" d. G; J" N 中華文明の封建制や暗黒面を描き、改革を訴えた作品(全6回)で、国営中央テレビが6月中旬に放映、大反響を呼んだ。 7 ]) i0 k: M) c3 m( g$ h: C0 J : C B$ Y) w, i+ q3 J3 z6 x8 ?' h 中国のメディアも絶賛したが、7月に入ると、風向きが変わり、批判が始まる。保守派の王忍之(おうにんし)氏が部長を務める党宣伝部の指示で、再放映申請は却下されたが、趙紫陽氏は作品を絶賛、ビデオ作製を許可し、上海テレビなど地方局の放映を黙認した。7 y2 t' f. @" W }1 b& h- B" @
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これに激怒したのが保守派長老の王震(おうしん)国家副主席だった。王氏は「中華民族への侮辱」などと攻撃、趙紫陽氏を「総書記の資格がない」と罵倒(ばとう)した。王氏の趙氏攻撃は9月以降、さらに激しくなった。# u3 Z& C- O3 l
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中国では、文芸作品はしばしば論争の種、政争の道具になる。河殤問題は知識人層に危機意識を募らせ、政権批判へと発展した。そして方励之氏の公開状は、保革対決への導火線になるのだ。(伊藤正) ! C0 {5 ^: U* a4 O) b2 d) ]$ v
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【用語解説】文化大革命 : e# T; \8 Y4 B4 `9 g $ W( b* w. \9 ]( |) X 1966年、毛沢東中国共産党主席の主導で始まった政治、思想、文化闘争。古い文化を破壊、理想社会を目指すとのスローガンを掲げて大衆を組織し、あおられた学生や労働者が古参幹部、知識人らを迫害する弊害を生んだ。毛死去(76年)に伴い終了。81年の党中央委総会で「災難をもたらした内乱」と位置づけられた。, U: R* O/ Q. s# {; U) C- s
《邓小平秘录》背后的秘辛 & M- J% M/ t! i8 n7 T% |. | . f/ M3 r' V" t* F4 n- k5 G日右翼报纸《产经新闻》将从本月14日起连载长篇评传《邓小平秘录》,并从近一个月前就打出广告,在周知海内外“粉丝”、吸引方方面面目光的同时,自然也引起了北京的高度关注。 3 Q1 d. @! K' I! N7 b9 O% } * m9 g; ~1 A' W& {; i" I日前,中国驻日使馆已发出非正式照会,并邀请相关记者,就内容安排等问题,非正式性地交换了意见;尤其是对于有关“天安门事件”的内容,表达了恐对4月温总理访日造成负面影响的担忧。, ?& u# C; [! ?' W1 r2 A9 i3 e
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对此,评传的主要撰稿人、《产经新闻》中国总局局长伊藤正说:“恰逢邓小平去世10周年之际,检阅其人给中国和世界带来的影响乃策划之初衷,与温总理的访日无关。天安门事件,无论对邓个人还是中国来说,均是带有历史意味,并且与其后的经济腾飞等变化有关联的重大事件,所以将其作为开卷第一章的标题。”; }) U! u0 [: _+ C. G3 E4 W
8 B- x; {& k( x6 u1 f* k伊藤正(Tadashi Ito),著名政治记者、纪实文学作家,是日本公认的大众传媒知华派,以《30年后的林彪事件》、《天安门事件再思考》等重量级著作名世。此番担纲邓传的采访、写作,自然备受瞩目。; D2 y& c# Y5 P4 j7 V" r' L
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邓小平,在日本是超级名人,是日文Windows系统中为数不多的只消键入日语罗马字拼写(Toushouhei),无需转换就能自动出现的“固有名词”之一。日人历来少慕虚名,推崇实力人物:1978年10月,第三次复出的邓公以副总理身份访问日本,出席《中日和平友好条约》“批准书”交换仪式。这位中国政坛的传奇人物,被当成中国政治的“执牛耳者”,受到了国家元首级的礼遇。事实上,邓公的访日,也间接促成了中国当代史上意义最为深远的转折:不到两个月后,十一届三中全会在京开幕,在清算“凡是派”,确立以邓为核心的新权威主义体制的同时,打出了“拨乱反正、改革开放”的政治路线,开始了一场已经吞噬掉整整一代人,至今难以望见出口的、被称为“改革”的惊天伟业。在日人眼里,在毛时代空前惨烈的政治斗争中被打倒,苟活而终于胜出——邓三上三下的经历本身,就是一部“波澜万丈”的中国当代史。更为重要的是,曾被邓两次以非常手段拉动的史上最大规模的经济改革,已然结出了起飞的硕果。然而,这个超过一万亿外汇储备的、正在“崛起”中的大国,既给日本带来“中国特需”的实惠,也正在成为日本的恐惧之源是不言而喻的——面对如此文化上令人怀旧,政治制度迥异的大块头邻国,日本总难掩复杂的表情。 Z6 p6 B/ K+ b. L y+ _: m5 O4 k $ {; v) Z B O, L0 X# g此番连载的栏目,是《产经新闻》晨刊的看家金牌栏目,在主流社会拥有众多的读者和广泛的影响力,历史上连载的《蒋介石秘录》、《毛泽东秘录》等力作,无一不曾成为斯时的重要话题。正是其当仁不让的影响力及《产经新闻》本身的反华右翼倾向,成为中共当局提心吊胆的由头。虽说是在言论自由的民主国家,但可以想象,对传主的盖棺定论之“厚道”与否,无疑会对日本到底是“好孩子”,还是“坏孩子”的评价发生微妙的影响。作者: 日月光 时间: 2007-2-18 10:52
邓小平秘录:搜集反党证据展开新反右派斗争! d9 p1 `& Y/ b; v% L
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日本产经新闻今天连载的「邓小平秘录」报导指出,邓小平认为专制手段的必要性,并经由搜集反党活动的证据而认为反右派斗争有其必要。6 P# g% }; E- y
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文中指出,邓小平在一九八六年十二月三十日向当时的党总书记胡耀邦和总理赵紫阳等六名中共党领导人物指出,必要时非采取专制手段不可,这项谈话宛如邓小平针对一九八九年天安门事件决定武力镇压的状况而言。8 ?3 e9 i8 m8 ~5 C
, c- d3 t+ l, k" O) O+ o 报导说,邓小平是针对中共领导阶层对安徽合肥学生示威的处理态度软弱加以批评,胡耀邦于一九八七年一月遭解职,方励之、王若望和刘宾雁三人遭开除党籍,当时包括方励之等三人在内,有约五十五万名右派份子遭迫害,斗争的指挥者是邓小平。 # ^ V9 T3 ?! U# X8 d7 h1 U2 B( b & O1 A" y1 L" b/ S6 S 一九七八年开始每年有九成九以上的受迫害者恢复名誉,当时从事重新评价的是党组织部长胡耀邦,邓小平批评领导阶层的谈话显示出他对自由化思想的严峻态度。$ g/ ^8 p- f" ^0 V1 Y5 r
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根据一九八九年天安门事件后现身的北京市党委书记陈希同报告等资料指出,当时党全力搜集知识份子在集会中的言行及大学内发现的传单,作为策动动乱和组织准备的反党活动证据。 $ P% v( U5 f# H# D1 g4 e4 b9 D. V7 K+ M- H6 l8 Y
邓小平接获报告后认为反右派斗争是正确的作法,有必要新的反右派斗争。中央社 9 t0 s: f- ?' c; C* Y6 D - P$ D5 A' H" _5 R* P) ] ! _ T0 Z* m: r6 ~0 x【トウ小平秘録】(5)第1部 天安門事件 反右派闘争# }3 f* \9 i9 f: ^$ Z
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■必要なら専制手段使う ! w) m* C. x: Y; Q) J3 x! @' C6 _9 l- ^2 m
「専制手段は、必要なときには使わねばならない。使うときは慎重にすべきだが、もしだれかが流血事件を起こしたらどうするか。こちら側にけが人が出ても、事を起こした刑事犯は法により処理する。その決心がなければ、今度のような事件は制止できない。何の措置もとらなければ、われわれは後退し、面倒がさらに増える」(「トウ小平文選」第3巻): g. Z4 a4 j2 b
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1986年12月30日、トウ小平(しょうへい)氏は胡耀邦(こようほう)総書記、趙紫陽(ちょうしよう)首相(肩書は当時、以下同)ら6人の指導者に対し、こう話した。 $ a( y' `2 {; \5 j1 c) k7 D3 P1 q" N. I0 U/ a0 d) B) i
この談話は、あたかもトウ氏が大衆行動への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)直前の状況について語ったようにも響く。) H+ ^& \" ] G; m
& ]0 O7 Y% G; N0 O- } 談話は実際には86年の12月5日、安徽省合肥で始まった学生の民主化要求デモが上海、北京、武漢などに飛び火、指導部の軟弱な対応を批判したものだ。9 B5 k# N) {4 b/ W. O# P4 V
. u. l8 [( V- S, z: F そして胡氏は翌月解任、トウ氏がこのとき激しく名指し批判した天文物理学者の方励之(ほうれいし)中国科学技術大副学長と作家の王若望(おうじゃくぼう)、劉賓雁(りゅうひんがん)両氏の3人(方氏以外は故人)も党を除名された。6 l$ ~) Z9 p9 }7 F+ p) t B+ n
4 N6 x% i% @( u0 p7 T; b* j/ r この中で注目されるのは、毛沢東時代の重大な過ちとされている57年の反右派闘争についての発言。トウ氏は「ブルジョア階級右派に反対する闘争」と呼び、「やり過ぎた点は正すべきだが、われわれは全面否定はしていない」と話している。 7 o* y0 I2 h* h/ ? $ y' t" R5 a7 E! A$ h& c7 j 当時、約55万人が「右派分子」にされ迫害を受けたが、除名された3人もその中にいた。総書記だったトウ氏が闘争の指揮を執ったことで知られる。5 A m z; y8 u1 B0 v$ i
( N- A E8 P. ]% n; R 78年から見直しが行われ、99%以上が名誉回復された。見直し作業を進めたのが、当時の党組織部長、胡耀邦氏だった。3 o& M; g' i3 S/ n; f
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トウ氏の談話は、自由化思想への厳しい認識にあふれている。- e6 J- e6 ~. f! {. q
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「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」/ z/ n k4 B6 R+ t' ]5 v
8 l4 ^: s8 h3 P% K. _5 H% k 「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」 - s# o) i5 ?6 p ]) |) W1 T* W! D) h+ | 2 O' {1 T. M% ? s$ }+ W, D& ] だが、長い試練を経てきた3氏がひるむことはなかった。特に方励之氏は、さらに活発に動き、反体制色を強めていく。「中国のサハロフ」と呼ばれ、国際的知名度は抜群。招かれて外国に行ったり、国外で著書を出したりと、休むことがなかった。$ y0 p2 f8 ^" t. Q
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反党活動の証拠収集* B- u+ K$ @0 i
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天安門事件(第2次、1989年6月)当時、中国社会科学院歴史研究所副研究員だった包遵信(ほうじゅんしん)氏(事件後、懲役5年に服役)は、89年1月28日に北京の都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」で方励之氏の発言を聴いたときの衝撃を、台湾で出版した「六四的内情」に書いている。 + F9 p9 m: K7 L/ S) M7 C* x8 K4 O! R F# \! T/ |0 t* y" M) B% ?
方氏は、これより先、トウ小平氏に民主活動家、魏京生(ぎきょうせい)釈放を要求した目的を「人権問題が闘争目標」と説明、それには「党外、体制外から闘い、実際行動に出るべきだ」と強調していた。 5 U6 o3 e9 E+ Q- J4 g y0 }" ~& U; u* C1 |- E! L* m q 「扇動性が極めて大きかった。会場は寂として声なく、拍手も起こらなかった。重爆弾を頭に受けたようだった」と包氏は書く。 ) X# f) j' D% ^2 e1 g5 i: Q7 ]+ C( I! h- ] ~9 Q W" ?
その会合には、元毛沢東秘書の李鋭(りえい)氏、人民日報の元社長、胡績偉(こせきい)氏ら長老のほか、著名な改革派知識人が多数参加していた。彼らのほとんどは後の「89民運」(胡耀邦氏死去後の民主運動)を支援、自らも参加した。しかし、この時点では党外闘争や街頭行動までは念頭になかった。 # ?! [$ v' Y1 p+ f/ q+ }6 M8 ?! i+ i4 ]2 k% e9 `- Z
天安門事件後に出た陳希同(ちんきどう)北京市党書記の報告など各種の資料では、この時の会合を含め知識人の言動や大学構内のビラを収集し、それに基づいて動乱画策の思想的、組織的準備をしていた「証拠」にしている。 4 P$ \5 e3 u) z. @8 {4 A0 T- T. t) Y7 |: z, S: U" n1 g. O
陳報告のごく一部の要約を紹介すると-。( }- i- n- Z b. ?" u9 R! Z- m
邓小平秘录:胡耀邦为被出卖而放声大哭 0 z$ P# P- v# T" ?+ d& m & S: e8 b2 \5 I$ u r/ ^日本产经新闻今天在连载中的「邓小平秘录」报导,胡耀邦在一九八七年一月十六日被解除党总书职务前一天的斗争批判会议结束后,在会场外为自己遭到至友出卖而放声大哭。, h, G3 T( V9 A
: o0 ~: E& J( ]$ s/ f) L' G 文中指出,中国共产党历史是一连串的政治斗争,邓小平从一九七八年掌权后到一九九八年的十年,华国锋、胡耀邦和赵紫阳由党最高地位纷纷被迫下台,一九八七年一月,胡耀邦被解除党总书记职务成为天安门事件的政治背景。& ~. t/ [/ z5 O
% \3 U* t* m8 k9 \; a1 k4 ~ 文中指出,一九八六年十二月二十七日,中共七名元老拜访邓小平,指责胡耀邦对安徽合肥学生示威运动姑息,邓氏遂于三十日召集胡耀邦总书记和赵紫阳总理等六名发表谈话,指出必要时需使用专制手段。) I. a" Y" U) ?: y
: h; h* b- l1 W; d" u/ E 拜会邓小平的七名党元老之一的中央顾问委员会副主任王震于次日三十一日在党中央学校以激烈口吻指出,「大学生若有三百万名,我们的解放军也有三百万名,敲破学生的脑袋,让他们知道我是谁!」。7 j$ o! @4 _0 x
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胡耀邦是于一九八七年一月十六日在党政治局扩大会议上被解除总书记的职务,他早在同月二日就提出辞呈,并在十日于中南海召开的「民主生活会」上对出席的中共要人自我批评,随后到十五日结束为止一直成为与会者批判的对象。 2 ~5 u$ b1 W# m# K) U' @1 V9 s) N* K2 D' _% ?; y
「民主生活会」散会后,胡耀邦由于受到极大的精神打击而在会议场所的怀仁堂外放声大哭,原因是他被视为至友的党中央规律检查委员会第二书记王鹤寿出卖,后者暴露他们之间的私人谈话,同时连政治局员万里和赵紫阳之类的改革派都对他加以批判。万里在会后对胡耀邦表示同情,当晚把胡爱吃的狗肉送到胡宅。 : C( M, J% ]% h" j$ m. e# @" c! I( o
根据党宣传部长朱厚泽的证言,为决定解除胡耀邦总书记职务并由赵紫阳暂时代理而召开的扩大政治会议是由邓小平主持,最后由陈云发表很长的演讲,结束后进行表决,政治局员以外的元老也参加,结果一致通过决议。党的最高层人事并非由中央委员会召开大会来表决而是经由变通的会议决定。陈云随后提醒与会者,指出这是项合法的会议。中央社 3 H4 {- b* F& o: Q8 `" f 3 w! N0 x: N! V0 {【トウ小平秘録】(6)第1部 天安門事件 失脚の歴史 姑息で無力な指導だ* p8 s1 X3 o5 S5 ?
1 I' L; ?. p6 k9 O. E中国共産党の歴史は、政治闘争の連続だった。トウ小平(しょうへい)氏が最高権力を握った1978年以降も絶えることはなく、天安門事件(第2次、89年)までの10年余の間に、華国鋒(かこくほう)、胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)と3人の共産党トップが失脚した。 ' J( @9 g% ~8 ~( I9 F7 {! }5 c2 Z0 m/ S6 N, a/ G- n8 Z
その中で、87年1月の胡総書記解任は、天安門事件の政治的背景になった事件だった。 5 x5 J8 K4 f. H + p V$ A; S3 w 国営新華社通信の元高級記者、楊継縄(ようけいじょう)氏は、2004年に香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、天安門事件後、自宅軟禁状態にあった趙紫陽氏と3度インタビュー、その証言も加えて、胡耀邦事件も詳述している。 * {& g2 s* W, y( n5 n0 J7 i : x& _# r& a, |' F 前回、トウ氏が86年12月30日、胡耀邦氏らに行った談話のさわりを紹介したが、その3日前の27日、長老7人がトウ氏宅を訪れ、安徽省合肥で始まった学生デモの危険性を指摘、胡氏の「姑息(こそく)で無力な指導の結果だ」と訴えた。それを聞いたトウ氏が秘書に手配させたのが30日の会合だった。 " v# v- g' V: T2 f( q" \; ^, F1 I' e
長老7人は、天安門事件で重要な役勻担った8大長老のうち、王震(おうしん)中央顧問委副主任、彭真(ほうしん)全人代委員長、薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席の4人、それに保守派理論家のトウ力群(りきぐん)中央書記、胡喬木(こきょうぼく)政治局員と余秋里(よしゅうり)中央軍事委員だった(肩書は当時、以下同)。 5 \$ y/ d" b9 E$ c& N% n. \* V2 a. @" K2 w' O5 _ _3 l+ E
これより前の25日、天津を視察した王震氏は、市幹部と会見するやテーブルを激しくたたき叫んだと、当時、天津支社勤務の楊氏は書く。$ W$ m$ J: m* {* Q6 M
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「反革命分子が造反した! 騒ぎを起こし共産党を引きずり下ろそうとしているんだ」 u1 O2 z) |9 V. t9 W9 j8 s/ q
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「今も右派がいる。反革命もいる。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)がなんだ。反革命だ!」 ! i7 P8 J' H7 u" \1 ?! _; X( F$ Y& O* s3 E3 R* L; s4 i1 v+ J
同月31日、党中央学校で講演した王氏の言葉はもっと激しい。 5 F0 ?# @5 G0 v' {5 A, o9 x7 r6 \8 ] k0 U
「大学生は300万いるだと。こっちには300万の解放軍がいる。あいつら(学生)の脳天をぶち破ってやる。わしを誰だと思ってるんだ」 ; x! O) B. R; M% j6 V% }+ T' z+ h6 w, j. ^+ ]
王氏は新中国発足後、新疆ウイグル自治区に軍政治委員として派遣され、少数民族を武力弾圧したことで有名だ。# I) I0 Z% [) q+ {' ]3 v. R
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≪胡耀邦は声上げ泣いた≫# s* w; H( ]- R8 E
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外国製サングラスをかけた中国の女子学生たち。「ブルジョア自由化」のファッションとされた(1982年、雲南省昆明市) 6 _1 Y( [9 c, G4 W+ R 6 i6 V; D( k4 F 胡耀邦総書記の解任は1987年1月16日の政治局拡大会議で決まったが、その前に10日から、中南海の懐仁堂で、要人が意見交換する「民主生活会」が開かれた。* ~' {. S+ } [: g. T
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胡氏は同月2日、トウ氏に辞表を提出、生活会の初日に「ブルジョア自由化」への対応などについて自己批判した。2 T$ G6 n" d }4 F/ ^
& O* O* _% Y8 m g 「政治原則上の重大な過ちを犯し、党に重大な損害を与えた」「『左』にばかり注意し、『右』を防ぐのを怠った」などと。 7 v( O, M& L5 g& }; T7 {7 Y 5 K$ A' ?3 y6 E& O その後、胡氏を批判する発言が15日まで延々と続く。 - f i2 H, A3 r x- _2 J8 D( j* s0 t. w+ @ F
「胡耀邦の心を傷つけたのは、良き友人までが事実を顧みず暴露をしたことだった。延安時代に『桃園の結義』(三国志演義の劉備、関羽、張飛による兄弟の契り)を交わした王鶴寿(おうかくじゅ)(中央規律検査委第2書記)は胡との私的会話まで暴露した。万里(ばんり)(政治局員)や趙紫陽のような改革派も批判的発言をした」(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)8 D+ t( K0 h7 I3 u/ w+ g
+ ?; U1 ~7 X1 `1 e$ R 趙紫陽氏の発言は生活会最終日の15日。保守派で当時党中央書記だったトウ力群(とうりきぐん)氏が2005年に香港で出版した「十二個春秋」によると、党除名になった作家の王若望(おうじゃくぼう)氏らの名を挙げ「胡耀邦、あなたは彼らになぜあんなに寛容だったのか」「内外で開明的な印象を維持したかったのか」と追及したという。* Q2 X! v4 q! ?. q& [0 N7 X7 b) f2 O8 Z
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「生活会が散会した後、胡耀邦は懐仁堂の外で声を上げて泣いた。彼が受けた精神的打撃は大きかった。万里は同情し、その晩、胡の好物の犬の焼き肉を胡の自宅に届けさせた」(「楊書」) / F8 _2 P S# E; U7 s. o+ H; J! {) |+ K7 w. o' C7 Q; H( e: A5 K W
生活会にはトウ小平氏も保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央規律検査委第1書記も参加しなかった。両氏が出席したのは16日の胡氏解任と趙紫陽氏の総書記代行就任を決めた政治局拡大会議だ。「楊書」は会議に出席した朱厚沢党宣伝部長の証言を記している。+ u0 ~6 T! Q! c3 J
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それによると、会議はトウ氏が司会、最後に、陳雲氏が長い演説をした。その間、トウ氏は正面を見据え微動だにしなかった。陳氏の演説が終わり、薄一波氏がトウ氏の目の前で手を振り合図するが、反応がなかった。3 ~ I) ]' x! e- I* o8 [7 v
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「もう一度、合図するとトウ小平は目を覚まし『聞こえなかった』と言い、『意見がなければ、挙手で採決』と続けた」* ~4 b5 e8 @% I* K
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採決には、政治局員以外の長老らも加わり、全会一致だった。党のトップ人事が中央委員会総会ではなく、変則的な会議で決まった。陳雲氏は「この会議は合法的だからな」と参会者に念を押した。(伊藤正) N* F& }3 B1 K# a/ h# g
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) ^' J. k/ M4 N" a第十三届党大会包括邓小平和陈云在内的中共八名元老有七名引退,只有政治局委员杨尚昆获选连任,这是邓小平迈向实现很早就主张的废止终身制和干部新陈代谢的一步。, I" K2 M" Y$ F4 `9 E
L$ M$ Y7 B, A; [邓小平早在一九八零年接受义大利记者访问就强调废止终身制的必要性,八二年设立老干部退休制度,同年九月的第十二届党大会新设由老干部组成的中央顾问委员会,但是老人统治并未改变,政治局员二十五人中只有一人未满六十岁,政治局常委六人中,只有胡耀邦和赵紫阳未满七十岁。 ) M& \1 t1 K. s . |. f7 W/ w) }' k胡耀邦的智囊吴江在著作中指出,中共在邓小平主导下于一九八六年开始检讨领导人年轻化等改治制度改革。赵紫阳曾在一九九五年十二月接受新华社记者杨继绳访问时透露,一九八六年二月,胡耀邦拜访他,传邓小平指出,「(我)将于十三届党大会辞去政治局常委和顾问委会主任,你也辞去党总书记来接顾问委会主任。」胡向赵接著指出,若是如此,将可带动大批老同志退休。 7 g" f* n+ L3 x4 u4 n0 x, f& J + s7 x# V( O2 ^4 U6 P8 L邓小平在十三届党大会率先辞退中央委员,其他元老追随而实现大幅年轻化,邓氏只留任中央军事委员会主席,新的政治局常委是赵紫阳、李鹏、乔石、胡启立和姚依林,除赵紫阳以外都是新任。邓小平曾提议让积极改革派的万里和田纪云也成为常委,但遭保守派反对而作罢。后来在处理天安门学生示威,赵和胡是柔软派,李和姚是强硬派,乔石则是中立派,反映出政治局常委人事是保守革新两派妥协的产物。& Z1 w( S; X! u- R! e/ ?/ O
4 b0 q. E: u: x/ P! g8 |9 C e
由邓力群的落选显示,若在改革派大优势之下进行投票选出政治局常委的话,姑且不论被内定为下任总理的李鹏,七十岁的姚依林势将落选,如此一来将引起保守派的反弹而对改革造成妨碍,八十三岁的邓小平把「富强中国」的梦想寄托在赵紫阳身上,为营造实行改革的环境而绞尽脑汁。 4 H! u# N. ~2 r3 s: V
: q$ m0 x0 _1 I F- d5 K' T- e【トウ小平秘録】(8)第1部 天安門事件 第13回党大会 3 Q% @6 F1 U5 K
「左王」と呼ばれ、胡耀邦(こようほう)総書記解任でも活躍した保守派理論家のトウ力群(りきぐん)・元党宣伝部長が、1987年秋の第13回党大会の中央委員選で落選したことは前回書いたが、中央顧問委員会常務委員選でも落選した。187票中85票しか得られない惨敗だった。6 c/ b0 H @0 Z t
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改革へ深謀、トウ・趙合作$ n# O% e5 w; \9 F
% a( M- T* I9 M, G* w6 ~7 F 対照的に、その年1月に党総書記を解任された胡耀邦氏は中央委員選で上位当選。党大会に続いて開かれた第1回中央委員会総会(1中総会)では、投票総数173のうち166票を得て政治局員に選ばれた。反対7票のうち1票は胡氏自身だった。; x% }' c! N, v2 R% q3 ~7 s; }
6 b0 o, ~5 I+ ], r e( x 邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 6 R0 _7 Z" h1 _; u5 c7 n% ~4 Q0 O
; R6 T# [' E% J" G; j+ C; R 香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。” & c! M. a; W- }; _+ d. t) I , f& S% r5 Z# l w( k) m6 u7 ]! ?; m( N0 B+ l$ \
他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 ' A# |. `( H4 e) {& q3 t0 T" h. c* B4 h
7 _ f, Q* P; w: Q8 g" k# c. {
在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 8 x% V; }1 v$ h- x' ]0 O' M ! u n6 j% p9 o: I9 w 邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。3 P5 r4 @8 \! e1 ^3 I
1 G. a2 v' Y" N( o5 K6 M/ x6 N # J# c4 @0 _% r6 x- H C0 K- S5 ^6 S
China honours man who reshaped world6 ^$ V T; r" ^0 j
When Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. ( K7 x0 R2 f7 j
: l: m" i2 Y$ i" eChina might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. 0 q$ g. X9 F: F7 ^/ y% @$ s/ d 5 O& w8 Q# G( H- pBut despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. ; E6 i9 r$ L2 C) G# b f 9 L' o2 v% _ P- l6 W6 GHis daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. 8 t4 j& _' L- G8 ~ 7 h8 f4 C" L' t1 N) I, |; e" Q“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” ( E+ G, t, a: |" I
$ ?# q I' c( i) @Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. ( u" e+ N7 ?" F& B
# E6 b N* y- H. F0 ZMs Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. 2 v* [+ o8 b- `/ N . k7 D- n% z' C2 p' r0 W% ]* tShe said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” 7 e: }5 Q) x1 _
, I* _' b0 l8 @6 ~( i6 @: k: }4 XNicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. 9 }# Q& u! s3 [8 ^' j! Y $ ]6 ~$ h; Q% k: o% jDeng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. $ b0 t6 a2 e9 w: r5 f7 d. b# w% W9 z4 l/ N# W. q% q
David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” 9 L \8 L/ X/ }3 | m+ x' p/ e7 s2 T6 X" U7 P! Y/ p7 Z
He understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 2 z# J Y9 y) d& h+ k# B' b& i
' E# }/ E2 _9 @7 A9 m! CMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” 3 W' t( ? I* M4 H& _ 1 M" F/ `3 v) v% \) T1 i/ |Ms Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. 0 U0 c5 _' u. O/ I h4 y2 B" X, d, O$ F1 j& U0 n6 A
But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. ' \7 m- c6 t9 ^' ^3 L& q4 c( n9 g" y, B; m$ k* a
His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” 2 U" f E* u& n4 j& q$ R4 ~ E7 c $ R# |; ~9 d+ h( I- s3 OLong road to riches 4 d1 ]$ }, S( J! l# k: [# e" ?8 R+ m% T1 B [! m: |8 E: L) O' _5 O
Now - t$ ^+ R* e% {. y, F' A! c
6 Z# C7 X, d" R+ o6 q0 u/ C
Population in cities: 550 million 1 | o: }* U- t9 d+ }6 {1 z* m- W8 F" e" y! \
Gross domestic product: $10 trillion 1 Y" J; D* v5 r9 w; \
q$ _7 `( k( O' w2 h# Q0 UOil consumption: 6.5 million barrels a day 8 h! U6 b7 N7 J; e" N7 j8 [& @% { ! Z* c9 h& z, j5 u( S9 gExports: $954 billion # d! x8 R! n) E' l7 q
9 L; @' L7 U& j
Population below the poverty line: 130 million 3 q# Z' m( j! F. u x
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Ten years ago' | ~: i0 x# K0 O0 j" T4 [
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Population in cities: 370 million , U; g5 I0 U- O) c* k2 H * k+ R. T0 L9 b o1 C5 WGross domestic product: $4 trillion + v# N$ N+ S2 l* D; W2 o4 h) X6 `' `- E- |6 }! ~# C% |; w/ L
Oil consumption: 3.9 million barrels a day u; ]9 Z7 t8 D2 I. Z- F; k& w2 `
邓小平秘录:赵紫阳对学运乐观未防备保守派, N, j( w# T' }) J6 J
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日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,胡耀邦去世后学生发动示威,中共当局很快就加强警戒,并进行打击,相对地,前党总书记赵紫阳却对事态发展不可解地乐观,未防备保守派的攻击。. ^% x0 n3 t W/ j7 S
8 e% K% w1 f: b 文中指出,中共前党总书记胡耀邦死后的一九八九年四月十八日深夜,大陆学生前往新华门要求和当时的总理李鹏见面而静坐至十九日早上,并企图闯门,是造成追悼胡耀邦行动出现显著变化的开始。十九日上午静坐者虽一度解散,但随后再次集合,到二十日凌晨和警卫持续小冲突。 : x& Q e8 }" E7 @9 }& Z, B- R. L2 J- ^
根据后来中国记者发表的著作显示,十九日晚上有十万人聚集天安门广场,虽尚未直接批评中共当局,但以要求民主化和扑灭腐败等进行间接的批评,学生的这种活动被视为由追悼胡耀邦转为批评中共领导者。 9 O" K5 P: ~: |* N" j/ s, m( J u. M5 H# A% g9 @) V; {) m) z 两天前的十七日傍晚,人民日报社长钱李仁参加中南海会议后回报社指示,中共当局决定胡耀邦的葬礼,二十一日举行十万人出席的告别式,二十二日举行四千人出席的追悼大会。但是,晚上九时,钱李仁电话报社指出,中共上层最高指示决定取消二十一日的告别式。4 N' O" ?- X1 _0 r# X; z8 h
: |/ K+ P7 [. u5 s 十八日,政治局常务委员乔石在中南海会议上指出,少数人引发骚动,要求警戒别有居心者在背后煽动,并指示不要报导街头运动,特别是不可刊登天安门广场的照片。共产主义青年团常务书记刘延东曾在会议问到二十一日何以取消告别式,乔石说明指出,并非正式决定。 W+ i. q( V! F' Z( u6 ^
( X4 s C8 T( {/ x0 e' K1 U+ l 十八日的会议上本来允许报导工作单位内的追悼活动,但十九日被通知禁止报导,并不可刊登胡耀邦生前的照片,显示出中共领导当局和大众对决的气氛越来越高,报导增加了困难度。 + T" d& @" B$ L3 m# X2 m- Q. Y 6 V! B/ O7 k F' ~) W0 n 二十日新华社发表专文,严厉谴责学生示威行动和新华门事件,充满杀气腾腾引起内外强烈反应的这篇专文并非新华社记者执笔而是来自外人,新华社上层表示事先并不知道。这篇专文造成新华社接到三百通以上的抗议电话,社内议论沸腾,谴责这篇歪曲事实不知羞耻的文章。被认为是李鹏指示的这篇文章的出处经过迄今不明。 1 V' J4 t% G: z Y+ _* A, Z & D% |- Z' y" c 这篇文章不仅造成学生要求报导的自由,并引起学生的愤怒而扩大示威运动,四月二十六日人民日报社论的主调出自于此,成为后来发展成党中央分裂的起点。- s1 G2 b% L8 u) {, e
3 \2 e5 Z2 h0 ?% P; |5 L それが18日深夜に変わる。天安門広場の人民英雄記念碑周辺にいた2000人ほどの学生が、そこから600メートルほどの新華門に移動したのは午後11時ごろ。翌朝まで門前に座り込み、突入を試みるのだ。 6 w8 x! r" j% x) n - A7 r( T& `8 u- r" p/ o いったんは解散するものの19日午前、再集合し、20日未明に警備側が実力行使して退散させるまで門前での小競り合いが続いた。4 a& `& ^- k+ \* }
+ s3 Z: u3 S T# ]
どのようにしてこの行動が起こったのか、関係者の証言はまちまちだが、その結果はすぐに表れた。2 ~1 p1 {: G. T; N
% r4 N" p( q; Y2 Q2 a6 u 当時、新華社高級記者だった楊継縄(ようけいじょう)氏は香港で出版した「中国改革年代的政治闘争」(以下「楊書」)で、また人民日報の副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は同じく「六四内部日記」(「陸書」)で、それぞれ学生運動開始以来つけていた日記を公開している。 . b; I1 M/ J7 q; F; W" K; l" g* g5 X5 L " i* H* i! M4 `/ _* k1 A1 N 楊氏はほぼ毎日、大学や天安門広場に足を運んでいたが、19日夜、広場には10万人もの人が集まり、学生たちの活動は「胡耀邦追悼から、指導者批判へと変わった」とする。5 R) f5 Z* T( P1 [
n. o6 u n$ V6 h8 W
まだ指導者を直接批判したスローガンはなく、民主化要求や腐敗撲滅など間接的だったが、学生たちは「報道」に当局の意思を感じていた。北京市党委員会の機関紙「北京日報」は19日、「学生、中南海に突入」の見出しで批判的に報じていたからだ。1 [9 Q# u/ H; u+ [; [0 l
" c9 ~3 D* [( V 党機関紙の人民日報と国営通信社の新華社は、党権力を守る「2本の棒」(鉄砲とペン)の1本として、権力機構の重要な位置にある(両社の社長は党中央委員で閣僚級)。人民日報の幹部だった陸氏は、当時の内部事情を克明に明かした。以下はそのさわりだ(肩書は当時)。+ D( \! i' S$ {2 ] K
4 G& n& H/ W: D: {, G 89年4月17日 夕刻、中南海の会議(喬石(きょうせき)政治局常務委員主宰)から戻った老銭(銭李仁(せんりじん)社長)が胡耀邦の葬儀に関する決定を伝達。「21日に10万人の告別式、22日に4000人の追悼大会」。午後9時、老銭から、21日の告別式は取り消しになったと電話。なぜと聞くと「最高指示だ」。 2 V' O) v" n' } p& v5 i$ r( E / t) o' P6 w* r 4月18日 中南海の会議に老銭に代わり出席。喬石が「少数の者が騒ぎを起こし、下心のあるものが陰で扇動するのを警戒せよ」「街頭行動は報道せず、特に天安門広場の写真は報道してはならない」と指示。劉延東(りゅうえんとう)(共産主義青年団常務書記)が21日の告別式取り消しに疑問を提起したが、喬石は正式決定ではなかったと説明。 * W; C" D, X2 x4 D1 W9 s; n3 b! u* P: t( S; X
4月19日 前日の会議では単位(職場)内の追悼活動は報道可だったが、それも禁止との通達あり。胡耀邦の生前の写真も掲載不可になった。大衆の対決ムードがますます高まり、今後の発展に注意が必要だ。報道は困難を増すだろう。7 o9 Z1 W3 f& H2 x0 t
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この2人のベテラン記者がそろって注目したのは20日に新華社が発狽オた「社会の安定擁護が当面の大局」と題し、学生デモや新華門事件を厳しく批判した評論員論文だ。 % }7 J! u6 C: ]* z. {0 E; h9 e3 z4 B' g# V7 H( d& e
「陸書」は「殺気満々で内外に強烈な反応を起こした」論文の筆者は、新華社外の人物で、新華社指導部も事前には知らなかったとする。 8 Q: Q' i( S! v" j/ X: G B) b ) Z4 q& f7 k6 I5 G' |2 H; N7 I 「楊書」によると、21日に300本以上の抗議電話があり、社内は議論が沸騰、事実を歪曲(わいきょく)した恥知らずの文章との非難が起こった。穆青(ぼくせい)社長も論文に意見があったが、「指導者も罵倒(ばとう)されている。新華社が罵倒されたぐらいで、それが何だ」と会議で発言したという。. u- ^2 k3 k$ z
4 S2 ?$ T' ^: t& T P) h 全国のメディアに配信される新華社の記事の影響は大きかった。後に学生側と対決する袁木(えんぼく)国務院スポークスマンや曾建徽(そけんき)党中央宣伝部副部長は新華社出身で、同社への影響力を持っていたが、李鵬首相が指示したとされるこの論文が出た経緯は今も不明だ。; i0 C5 v6 a. x, e
+ H! l7 T% o! _3 A3 W この論文が重要なのは、学生たちの要求が「報道の自由」に向かう結果を招いたからだけではない。学生たちの怒りを買い、デモを拡大、党中央の分裂に発展する起点になった4月26日の人民日報社説の基調がここに出ていたからだ。 ) `! B3 X1 Y( T7 E$ ~7 @3 u . {: Z- N. f# _( t5 B% } 天安門事件後の当局側の演説や文書からは、学生デモが始まるや、政権転覆を狙う「一部の下心のある者」への警戒心を強くもっていたことが分かる。その根拠は、背筋が寒くなるほど綿密な公安機関による監視活動の成果だった。 \2 _ k& T% e/ `( B9 i. ^ ' D$ A8 m, U2 s1 J8 l2 j 保守派の李鵬首相らは、学生運動が改革派の趙紫陽総書記の復権要求につながる可能性を察知し、運動つぶしに躍起になっていた。それに対し趙紫陽氏は不可解なほど事態を楽観し、無防備だった。(伊藤正)7 @" I5 _8 M" }' o, r4 ?5 z+ A
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■新華門 中国政治の心臓部である中南海の正門で、メーンストリートの長安街に面している。天安門からは約500メートル西に位置。門正面には「為人民服務」(人民に服務せよ)との毛沢東が書いた看板が掲げられている。 8 a/ O: Q, N- f' v7 ?0 q - S! J7 Z4 H- S6 p2 r, z; _(2007/02/26 07:41): M6 b/ Z& L6 Y( z; H6 B5 v1 x
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4 b2 a) S1 k* R3 y! L. `. P1989年5月9日、北京市内で「新聞(報道)界の良心を声援する」との横断幕を広げる学生たち
3 Y+ I+ Z( Z/ [& J 「時間がない」はずの趙紫陽氏は翌23日午後の北朝鮮への出発前に、北京郊外のゴルフ場に行く。趙氏のゴルフ狂いは有名で、日曜ゴルフが習慣化、春節には、深センなどのゴルフ場に足をのばした。 2 }! R O* U% u0 @ o , m' ^8 ^# d3 f% ^7 O 4中総会での李鵬首相の断罪報告に対し、趙紫陽氏はこう釈明した。! F7 d, T' V# |: w d
' C1 Z* b! k. s/ @ 「憲法を擁護、民主推進、腐敗反対などの学生たちの要求は党と政府の主張と基本的に一致していた。学生たちの改革と反腐敗への熱情は貴重であり、社会各界の支持は非常に大きかった。騒動を鎮めるにはその声にこたえる必要があると考えたのだ」 1 I+ s2 f/ G0 P9 [' G* c% Q$ S! H$ x$ v" E4 g
学生デモを「ブルジョア自由化」分子による社会主義政権転覆の陰謀ととらえるのか、それとも改革・開放が生んだ社会矛盾への異議申し立てととらえるのか。趙氏は後者の観点に立っていたが、それは87年1月に解任された胡耀邦氏と同じ立場だった。# U1 P4 S; a1 ^) X) \
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数々の権力闘争の修羅場をくぐり、トウ小平氏ら長老たちの保守思想を知り抜いていたはずの趙紫陽氏が、なぜ危険な選択をしたのか。趙氏は2000年5月に行った楊継縄新華社記者との最後(3度目)インタビューで、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」による)。. ]4 Z8 W5 f0 \- Z) |9 X4 ~, V
) L6 u; m+ e6 U, m3 x" y/ S 「(4月)18日夜、学生が中南海の新華門に押しかけたときの公安省撮影のビデオでは、前面にいた数百人の学生たちは規律を守れ、過ちは犯すなと叫んでいた。(胡耀邦氏の)追悼会のあった22日、数万人の学生が天安門広場に集まったが、全体的に秩序は守られ、何事も起こらないと思った」7 a# O @6 Z# Y3 Y! Y
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李鵬首相ら保守派とは対照的な状況認識だが、その底に、学生運動の矛先が保守派に向けられ、自分には有利との判断もあったに違いない。88年秋以降、失っていた実権を挽回(ばんかい)するチャンスであり、訪朝中に事態が収まればそれでよし、収まらなければ自分の出番だ、と。 7 {$ _# R) S: x ?# i6 w9 o5 F m' o" I8 o$ H" N. v
趙紫陽氏の誤算は、趙氏が平壌に出発して間もなく、李鵬首相らが会議を開き、学生運動を封じ込める強硬方針に出たことだ。それを支持したのが最高実力者、トウ小平氏だった。(伊藤正)0 u8 z- e. o, d
. I5 b- E* g. k; U( z ■4中総会 1989年6月23、24の両日、北京で開催。天安門事件後初の中央委員会総会で、李鵬首相の報告を承認した後、(1)趙紫陽総書記を解任し、江沢民上海市党委員会書記を後任に選出(2)胡啓立政治局常務委員、●杏文、閻明復両書記を解任、江沢民、宋平、李瑞環政治局員を政治局常務委員に補選-した。総会での趙紫陽氏の発言は未公表(その後外部に流出)。; r5 ~% o# p& g/ i
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(2007/02/28 ) $ o2 |( S& g, Z) O 4 z1 a; K w5 C# W $ I0 Q* m0 I" Z. \6 ~! r& R: y H$ \7 T
& o. T% ?5 [! c* o0 ?2 [- d天安門事件3カ月前の1989年3月16日、北京市郊外でタイのチャチャイ首相(左=当時)とゴルフを楽しむ趙紫陽氏
3 k f7 i& o) t8 h. a4 F これについて趙氏は「内部講話であり公表されるとは思わなかった」と楊記者に述べている。不可解な説明である。常務委決定もトウ氏の講話も社説を出すと明言していたからだ。8 \6 a& ?8 q7 D2 J' D$ L, _
$ n% G0 W' X7 d" O* S 油断したのか、権謀だったのか。いずれにせよ翌4月26日、人民日報に問題の社説が出る。(伊藤正) ; K U8 G' c* ]& |+ L* ^- a, c9 [5 Z3 c" N. w) J
◇ , h" ]2 V' U. G; q S& S2 A1 [3 b9 ^1 M d# D' [* \& B8 E1 }$ H" f
【4つの現代化】" B) b, s4 K6 s$ a7 Z
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工業、農業、国防、科学技術の近代化のこと。周恩来首相が1964年の全人代報告で提起、75年にも再提起したが、極左派の妨害で頓挫した。文革後の77年の第11回党大会で最重要課題として復活。トウ小平氏は79年、21世紀中葉に中進国レベルにする3段階発展構想を打ち出し、82年に改正した憲法に明記された。作者: 日月光 时间: 2007-3-2 10:08
邓秘录:人民日报社论反使学运全面化 1 i1 G& |2 b6 T5 \, U n" s w& @7 x 7 {+ \/ w' K) o% b(中央社记者张芳明东京二日专电)日本产经新闻连载的“邓小平秘录”今天报导,人民日报于一九八九年四月二十六日发表谴责中国大陆学生示威运动的社论不仅未达到威吓目的,反而促使一度呈现分裂情况的各大学学运迈向全面化,加上,上海“世界经济导报”受到中共当局镇压,知识份子也展开行动。 / r6 A+ f$ d) C& d5 z+ v: P* [( q# o
“秘录”指出,四月二十六日,人民日报刊登标题“反对旗帜鲜明的动乱”的社论,断定学运是有计划的阴谋动乱,是少数别有居心者利用学生反对党的指导和社会主义制度,表示坚决反对。这篇社论完全是邓小平二十五日谈话的内容,未反映三天前赵紫阳的“三项意见”。赵紫阳后来接受新华社记者访问时指责李鹏歪曲事实欺骗邓小平,诱使后者发表镇压学运发言。- ]/ _) O8 v( h! O- a' b
邓小平曾于一九八六年十二月的学生运动对胡耀邦等发表内容主调相同的发言,次年一月六日,人民日报发表“反对旗帜鲜明的无产阶级自由化”后,学生示威运动趋于平静。但是,一九八九年的学运情势相反,社论一出来,反而重新点燃由于内部意见对立而一度失去目标的学运,并得到社会的广泛支持。& X0 }' V& G. y8 I0 F# t) s3 e$ _0 v
5 d* k: ?; n& R$ F6 S" U$ m人民日报刊登问题社论前夕的二十五日晚上,中国中央电视台先行播放内容后,王丹在北京大学召开“民主沙龙”讨论对策,各大学的学运迈向全面化是在社论发表当天的二十六日,学运人士呼吁二十七日一起前往天安门进行示威,北京市内有数万人在市内示威游行至傍晚,市民沿道欢呼,送给学生饮料乃至于捐出现金。# H; V) r* @8 d9 ~; Z
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就在那个时候,知识份子也展开行动,背景原因是上海最进步的报纸“世界经济导报”遭到镇压。. ?; B# O/ _* _
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【トウ小平秘録】(17)第1部 天安門事件 4・26社説7 l, _6 z8 D5 B$ I
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■反応は86年の逆だった! J; i# T+ A) ]8 a
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「旗幟(きし)鮮明に動乱に反対せよ」1 y/ N( o! B$ C! @0 I+ k! I% p' B
3 z, N9 q p1 W$ g* a! B% p3 C 1989年4月26日付の中国共産党機関紙「人民日報」は1面トップにこう題した社説を掲げた。異例の朱色印刷された見出しに、文化大革命の否定表現である「動乱」が使われたことが人びとを驚かせた。2 L) L4 _( ^* p R+ @7 f
6 p* c) n7 q/ I, i2 Z; c 社説は4月22日の胡耀邦(こようほう)氏追悼大会後、「下心を持つごく少数の者」が学生たちを利用し党と国家の指導者を中傷、党の指導と社会主義制度反対を扇動しているとし、「これは計画的な陰謀であり、動乱だ」と断定。「旗幟鮮明に動乱に反対し、断固として闘わねばならない」と呼びかけていた。$ {9 C. s9 D/ X3 y
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人民日報の陸超★(りくちょうき)副総編集長(肩書は当時、以下同)は2006年に香港で刊行した「六四内部日記」で、社説が出た経緯を明らかにしている。3 A z+ P! ^8 T4 g5 q& X4 _
/ V1 ?2 n1 _# B) u& ]: V 「4月25日午後2時、編集幹部会議が招集され、老銭(銭李仁社長)が『昨夜12時に胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員)から、社説担当の副総編集長を伴い25日朝、中南海の会合に出るよう電話があった。そこで啓立が24日夜の(政治局)常務委員会会議の精神を説明し、明日、社説を出せと指示した』と伝えた」 ) C, i# v0 b! `5 V& W% T6 W2 J k" o B% o8 Z+ ]
その際、銭社長は、「常務委の精神」には「秩序を回復、騒ぎを警戒するが、流血は避ける」との趙紫陽(ちょうしよう)総書記の「3項目意見」も含まれるとも説明した。この時点ではトウ小平(しょうへい)氏が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と李鵬(りほう)首相に行った、学生運動を断固制圧せよとの講話は伝わっていなかった。 & c; V0 _5 q( v i2 u4 B9 r2 d+ o8 p, X4 b- _
陸氏によると、午後3時半からの社内会議終了後、社説担当副総編集長が社説原稿を持ってきたという。社説の筆者は同社の論説委員ではなく「李鵬が曾建徽(そうけんき)(党宣伝部副部長)と袁木(えんぼく)(国務院スポークスマン)に書かせた」ものだった。 + \/ b' g6 g) S7 ?" r+ ? p/ X5 f4 ~# f x7 M9 D* ~* i% `0 A
社説は、「動乱阻止」を指示したトウ小平講話をベースにし、趙紫陽氏の「3項目意見」は全く反映していなかった。趙氏は後に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者とのインタビューで、李鵬首相が「事実を歪曲(わいきょく)した情報」でトウ氏をだまし、講話を引き出したとの見方を示している(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。3 M. S% [2 t' d
3 k* B9 M! B$ M9 u+ t* g8 b 93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)には、このときの講話は収められなかった。関係筋によると、トウ氏の判断だったとされ、天安門事件後しばらくして講話をまずかったと思った可能性がある。- ]0 U! @' x' S
: E9 }7 n7 B; ^, a3 X' w トウ小平氏の講話は、86年12月の学生デモに対し、同月30日に胡耀邦氏らに行った講話と基調は変わらない。このときは、翌1月6日付の人民日報社説「旗幟鮮明にブルジョア自由化に反対しよう」が出た後、デモは沈静化した。1 D; m( K8 G' ?- Z b% P6 n0 F
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しかし89年の今回はそれとは逆になった。4・26社説によって、学生デモは沈静化するどころか、胡氏の追悼大会後、目標を失って消えかかっていた学生運動が息を吹き返し、社会の広範な支持を受けるようになったのだ。4 I$ z/ j. _. ~0 |% \
, y$ r1 p$ G& u j 北京市当局の規制が強化されたこともあって、当初は学生たちの街頭デモは少なくとも市中心部では行われず、活動は学内が中心になった。特に4月20日の中南海新華門での警察側との衝突事件後、家族からの圧力を受けた一般学生たちは、追悼大会後デモに消極的になっていたし、積極分子の間でも分裂が起こっていた。7 [0 `! \" `; C! b8 K; P& D" g1 E
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当時の学生運動参加者が04年に刊行した「『六四』参加者回憶録」(明鏡出版社)で、北京電影学院学生だった馬少方氏は、4月23日の「北京市学生臨時準備委員会」を結成した会合の模様を証言している。 ' G. B4 `% z8 ?# f5 h/ f6 G, [' l6 d$ q1 ?% z! S
この会合は北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記らが「動乱の陰謀」とし、党中央を強硬策に導く口実になったが、馬氏によると、平和的な請願活動などを確認しただけで、具体的な行動は何も決まらなかった。「われわれには運動の経験があまりにもなかった」ことも要因だった。 6 W* Z' e, R% |( v6 A+ Y9 D6 p% X+ ?7 ?4 E
新華門事件をリードした北京大の郭海峰(かくかいほう)氏が同大指導部から外されるなど、各大学で追悼大会後の運動継続をめぐって混迷が始まってもいた。6 V9 b" s) o9 R2 a9 Y
0 q8 f! s t% W それが変わるのは、4・26社説が25日夜の中央テレビで放送された後だった。北京大では王丹氏が「民主サロン」を開き、対応策を話し合う。/ P3 [) L" { m& D- m
0 A1 \! m. u9 l. m5 q! o/ }/ A- Y 《重要な人民日報社説は、前日に新華社が全国に流し、中央テレビが報道する。4・26社説は全国の主要新聞が人民日報と同時に掲載した》* a3 F; k& o S$ _$ H1 D
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各大学の動きが本格化したのは社説が出た26日で、27日の天安門広場へのデモ呼びかけが一斉に始まった。そして27日、北京市内は数万のデモが夕方まで続く。沿道の市民たちは歓声を上げ、学生たちに飲み物を差し入れ、現金をカンパする人もいた。0 o% h! {, Z/ S; w/ }1 n( E9 n& y f8 d
/ |# q, C& j& e# B4 J5 m就在邓小平对如何处理民运表现出犹豫之际,北大的王丹和北京师范大学的吾尔开希等激烈派学生领袖开始焦躁,主要是由于五月四日以后学运内部出现分裂而失去方向性。他们为了夺回学运主导权采取激烈的战术,进行造成情势一变的绝食行动。 ; {$ r$ N2 r1 J4 x$ U# } R, W( b( v( ~
【トウ小平秘録】(21)第1部 天安門事件 内部分裂 " {( A0 S$ p" ^3 S+ n' k( V/ t7 \1 Z& r( u+ G
. - Z) L7 b/ t& R2 G0 b j , D. K7 L% J. I, s 中国共産党の前総書記、胡耀邦(こようほう)氏(1989年4月15日死去、肩書は当時、以下同)の追悼がきっかけとなった北京の学生たちによる民主化要求の運動は大きなうねりとなり、事態は予断を許さなかった。 5 |( N6 Q* @, J8 i2 ~- Z6 ^9 K ) c- k. }- e! u$ E: k& q2 h( X( m 89年5月4日のアジア開銀(ADB)理事総会後、主導権を握った趙紫陽(ちょうしよう)総書記は、社会の腐敗批判や民主的権利拡大などの要求にこたえ、対話を通じて事態を収拾しようとした。 7 z# }1 ?# R0 g9 ~; w! v5 R1 Q) D1 q1 P$ [. C6 ~
5月8日の政治局常務委員会に続き、10日に政治局会議を招集、(1)労働者、報道界、学生との対話を促進(2)全国人民代表大会(全人代)常務委員会を早期開催し、改革案を討議(3)腐敗問題と民主政治建設問題は政治局で具体策を検討-などの方針を決定する。 & t6 j K$ Z% L5 m2 i$ `5 s. t2 @) h0 y3 O( ^* w* } x/ c
これを受けて、改革派の万里(ばんり)全人代常務委員長は同日、6月20日前後に次期常務委を開くことを決めた。議題には、集会・デモ法草案や新聞法起草状況の聴取も含まれていた(万氏はこの2日後の5月12日、カナダ・米国訪問に出発する)。( I, c k7 r$ u" B' Q p* T
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柔軟路線に抵抗がなかったわけではなかった。陳希同(ちんきどう)北京市長は6月4日の天安門事件後の30日に行った全人代常務委への報告でこう述べている。 / @0 e4 o% I1 f9 N4 g, I9 B 3 J- S4 ]6 H+ a! g 「北京市側の強い要求で開かれた(5月)8日の政治局常務委で、趙紫陽の5・4講話は4月26日の人民日報社説の精神と一致しないと指摘する者がいたが、趙は『間違っていたら自分が責任をとる』と述べた」; ] J4 c1 D8 J9 U5 |0 F
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張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、その指摘をしたのは陳市長自身で、「大学の同志(当局)の中には、総書記の講話は、学生運動を動乱と言わず、4・26社説と一致しないとして戸惑いがある。どちらが正しいのか、と」と主張した。 # h% Z' |' U$ L V, H) @; d 4 Q7 I. e+ T# O% n& ]) c& X 党中央の柔軟路線への転換は、社会各界に複雑な反応を起こした。多くの大学で学生は教室に戻り、5月8日の時点で、一部学生が授業放棄を続けていたのは北京大などごく少数だった。中国政法大など穏健派の学生側は、対話代表団を組織し、政府との対話に戦術の重点を移す。; r0 r& p: E h& {3 d7 n
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最も敏感に反応したのは報道界と知識人たちだった。4月下旬の世界経済導報弾圧事件を機に始まった知識人らの「表現の自由」要求は、5月4日以降勢いを増す。" r' S/ b2 j& o8 B T) X1 u: F! s
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9日には「中国青年報」の李大同(りだいどう)記者らジャーナリスト1000人余が政府に対話を要求する書簡を発表、10日には100人余の文学者が自転車デモをした。新聞の報道、論評にも大きな変化が表れ、趙路線への支持色が強まった。 ! w" [- _2 B0 s# m) F0 X% n4 ?# I7 b( T
人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、5月8日、銭李仁社長が、「胡啓立(こけいりつ)(政治局常務委員、宣伝・報道担当)から、趙紫陽講話の精神を実行し、どんな要求も提出してよいと電話があった」と明かしたという。趙氏が6日胡啓立氏らに「報道を少し緩和してよい」と指示したことが背景にあった。0 X1 }6 Q0 H0 k; @
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しかし、陸氏は銭社長や譚文瑞(たんぶんずい)総編集長と、胡績偉(こせきい)元人民日報社長の民主化要求発言を掲載するなどしていた中国青年報のような積極報道は控えることで合意する。「趙講話反対の口実を与え、トウ小平(しょうへい)と趙紫陽の矛盾を挑発、激化させる」と懸念したためだ。 4 R' W; `0 F) m* R; T8 e0 I" h3 i" j0 b; h
陸氏は何東昌(かとうしょう)国家教育委副主任ら保守派が「趙講話は党を代表せず」と触れ回るなど巻き返しの動きに出たことに注目、「状況は微妙だ」と書いている。 % C$ h, ^% A5 k$ s: {9 G- R/ B% H+ l/ ]( Q% ?
そうした中で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席は5月11日、トウ小平氏に会う。楊氏は「王震(おうしん)同志(国家副主席)は趙紫陽講話に反発しているが、講話がデモの沈静化に役立ったのは確かだ」という。 4 ]* K% r' b0 S+ k% C+ L8 c - Q' H- s) @8 H9 h) O それに対しトウ氏は李先念(り・せんねん)政治協商会議主席や陳雲(ちんうん)中央顧問委主任ら長老から、趙講話に注意を促す電話があったことを明かした上で、こう話す。2 Y! E+ E# t' l# n( p
5 ^+ z1 o' f8 P$ q3 u, u 「数日前から考え続けているんだが、結局、(柔軟策と強硬策の)どちらのやり方が問題の解決に有利なのか」 4 a" a3 ?* D2 [7 j0 F5 Y( F i8 q9 Q8 a) x4 z- M/ Q, {4 [9 _4 T
そこで楊氏は、人民日報社説の修正を打診する。「趙紫陽は社説のトーンを少し和らげるよう望んでいる」 9 `2 q# ^" o1 c& \! `. x9 j l( y 9 m/ h# Y% ~2 b6 _) A2 b( ?; ?1 r トウ氏は「ほかの常務委員の意見はどうなんだ」と言っただけで、反発しなかった。トウ氏の頭を占めていたのは、4日後に迫ったゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の訪中だった。歴史的な中ソ和解をデモの中でやるわけにいかないとの点で、両氏は一致する。- h/ Z7 T" h# Z0 t! `( O
' {1 l* n. j( M* i' T1 i, o) F トウ氏はこの時点では、趙氏に秩序回復の期待を抱いていた。楊氏に「一度、3人で話し合おう」と話したのはその表れだった。# j$ P9 q, `( _
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《以上のトウ・楊会談は「真相」による。「トウ小平年譜」には会談した事実も載っていない》 & c+ F$ v1 f+ I( p2 d2 M0 S0 T * o E6 ` j7 @0 j2 Y. }" C9 d トウ小平氏が迷いを見せる一方で、北京大の王丹、北京師範大のウアルカイシ氏ら過激派学生リーダーは焦り始めていた。デモは4・26社説で勢いを取り戻したものの、5月4日以降は方向性を失い、運動内部に分裂が起こるなど迷走していた。" j8 U$ V+ A9 {6 R' A
/ w! w0 l, @2 O$ W% P1 j 彼らは運動の主導権を奪い返す過激な戦術に出る。情勢を一変させた絶食行動だった。(伊藤正) ' S% G: u" z6 E* Q G. O # f- O, \. T" S◇/ v8 m$ C$ r7 _6 m Q
) _$ w; u# w5 l5 y. u, E3 x
【用語解説】中国青年報* |: V5 A) h% |: I. w+ F5 B- l7 J
9 N' J2 |" J9 R; y8 H 共産党傘下の中国共産主義青年団機関紙。1951年創刊。文革中は停刊、78年の復刊後、青年・社会問題報道で200万部の人気紙になったが、現在は40万部以下。昨年1月、掲載した歴史論文を理由に付属紙の「氷点週刊」が一時停刊処分に。その時に「氷点」編集長を解任された李大同氏は、89年当時は青年報編集部に属し、報道改革要求運動で活躍、後に配置転換処分を受けた。 , i* {$ ^4 F% F/ f5 ?9 w }# Y+ M, O8 g3 b* {5 ~6 i
(2007/03/06 )1 ]- I9 t5 S1 U
邓小平秘录:学生绝食战术给保守派动武藉口4 g0 s1 v5 Q) q# T- P8 |( @2 q
中央社, m) D) M: Q- a' \* ?% ~( l ~/ t% X
! f+ i9 H$ o/ P! e" ~7 V; J
日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年五月十三日民运学生在天安门广场开始绝食行动造成党总书记赵紫阳的柔软路线出现破绽,也带给保守派武力镇压的藉口,与天安门事件有关的学生领袖和知识份子后来都为当时的作法表示后悔之念。 9 {: H. x- b- {* G& r& g . @4 N2 E5 l6 N$ L4 ~) R7 o 「秘录」引述「六四参加者回忆录」一书指出,民运学生是于十二日晚上在北京大学「三角地」广场决定采取绝食战术。学生对话代表团领袖江棋生前往会场拟阻止绝食战术,但是北京师范大学学生柴玲向数千名听众哭诉,造成绝食自愿者接二连三出现。3 N0 Q1 D! o6 @. V/ P
8 C" I& `( s3 E' u. s& C. m+ A 「回忆录」指出,绝食战术是于十一日在一项午餐中由北大学生王文首先提出,当时王丹、吴尔开希等都表示反对,但是下午在王文强逼下,八人被迫在绝食提案书签名。北京市大学生自治联合会(「高自联」)中心成员的中国社科会研究生王超华等反对这种作法,和柴玲之间起了激烈的辩论。4 [6 P% A3 P$ M- S$ e
; j2 ^( M2 V6 Y& d: Y4 H 宿舎の釣魚台迎賓館に着くなり、ゴルバチョフ氏はソ連大使に「中国にも改革の波が起こったようだな。すばらしい」と話した。書記長はリムジンの窓越しに「われらに自由と民主を」「ペレストロイカ万歳」など、訪中を歓迎するスローガンを多数目にしていた。! J2 B" K! \( Q, n' K
9 d' t$ B, P' k$ y; Y9 n ゴルバチョフ書記長は16日午前にトウ小平(しょうへい)氏、午後に趙紫陽(ちょうしよう)総書記と会談する。趙氏はそこで、トウ氏が最高指導者であり、午前の会談をもって中ソ関係は正常化されたと話し、その理由をこう説明した。 . U5 O, c Y( ?- F: j2 H ^, u5 Z# r/ }. W0 e5 w; U; K1 F
「87年10月の第13回党大会で、トウ小平同志は中央委員会から退いたが、(大会後の)中央委員会総会(1中総会)で『最重要問題についてはトウ小平同志のかじ取りが必要だ』と決定した。以来、われわれは重要問題の処理に当たってはトウ同志に報告し、教えを求めている。この重要決定はあなたに初めて話した」 - I, f) _3 o `' u: N, K5 I# n4 l ( f4 `5 z. C% C7 |2 W4 z. E 重大な発言だった。「秘密決議を漏らして闘争の矛先をトウ小平同志に向けさせ、情勢を一層悪化させた」(天安門事件後の李鵬(りほう)首相や陳希同(ちんきどう)北京市長の報告)として、趙氏の罪状になった。' H+ f' a. m4 c2 g2 ?
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趙紫陽氏秘書の鮑●(ほうとう)氏(中央委員)によると、趙氏は1中総会の開幕の辞で、この決議を読み上げ、満場一致で採択された。その2日前、趙氏から「引退するトウ氏に敬意と感謝を表したい」と頼まれ原稿を起草したという(同氏著「中国的憂思」香港・太平洋世紀出版、00年)。, d, U& x2 a3 Z& r- Q
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鮑氏は「李鵬は(学生デモを反党的と断じた人民日報4・26社説の)『動乱』規定はトウ小平講話に基づくと言いふらし、とっくにトウを前面に出していた」と趙氏を弁護したが、タイミングがいかにも悪かった。2 O/ _: O7 { F/ \8 Y, _
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新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は「この談話(趙紫陽氏のゴルバチョフ氏への説明)を聞いたとき、多くの人は、趙紫陽には局面悪化の全責任をトウ小平にかぶせる意図が潜んでいると考えた。これでトウと趙の関係は決裂した」と書く(「中国改革年代的政治闘争」)。& H0 S5 k3 U+ |7 d7 j6 R! D. c
. S7 v+ s- _+ |4 \" c5 i5 m その報道の後、学生が「垂簾(すいれん)政治反対」「老人は引退せよ」などとトウ氏攻撃を始めたからだ。8 k C9 \; O" r- Y
- c x) X8 n5 F; U 趙氏とゴルバチョフ氏の会談が終わった後の16日夕、天安門広場では、閻明復(えんめいふく)党中央統一戦線工作部長が絶食中止を必死で訴えた。約2000人になった絶食学生からは病人が続出していた。 1 B; Q) j3 S! @, m2 J3 j3 k" R" e- \ C- P+ E' Z: y( p
北京大の王丹(おうたん)、北京師範大のウアルカイシ両氏は動揺し、絶食中止を提案したが、拒否される。世間の同情と支持、メディアの注視が集まる中で、絶食学生らは高揚し、運動は統制力を失っていた。4 d) A8 U, N! e$ W% S
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この日のデモも50万人規模になり、労働者や文化人、ジャーナリストなど、参加者の広がりが目立った。大学の大半は再び授業放棄に入った。 . |, z( t) B) [2 _% ]& F ( L0 l. ]6 w5 N2 F5 b4 b% A% n 既に趙紫陽氏主導の柔軟路線の行き詰まりは明白だった。16日夜の政治局常務委員会では、強硬派の李鵬首相、姚依林(よういりん)副首相と趙氏が激論になる。趙氏はなお人民日報4・26社説の修正が事態解決のカギと主張する。) P; q. u N f5 d
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しかし、それまで趙氏を支持していた喬石(きょうせき)、胡啓立(こけいりつ)両常務委員は疑問を示した。常務委にオブザーバー出席していた、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と薄一波(はくいっは)中央顧問委副主任も柔軟路線に反対した。 4 `3 n W3 K+ M$ e- c; ]+ j% ~, ?1 | 8 J- f0 ~) h' ~ 学生運動同様、趙紫陽氏も退路を失いつつあった。形勢逆転には絶食の即時中止しかない。趙氏が17日未明、党中央を代表して発した書面談話には悲痛な響きがある。- a( W- p" K' N+ h( c" l
! j7 X7 }8 [3 {. e+ W 「学生諸君、君たちの要求する民主と法制、反腐敗、改革推進の愛国の熱情は尊い。党と政府は決して報復しないと約束する。諸君が絶食を中止し、学校に戻った後、党中央と政府は君たちとの対話をさらに進める。再度お願いする。絶食をやめてくれたまえ」 }) y( p7 f2 l+ H) P# K# f) b# A. S" E
陸超★(りくちょうき)氏の「六四内部日記」によると、この談話は16日夕、中ソ会談の写真を持ってきた楊尚昆主席の長男でカメラマンの楊紹明(ようしょうめい)氏に人民日報の銭李仁社長が会い、趙氏の談話を同紙に出すよう楊主席への説得を頼んだのが発端だった。党中央は17日未明に新華社を通じ全国に流したが、学生運動の「動乱」規定の否定を否定しておらず、「効果には疑問があった」(陸氏)。 9 ]0 v1 C3 w$ w" v; L: I( u+ b' s
趙氏は17日朝、トウ小平氏に面会を求める書信を送る。トウ氏に4・26社説の修正を受け入れてもらうためだ。趙氏は面談に最後の望みをかけた。7 B9 M& ?0 H# [. U5 o! |
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「トウ小平年譜」は「17日午後、住居で政治局拡大会議」と記している。その通り、トウ氏宅には李鵬、姚依林、胡啓立、喬石の常務委員と楊尚昆氏も集まっていた。; i- g1 ?5 x% G
6 U9 O! i& y5 Y& ^ 「私が面談を要求したのに、トウ小平は彼らにも通知し呼んでいた。私の意見は聴く気がない表れだった」と趙氏は92年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」開放出版社、07年)。% r2 P7 u! o: T1 o
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トウ小平氏は既に重大な決心をしていた。 & w( O0 O" e. a0 {- c% G \, W4 y4 n/ Y7 {9 w
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◇9 s) y( _# c) ^* ~1 v$ |7 r
) k( z" f" k4 R9 S8 v: F% L トウ氏宅では戒厳令を支持した胡啓立(こけいりつ)氏は「よく考えた結果、反対する」と翻意、喬石(きょうせき)氏は「支持、不支持のいずれも表明できない」と態度を保留した。5 O6 |" y4 N* l* O
7 g( S1 x! q( C5 } オブザーバー参加の薄一波(はくいっぱ)中央顧問委副主任が「表決」を提案、その結果は李、姚両氏が賛成、趙、胡両氏が反対、喬氏は棄権だった。7 a" d$ i- F1 P; f( M9 v
& W6 `+ k9 V# _, m 賛否同数ならトウ氏に決定権がある。いずれにせよトウ氏が決断した以上、決定を覆すことはできなかったろう。( S4 M! O5 ?* d* e |8 L1 D
' h" w, O& L z: t3 W 趙氏は突然、辞任を申し出る。「学生運動の性格付けでトウ小平同志やみんなと意見が一致せず、これ以上総書記を続けることはできない」# S* y B+ z; z. t7 ]" h
8 |$ V- a0 m4 R. _. q% @) |
薄氏と楊尚昆氏が慰留するが、趙氏は「体調が悪い。心臓に血液が回らないんです」と言う。 / e U# D$ F/ `6 P+ z4 O3 Y h/ u# N2 w1 z0 [
趙紫陽氏は18日早朝、李首相らとともに、衰弱して市内の病院に入院中の絶食学生を見舞った後、帰宅。そして家族会議で支持を得てから辞表を書く。しかし楊尚昆氏はなお慰留し、辞表受け取りを拒否した。 . X8 c2 d2 X1 V: l. C ( q Y- P$ f @4 M3 Y2 z 趙紫陽氏は91年7月、旧友の宗鳳鳴(しゅうほうめい)氏に、当時の心境を話している(宗氏著「趙紫陽軟禁中的談話」)。3 I" }6 U& k0 H1 x9 B) @2 T
1 ~9 b9 o9 c. Z% {$ k7 K7 r3 G 「胡耀邦(こようほう)(前総書記)は意に反して辞任したが、私の辞任は完全に自分で選択したことだ。歴史にツケ(汚名)を残したくなかったからだ」* m( E' y% Z* ]9 N
* l/ ^( v3 R$ P% G. r0 J
戒厳令で武力行使は必至と趙氏はみていたのである。2 H1 M* H- O9 t+ _: A J6 H
, C N5 t' m/ s& [ 趙氏を支持するコンピューター会社「四通集団」傘下の四通社会発展研究所の曹思源(そうしげん)所長が、緊急会議招集を胡績偉氏に働きかけ、自ら各常務委員の署名集めに奔走したのはその一例だ。1 i4 e a; C+ U0 G* P
! s m! T4 ^" x- S T また張良編著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、趙紫陽氏は5月21日、秘書の鮑●(ほうとう)氏を通じ、万里氏に早期帰国を要請したという。万氏は趙氏の長年にわたる改革の同志であり、外遊前には趙氏の柔軟路線を支持していた。$ P9 i" `8 P4 j% j: l, w9 n( }
9 b5 S6 Q. W: j 万里氏への期待は社会各層に広がり、学生たちも同様だった。学生たちは25日に万氏の帰国を歓迎する大デモを計画さえしていた。 3 g) n2 k' T& u/ A; L0 r, y! J" s6 ]& ]
しかし期待は裏切られる。万里氏は5月25日未明、日程を繰り上げ帰国したものの、帰着先は北京ではなく、上海だった。「病気療養のため」との新華社電を信じる人はいなかった。2日後、万氏は、党中央の決定への支持表明をする。 $ B5 ~9 n6 r& R1 m$ x" I9 } d& F + L, n4 l6 @4 O( l 「真相」によると、トウ小平氏の指示で、党中央は22日、トロント滞在中の万里氏に「米大統領との会談(23日)終了後、速やかに帰国し、しばらく上海で休養するよう(との指示を)決定した」と至急電を打っていた。同時に、上海の江沢民(こうたくみん)書記を23日、北京に呼び、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が江氏に対し、万氏への説得工作をするよう指示したという。 9 g6 m/ r" ?# a" I3 x: d3 ?, s 2 B1 ~4 J& t7 R 《万氏はこの件を含め、天安門事件に関しては沈黙を守っている。趙紫陽氏は97年7月、友人の宗鳳鳴(そうほうめい)氏に万氏への怒りを表し、事件への態度を明確にすべきだと述べている(「趙紫陽軟禁中的談話」)》& c. S: L; {) \7 n! Z
1 j: X, N: R4 I& A* S- F 万里氏の帰国問題は、トウ小平氏ら長老のリードの下、李鵬氏ら強硬派が事態をコントロールしつつある表れだった。各分野で締め付けを強化、天安門広場の「清場」(学生一掃)への準備が進む。" f" h$ a2 b( r8 h3 V+ E
Y* a) s( i# [8 K' O0 R7 j9 b2 @0 O7 I
人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、新成立の「宣伝協調小組」(組長は王忍之(おうにんし)中央宣伝部長)が5月23日、各メディアに対し、すべての報道は「(戒厳令を予告した)5月19日の李鵬、楊尚昆講話と一致しなければならない」と通達した。 1 U) k2 D! g1 e9 r# T* X9 D, Y ' ^" H6 ?( E. F6 `9 K6 R. c その23日、北京では戒厳令後最大の数十万人デモが行われた後、各官庁、職場にデモ禁止令が通達された。24日以降デモ参加者は激減する。 : t$ t ^# q8 K2 @) o3 o; L . G$ y, x4 ?. e9 q! @7 m/ M0 q3 z8 s 楊尚昆氏は24日、全軍拡大政治工作会議を開いて、戒厳令に至る経緯を説明、動乱を制止し秩序を回復しなければならないと思想工作の徹底を図る。 1 I* i+ _9 |: y2 W: W- ] b- M7 [/ m( r' k2 G: e% ] p! v/ j5 W+ d
長老らの動きも顕在化した。陳雲(ちんうん)中央顧問委主任は、23、24両日、李先念(りせんねん)政治協商会議主席、彭真(ほうしん)・前全人代常務委員長、王震(おうしん)国家副主席、薄一波(はくいっぱ)顧問委副主任氏ら長老のほか軍長老と会談、薄氏にこう話す(「陳雲伝」「陳雲年譜」)。, X# |; g, ~3 w- r# @
0 K1 E' f; C% a% h1 _2 x0 T
「この局面で、引く余地はない。(デモを動乱とした)人民日報社説は、もう少しブルジョア自由化反対を言うべきだった。今やわれわれ老同志が発言しなきゃいかん」0 J5 a- O+ z/ ]+ l. i" h
7 E1 ^7 ] I( x; [9 O' C 陳雲氏は26日、顧問委員会常務委会議、李先念氏は27日、政協会議主席団会議をそれぞれ招集して演説、彭真氏も26日、全人代副委員長7人と座談会を開き、戒厳令支持で意思統一を図った。 ! ^7 _/ r+ K# P, J1 t( Q( Q2 e; ~4 E9 L* q' K J
知識人たちは、武力行使が近いと予感し、学生たちに広場撤収を説得し続けた。 * t+ r8 t2 j1 F; W ]% i, k5 Y W( [* T9 H いったんは撤収方針が決まるのだが…。(伊藤正)$ x8 [/ c1 P; | V1 [9 H
7 r( H, i& S. z+ P8 Z D& G: H( P ■全人代常務委員会 国家の最高権力機関とされる全国人民代表大会(全人代、国会に相当)の常設機関。委員長、副委員長、秘書長、委員で構成され任期は5年。年1回開催する全人代の閉会中、憲法の解釈・実施、法律の制定・改正、経済計画案や予算案の修正、戒厳の決定などを行う。. ?3 ]& o( m% @, ?- s
2 k' i3 w+ A0 M; D. ~4 r+ i4 ^* M
●=彫の周が丹& q5 ~% Q4 ~. l8 G
7 T( u8 k H' G4 Q2 G" a そのときは意見を保留していたトウ小平氏がこの27日の会議で陳雲(ちんうん)中央顧問委主任、李先念(りせんねん)政治協商(政協)会議主席が推していた江沢民氏を「適格と思う」と発言、李鵬氏を推す王震(おうしん)国家副主席、喬石氏を推すトウ穎超(とうえいちょう)前政協主席も同意し、江氏に決まった。5 ^& X, F' R( r4 L o
) ~! \& f3 r$ s* J# `6 r4 @ 政治局常務委員には、江氏のほかに李瑞環(りずいかん)天津市党書記、宋平(そうへい)党中央組織部長の両政治局員が昇格、李鵬、喬石、姚依林(よういりん)3氏と合わせ6人体制になった。 2 m5 Z; D: Q5 S& _: O. N" E* J4 A 3 O% A4 Q4 r7 w) x b! a* @ この会合の冒頭、トウ小平氏はこう話している。 ' q, D/ C8 Y$ V$ D' i+ g: D1 R9 x% ?
「新指導部は改革・開放を真に実行し、人民の信頼を得なければならない。改革・開放を堅持すると人民が認める人物を大胆に起用し、われわれが誠心誠意、改革・開放を実行する気だと人民に感じさせねばならない」 : ?5 R% L# S1 T4 W5 n + v- g+ F# F' K# V: ^$ z トウ氏の頭は既に、動乱制圧後に飛んでいた。改革・開放を継続することで国民の信頼を回復する。それには、不人気の李鵬氏ではなく、「新しい顔」が必要だった。- _5 m1 A( z, D" }
4 b: H* V( N) X. m3 |0 ^ 江沢民氏は5月30日に北京に呼ばれ、31日、トウ小平氏から次期総書記を命じられる。トウ氏は続いて、李鵬、姚依林両氏と会い、改革・開放を徹底、腐敗を撲滅し人民の信頼を得るよう話した後、次期総書記に江氏を決めたと告げ、一致協力するよう指示した。 4 F5 E( S/ K7 a+ R5 u$ N* T# f , u/ [( Y j8 w: p" u/ b. z 《「トウ小平年譜」は、李、姚両氏への講話を掲載しているが、江沢民氏との面談の記述はない》 + m% x. p8 y) { m/ y, d6 U6 s; a$ d. g1 I8 d
長老会議2日前の25日、新華社香港支社長の許家屯(きょかとん)氏は中南海で、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席と会う(「許家屯回憶録」)。 / s: N4 v- S; E' t3 l+ o4 ^5 O& w) ^. j' w6 _" {- T1 z
楊氏は趙紫陽氏の停職を告げ、後継者は未定だが、「李鵬はありえない」と断言した後、言う。 8 L5 u( q' _2 x2 j! t1 o% d! A7 ~( S3 z$ m8 y' g$ c
「トウ小平同志は、既に退路はないと話し、戒厳令を選択、軍を動員して動乱を平定することになった。党中央の決定を支持してほしい」 ( Q, s( W, d% y, |, h) w 6 {. a$ Y# f( k; W+ ~# I: f 許氏はしばらく言葉を失った後、言う。 / m. z5 j3 i% A0 ]; [; E' A# H" @- p5 a+ Y. Z# _+ l5 H- y7 m1 c
「軍を動員しても、万が一にも流血はだめですよ!」 # c) P( H* T+ b3 h+ B: N# H " h/ r( H8 ?( Z+ I, @" @8 a* ? 楊氏は即座に「それはない、それはないよ」と言い、こう続けた。 ' Y. A/ R( b1 Y/ W+ R, @ 8 u# n: _) r# t2 ~6 q L 「徐向前(じょこうぜん)、聶栄臻(じょうえいしん)両元帥も同じ意見だ。彼らは既に中央に(流血回避の)意見を出している」1 H- ]& c+ _& x( ]% c) w! x
) k: D7 R" a3 K7 ?9 T; F0 S' G. h 《55年制定の軍階級制で最高位の元帥に選ばれた10人中、徐、聶両氏のみ健在だった。両氏は武力行使に反対と伝えられたが、当局はデマと否定していた》! ?& \, v% w+ k7 d+ W/ `, d
( p: w/ Q8 V8 O 「真相」によると、5月27日の長老会議で、「動乱」の平定作戦の実施時期が話し合われた際も、楊尚昆氏は「いつまでも引き延ばせないが、流血は絶対に避けるべきだ」と主張した。 ' @1 g3 B( p3 n* W2 z1 y% _1 S! i6 j' |! k
陳雲氏は「流血は極力回避すべきだが、5月末には解決するよう」主張、トウ小平氏も「これ以上引き延ばせない」と述べ、政治局常務委員会に迅速な秩序回復を要求した。 + H! c$ ?7 }9 v7 c- s 0 X. Y( J+ u. W" U3 Z+ p 天安門広場では5月30日、中央美術学院の学生が作った「民主の女神」像が立てられ、市民の目を奪った。しかし座り込み学生は5000人に減り、大学が授業を再開する中で、学生運動は内部分裂し、消えかかっていた。) h8 k9 g3 _0 O' Q W5 t
7 U8 U0 g/ G7 W- ^ それを立て直し持久戦をやろうと考えた知識人がいた。北京師範大講師の劉暁波(りゅうぎょうは)氏らだ。劉氏は社会科学院副研究員の包遵信(ほうじゅんしん)氏や北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)氏らに、リレー式で絶食をやる計画を持ちかける。 ! F3 u$ P) j" `1 ?( J) [ ! A% N- \5 G- |9 ?/ D 包氏の著書「六四的内情」によると、包氏自身は、この計画に反対だったが、王軍濤氏は賛成した。そして6月2日夕、劉暁波氏、台湾の歌手、侯徳健(こうとくけん)氏ら4人が絶食に入り、広場は久しぶりに熱気に包まれた。 9 X. n* m/ H+ g% w2 H' |. `1 M- X" T2 C8 A
その日の午前、トウ小平氏ら長老6人と李鵬氏ら3人の政治局常務委員が会議を開く。李氏の状況説明に長老らは激怒する。第一声を放ったのは王震氏だった(「真相」)。 G/ X( R8 @8 s+ Y+ A/ R3 H# H$ P; u2 S4 F5 c) z; H
「くそ餓鬼どもめ。神聖な天安門広場をなんだと思ってるんだ。解放軍は何をしてる。反革命どもをとっ捕まえろ」 1 X, L- r6 s3 q) a2 P$ M; \. ?9 |4 A. N* d
李先念氏が一刻も猶予ならないと強調、「今晩から『清場(チンチャン)』(天安門広場からの学生一掃)を開始しよう」と提案。最後にトウ小平氏が言った。3 S. p4 |/ t ]. H/ c
4 Y. u; N" R0 ~
「みんなの意見に賛成だ。戒厳部隊指揮部は今晩、清場実施計画を開始、2日間で完了するよう提案する」(伊藤正) $ c: Z( @8 T. ` 2 ?# q4 c8 F6 N2 I% Q+ r$ G ◇ ; c/ B4 C' U( m 7 e# ^1 n- `+ Q+ x6 a【用語解説】軍階級制1 N! O5 @; Z3 t2 v; o( \% W
) Z3 w# Z3 H# g 1955年に導入されたソ連式の階級制度。革命の功労度により、元帥、大将各10人、上将57人、中将177人、少将1360人以下、全軍人が階級付けされた。66年に廃止されたが、88年に復活。新制度では元帥、大将はなくなり、上将が最高位に。徐、聶氏以外の元帥は、朱徳、彭徳懐、林彪、劉伯承、賀竜、陳毅、羅栄桓、葉剣英の8人。 ; u& {" m& Z' e: H3 E' J# A% e2 V+ P4 I6 [* q* B9 r) d6 m
(2007/03/15 ) * ^- q& U* a# ` Y ; G+ C6 c* Z8 L6 D# I$ w: n* X+ @* K! B! u
. y* i1 A1 v% O/ H$ f
1989年5月30日、天安門広場に学生たちが作り上げた「民主の女神」像。米国の自由の女神像をモデルにしたという
. B+ L6 S1 W# G/ m: }(中央社记者张芳明东京十六日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,一九八九年六月二日晚上,中共戒严部队开始对天安门广场展开清场作战,秘密进城计划失败,学生和市民开始全力阻止部队进城,三日深夜传出部队开枪消息,一名新华社现场采访记者在日记上指出,北京市内出现货真价实的战争。( E D. P W0 a5 n1 A
8 L) c- H8 o5 K" I; M; c“秘录”指出,一九八九年六月二日晚上,戒严部队展开“天安门广场清场作战”,由于进入北京市内的要道都有市民建构的路障,军方派部分部队采取秘密进城计划,由士兵穿私服进入市内,三日凌晨再由假装行军训练的士兵真正地进城。% l$ b/ j# H4 B$ H
但是,中共高层的这项计划由于发生一件意料外的交通事件而被打乱。中共武警借自中央电视台的一辆吉甫车在二日晚上十一时左右发生车祸造成四名市民死伤。三日凌晨零时稍后,天安门广场学运的扩大器将这项车祸播放为戒严部队开始进城,武警吉甫车是先头部队,要求学生全力阻止部队的进攻。 . H1 ^3 I j' {: ?# ]" o! U z : P! {' @! W5 v1 f3 Y5 u/ Q" n这项消息一传开,市民开始阻止部队进入,当时当地已有未武装的士兵进入,出现在市内各地的士兵被包围,动弹不得。三日凌晨,建国门附近有数十名士兵坐在路上,被包围的市民说服,但也有部份市民对士兵出现暴行。$ R- }9 `8 S6 T, ?
/ M6 p9 W6 T, A) @0 F. q' V# c2 z3 K8 F三日中午,西单周围频频出现机动部队为保护戒严部队而和市民发生冲突事件,下午,开始使用催泪弹,秘密进城作战归于失败。) _( o+ ?: t* N( a6 C
3 ~# V+ @% h5 S. g w0 R8 i9 u
张良编著的“中国六四真相”指出,三日下午四时中央军事委员会召开紧急会议,国家主席杨尚昆要求采取坚决的措施,李鹏总理主张行使武力,杨尚昆传达邓小平的两点指示,四日拂晓前完成清场以及不得已时可使用一切手段。会上决定三日晚上九时开始平定作战,四日清晨六时以前完成清场。 . G f k; J* {" a$ E6 h' X 8 E2 J) v' J0 n$ [; V“秘录”指出,三日晚上六时半起,中共经由电视和收音机预告将对反革命暴乱进行反击,要求市民不要外出。但是,市民、劳工和学生大举前往东西南北的入口,彻底抗战。天安门广场的数千名学生认为部队难以进城而持乐观的看法。 9 A. D6 ~1 Y7 e% T & t2 B: {" L- X$ b# ~) s9 _三日晚上十时稍后,一辆装甲车穿过广场西侧的道路,发射数发的曳光弹,照亮广场,显示军方在确认广场的状况。随后,美联社报导中共部队开枪,四日凌晨零时稍后,共同社的摄影记者以电话向北京分社联络,表示目睹部队开枪,市民燃烧巴士进行抵抗,戒严部队向天安门方向前进。8 D1 \$ h- x' f8 d8 y
) h3 _8 [& ^3 E/ x0 {, Y/ ?' q就在这通电话的一个多小时以前,市内各地持续“巷战”。一名新华社记者骑着脚踏车前往各地采访,四日清晨三时半回到社内后在日记上写着,“这是货真价实的战争”。 ( _. x( [' J* Q$ L. ~+ z- ^+ L' R6 Q& k8 b$ ~ u
【トウ小平秘録】(30)第1部 天安門事件 軍の発砲5 G, ] l' w2 W* X w
6 t$ E- Q# f; V& ~& r% h t
1989年6月2日夜、戒厳部隊は「清場(チンチャン」(天安門広場の占拠者一掃)作戦に入る。しかし北京市内への進入路は何重ものバリケードが築かれ、市民らの抵抗は必至だ。強行すれば流血は避けられない。 0 d% O2 X% U) [& k/ P" z( w* S1 z q& ^/ C
これは本物の戦争だ 2 q9 A$ R4 _) S% z2 o/ F) i8 P0 k9 A ?8 M1 t5 I' O
そこで立てられたのが、秘密入城計画だった。できるだけ多くの部隊を先に市中に入れ、本隊の入城を容易にする作戦だ。将兵たちは2日夜から、私服で市中に次々と入ったが、本格的な入城は未明に行軍訓練を装って行うはずだった。2 r9 z, M/ x$ t
: Z; E* t" Y. g
それが1つの交通事故で狂う。武装警察部隊(武警)のジープが2日午後11時ごろ、市民4人を死傷させる事故を起こした。ジープは中央テレビ局が借りていたもので、返しに行く途中の事故だった。 " d6 `9 J# R! J3 I$ ?) M5 K+ U. O! E6 X
3日午前0時すぎ、天安門広場の学生側スピーカーがこの事故をねじ曲げて伝える。0 X6 L8 U$ |# D$ E
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「戒厳部隊が進軍を開始した。武警のジープはその先陣だ。部隊の進攻を断固阻止せよ」# Z9 B3 e' C8 i9 `
- b' E& F& P; [' X 情報は瞬く間に広がり、市民たちは軍の進入阻止地点に殺到した。そこへ丸腰の兵士たちが行進してくる。市内各所で兵士たちは包囲され、身動きできなくなった。 " i- Q+ ]3 f+ z' X# q, t+ y" a A1 h: K W# E3 B7 V
3日未明、東部の建国門近くでは、数十人の兵士が路上に座り込み、取り囲んだ市民らから「人民の軍は人民を愛する」などと説得されていたが、一部では兵士への投石や暴行事件も発生した。 : Q2 i% I5 x$ L, h: ` ( e" ~+ j1 ]3 L2 A) C. ^9 H# N+ T 新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者も3日早朝、西長安街の西単で、私服の将兵を満載した大型バスが立ち往生し、市民たちが「北京人はあなたたちを歓迎しない」とシュプレヒコールしているのを見ている。(同氏著「中国改革年代的政治闘争」)。; S/ t6 i0 K5 ^- k2 O/ {
邓小平秘录:共军血腥镇压手无寸铁市民7 X+ E" b8 T8 A" @: A0 M
% ?, Z F6 E- D7 M j$ Q' c) a
(中央社记者张芳明东京十七日专电)日本「产经新闻」连载的「邓小平秘录」今天报导,中共北京军区主力部队于一九八九年六月三日晚向天安门广场前进,沿途对强烈抵抗的市民开枪。一名新华社现场采访记者曾在日记写道,那是场「真正的战争」,问题是那是场正规军与没有武器的市民之间的战斗。" i0 f3 }+ r; ]0 B
" I, ]' T3 H2 J# M' o' a7 H0 f! p「秘录」报导,以河北省保定第三十八军为主的北京军区主力部队在装甲车前导下于四日凌晨一时稍后进入天安门前,部队是于三日晚上九时稍后由西长安街西端公主坟出发,由于遭遇市民的强烈抵抗,前进至天安门总共约八公里的距离,花了四个小时。; {/ t+ H- C: w; u) o4 C3 ~5 {9 u
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部队和市民最初的「冲突」发生于公主坟东方两公里处,市民以并列巴士和车辆放火等方式抵抗。部队在晚上十时二十分左右开始开枪,天安门前也是如此。另一方面,同样遭受强烈抵抗的济南军区第五十四军几乎只对空开枪,北京军区第二十四军和渖阳军区第三十九军等也未开枪,放弃进城计画。 . a" j9 r. r/ z# n, n' ^+ ]0 X* q" G9 _' r3 G6 g$ V# U9 l
第三十八军等部队获得开枪许可的经过迄今不明,由邓小平事前指示「不得已的情况下可使用一切的手段」来看,可视为现地指挥队的判断造成各部队对市民的抵抗采取不同的因应措施。' D6 j( a0 u9 a& J/ D
邓小平秘录:邓南巡讲话 警告保守派- L3 P9 W# ~: P' Y
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日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,已故中共领导人邓小平于一九九二年初的南方视察,名义上虽是休息,实则是经过深思熟虑的一项行动,而南巡讲话的主要目的是对抗拒改革的保守派提出警告。 # w+ l+ W: D4 R. _8 F u6 l, T+ e2 H
报导指出,邓小平于一九九二年一月九日进入深圳,采访此行的中国媒体指出,由邓小平的谈话可看出他的广东之行是有备而来,是对北京、中国全境乃至全世界的发话。) C/ j# J* `1 a; O9 N% E
1 t3 C4 h/ R3 S
邓小平在讲话属性中要求不推动改革开放者下台,矛头是指向保守派和党总书记江泽民等中共中央领导人,他南巡的手法类似毛泽东一九七一年七月至九月的南巡。毛泽东是为对付具有野心的林彪,后者最后在逃亡国外途中于蒙古坠机死亡。 - _# X1 O( [) Q8 \8 T: O, f6 H: q, @$ N
报导指出,邓小平南巡之际,国家主席杨尚昆如影随行,一九九二年一月二日,两人一起和中央军事委员会副主席刘华清和广东军区司令官朱敦法会谈,具有夸示邓小平仍掌握军权的作用。 " ]9 Y2 m) N( }6 B$ h7 Z
_* ^( E1 I! ^# u$ m5 ^【トウ小平秘録】(34)第2部「南巡講話」 保守への警告 " P/ e+ v# w, c 4 h% ~% i- N; z0 L' ]. X1992年初めのトウ小平氏の南方視察の名目は、「休息」であった。トウ氏の事務所は最初の滞在地、広東省党委員会に対し「(地元指導者の)現況報告は不要、題辞は書かず、報道は禁止」という3原則を事前に通告、「家ー旅行」を装った。 8 q( m8 z6 K+ u! b / @! X2 f; Y( B. l3 [( J. T手法は毛沢東に似る 6 } Y W' N* ?; @3 f! l9 N % ?, B+ ~ u+ ]2 X しかし、トウ氏一行が同年1月19日午前に深セン入りして以来、11日間の広東省滞在を密着取材した新華社通信広東支社の高級記者、牛正武(ぎゅうせいぶ)氏(肩書は当時、以下同)は、田炳信(でんへいしん)・元新華社記者の取材にこう話している(田氏著「トウ小平最後一次南行」による)。 4 h# Q2 Z y% Y9 e+ Y, ^. P# Z, G$ e& o$ k! O$ {8 B4 e
「トウ小平の講話を聞いて、彼の広東訪問は事前に考えをめぐらし、準備をしてきたと分かった。即興の話ではなく、熟慮をしたものだった。それは単に南方の人たちだけでなく、北京に、全国に、そして世界に向けて話したのだ」 ( Q% {& a6 `2 m4 [9 T' |- ?- ~- y9 S% E4 r4 z/ F2 U6 @8 t$ X- B
牛記者が広東省党委の陳開枝(ちんかいし)・副秘書長から取材を要請されたのは、トウ氏が深センに到着した当日だった。牛氏のほかに、地元の南方日報と広東テレビの記者も同じ要請を受け、取材に加わっていた。 2 E' @5 i( `; g6 X2 m4 Y , ?9 t3 x7 h! d6 R8 ` 陳副秘書長の一存でできることではない。トウ氏事務所の王瑞林(おうずいりん)主任が、いずれトウ氏の講話をまとめて報道させることを計画していた可能性が高い。 5 m* s8 i2 q; _5 @; k & z1 r) d* \$ n: V& O( ~1 n 講話の内容は後に紹介するが、「改革・開放をやらない者は下野せよ」といった極めて衝撃的なものだった。その矛先は保守派イデオローグだけでなく、江沢民(こうたくみん)総書記ら中央の指導者にも向けられた。$ r+ t U' Q- h; H
$ Q4 ~2 i5 P) f* Z! m
トウ小平氏は91年初めの上海指導者への談話以来、それに近い警告を発してきたが、改革・開放に抵抗する勢力がいるという状況に基本的な変化はなかった。南方視察はより強い警告を出す必要があると判断した結果だった。- E7 M/ J9 \8 H# x. U/ V
4 v5 ?0 {7 l. S& f% E- l
このトウ氏の南方視察は、71年7~9月の毛沢東の南方視察と手法が似ている。毛沢東は当時、「後継者」に指名した林彪(りんぴょう)国防相の野心を知り、極秘裏に南方各地を回って、林らを厳しく批判する講話をする。 " s; Z* v4 K' y( r0 m6 s9 P0 P/ g g# ]( q4 ~. t/ s
毛沢東が直接、林彪を攻撃しなかったのは、軍を握っていた林を警戒しただけでなく、講話が中央に漏れ伝わることを計算し、林に近い極左派にも警告、林を孤立させる狙いがあった(林雨星著「林彪全伝」など)。0 _3 `7 y, W) b; _
! F. S2 D6 W6 g) r3 d
毛沢東は林彪が謝罪すれば、一定の処分ですます考えだったという。しかし毛の残酷さを知る林彪らは、毛暗殺を謀って失敗、9月13日、国外逃亡の途中、モンゴル領内で墜死してしまう。) d# u6 L6 |3 r/ Q5 q4 q+ |* H
* V* s3 b ?6 N% Q' H2 R, x 林彪事件である。 6 M2 Y7 S, u5 [9 ?- O3 g/ U2 Q3 x! X+ r- Q
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冒険せず何もできぬ! G/ h8 Q$ {9 K
/ t- `" [( m3 ~ `6 @: I. K4 k( v トウ小平氏の南方視察(1992年1~2月)も、党中央の保守派への警告を狙いにしていた。が、トウ氏は2年前の90年、国家中央軍事委主席を辞任、一党員でしかなかった。しかも「求められればアドバイスはするが、中央の仕事には口をださない」と公言していた。 6 r4 P6 w. p: h7 N, n& [' w3 g W# A w( E7 \% ^& f& N1 [# Q
元新華社高級記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は、著書「中国改革年代的政治闘争」の中で、トウ氏の南方視察には安全上のリスクがあったと書く。なぜなら中国の伝統的勢力である保守派攻撃が目的だったからだ、と。* H7 @" ` Y. T8 B
トウ小平秘録】(35)第2部「南巡講話」「不在」情報 + c1 O# b5 Y9 q* K1 l
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1989年6月3日夜から4日未明にかけ、中国の首都北京で戒厳部隊が学生、市民を武力鎮圧した天安門事件は、国際社会を震撼(しんかん)させた。 7 W- f# r2 w* `) [7 j, C6 x/ @ ' y9 e0 P6 x9 V+ m 米国をはじめとする西側各国を中心に、中国政府を非難する声明が相次ぐ。国際協調によって経済建設を進めてきたトウ小平(しょうへい)氏の改革・開放路線からは信じられない出来事だった。 A% Z* L( z- T
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本連載の第1部「天安門事件」で書いたように、胡耀邦(こようほう)前総書記(肩書は当時、以下同)の死去(89年4月15日)を契機に学生運動が始まってから「血の鎮圧」に至るまで、トウ小平氏が決定的役割を演じた。 0 R b& W) B% p) d ! C6 x5 y% e, H# [ s3 }/ @ しかし、事件直後には、武力行使はトウ小平氏の決定ではないとの見方が少なくなかった。それどころか、トウ氏の軟禁説、重病説や死亡説まで流れていた。当時、私が支局長を務めていた共同通信北京支局にも真偽不明の情報がさまざまな形でもたらされた。 . G* c5 m, j: n/ W8 j+ p * s7 Y- C) V* z3 R8 P" W 6月6日夜、取材から戻った若手記者が「トウ氏は5日午後11時35分死亡した」との「確かな情報」を話し、速報の許可を求めた。ソースは以前から接触のあったトウ氏事務所の関係者と称する男という。 0 M5 i! z6 Q8 _/ V$ b( W7 u) E1 y 1 n7 G3 M5 R; t; I+ a 私は記者に、男に再度会い、目の前でトウ氏事務所に電話させ、確かめるよう指示。その結果、情報は虚偽と判断し「大誤報」を免れた。報道機関が飛びつきそうな情報には、この種のデマが多かった。, m; e2 p! Y7 N3 ?
' B$ E7 X5 }) K その原因の一つは、トウ氏が5月16日にゴルバチョフ・ソ連共産党書記長と会談した後、一切動静が伝わらなかったことだ。党中央や軍内で分裂が起こり、内戦に発展する可能性もあるとの観測も呼んだ。' r( \4 A1 O- P I1 h5 n. K
9 d: ^3 R6 A( v! ?0 u: q# x4 s そうした観測を拡大させたのが6月7日、戒厳部隊が北京市・東長安街の建国門立体橋付近で、建国門外外交官アパートとその南側のビルの両方から銃撃を受け、兵士4人が死傷、応撃したという事件だ(新華社電)。 3 V& H: ?* Q3 b' V* t - s2 S# U; e# E N- ?, N! w0 n0 f 一般中国人は入れない外交官アパートからの発砲はあり得ない。この約2時間後、十数台の軍用車が威嚇発砲しながら東長安街を移動、通りに面したアパート十数戸が被弾した。西側軍事筋は当時、最初の銃撃は軍内の反乱分子によると分析、外国人に矛先が向けられる可能性を指摘した。. p, Z$ N1 m" _) ^2 S* ~
; V- b% ^" l' u7 d! G0 F7 \. i( O, [( { べーカー米国務長官は翌8日、「中国の権力闘争は継続中で、情勢は不透明」と語り、中国に滞在する米国公民の一斉引き揚げを勧告。日本など各国もそれに続いた。最高実力者、トウ小平氏の「不在」が各国の不安を一層募らせた。 " m% s7 x* I5 L8 [: W) ~% Z6 R" v4 A* k
トウ氏の健在が確認されたのは6月9日夜だった。その日午後、中南海懐仁堂で、李鵬(りほう)首相らを伴い、戒厳部隊幹部と会見、講話をした様子が国営テレビで流れた。そのニュースに「安堵(あんど)」した一人は、ブッシュ米大統領(現大統領の父親)だったろう。 0 A; T. p1 W+ s7 p& x7 u3 s8 f2 A- p
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米特使が秘密訪中した( s% E; ?* h$ C2 b3 j6 G
% b5 }3 _" T" r: _3 N1 }3 b1 T- Z( o 天安門事件(1989年6月)への米国世論の激しい怒りをバックに、ブッシュ(現大統領の父親)政権は事件発生直後に、軍事交流や武器輸出の停止など5項目の対中制裁を決定、上下両院も反対ゼロで制裁支持決議を採択した。それは7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)の対中制裁の基盤になった。2 L% F* z5 U3 u
" a, |* n3 C# P& H しかし当時のブッシュ大統領は、ニクソン(元大統領)訪中以来の対中関係重視策をとり、国務省内の強硬論を抑えていた、とロサンゼルス・タイムズ紙の元北京支局長ジェームズ・マン氏は書く(「アバウト・フェース」、邦訳「米中奔流」共同通信社)。' F- {- s; W. ~' c
- U+ a8 R ?9 ~7 W w- T- M トウ氏は翌22日、米特使の極秘訪中を歓迎すると返信、その中でこう述べた。 / h; f2 N, s/ F: b0 ~7 m4 |& P
「中米関係は目下、厳しい挑戦に直面しており、懸念している。双方で築いてきた両国関係がこれ以上損なわれないよう、特使と率直な意見交換をしたい」9 {% `6 h9 t+ \1 m
; z' z+ ]- D8 y8 ~5 q- E 米大統領特使のスコウクロフト補佐官が、イーグルバーガー国務次官と2人だけで北京入りしたのは7月1日だった。外装を一般機に塗り替えた空軍輸送機を使い、空中給油を受けながらワシントンから直行した。 , o" y. |/ P8 P" l1 ^: X! G; t $ ^4 \3 D( g9 U, { 北京滞在は約20時間。当人たちのほかは大統領とべーカー国務長官以外知らなかったという秘密訪中は、何をもたらしたのか。(中国総局長 伊藤正)" K- y7 w% _. t9 F# F5 a G
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【ニクソン訪中】 冷戦さなかの1972年2月のニクソン米大統領訪中のことで、「歴史を変えた1週間」と呼ばれた。対ソ戦略やベトナム戦争終結などでの一致が背景にあり、米中の戦略関係の起点になった。71年7月のキッシンジャー大統領補佐官による秘密訪中で基本合意していた(米中の国交樹立は79年1月)。ニクソン、キッシンジャー両氏は現役引退後も、歴代米政権に対中関係の重要性を訴え、ブッシュ大統領の特使派遣も両氏の進言があったとされる。 0 F9 g7 z2 g& x! o- A8 d5 A: N6 q4 X, l0 E5 l
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4 z* m' s4 K4 x9 t) k+ w, I/ \ ; w) W4 O2 v' h8 n7 X1 K天安門事件の直後、「トウ小平氏毒殺」「軍はすでに内戦状態」といったデマを報じた1989年6月7日付の香港各紙% Q9 y, A' q4 A% T
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米中関係の危機だった + F T4 J, E& ]. { " b; M: g3 h |! i1 A# c 前回書いたように、トウ小平氏は天安門事件から5日後の6月9日に戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。その際の長い講話で、「反革命暴乱」(事件の当時の呼称)を制圧した軍をたたえる一方、経済建設を中心とする78年の3中総会以来の路線、方針、政策は変えないと繰り返し強調している。 0 |, N+ r# c: h % `) \( I$ b) x* {4 B' j2 g 「われわれの基本的な考え方は、改革・開放を含め発展戦略から方針・政策まですべて正しい。足りないとすれば改革・開放が足りないのだ」3 P5 H! X6 I7 A4 B0 w5 B/ @
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「基礎工業と農業を強化すること。この面での投資強化は10年から20年は堅持しなければならない。外債を借り入れるのも改革・開放だ」(6月28日付人民日報に全容掲載)( V1 b7 U6 Z0 N
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天安門事件直前の5月31日には保守派の李鵬、姚依林(よういりん)両政治局常務委員に対し、「(改革・開放路線の執行者だった趙紫陽(ちょうしよう)総書記が読み上げた)第13回党大会の政治報告は1字たりとも変えてはならない」と述べ、6月16日の江沢民(こうたくみん)氏ら次期指導部にも同趣旨の講話をした(「トウ小平年譜」)。 0 B! G( Y% G& m1 g% |9 U2 {/ M 3 e1 ]( U; m( E3 t8 j0 @ p7 |' L 雨が降ろうがやりが降ろうが「経済建設」。それさえうまくいけば、民心はついてくる、というのがトウ小平氏不動の信念だ。そのトウ氏にとって、最大の気がかりは、外国の投資と経済協力が得られなくなることだった。" {2 E" m7 f- D8 ]( r! Z
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しかし天安門事件後の状況は芳しくなかった。「国際的大気候」(6月9日の戒厳部隊幹部との会見でトウ氏が使った表現)は、米国をリーダーとする西側陣営が圧倒的優勢で、ソ連を含め社会主義陣営には自由化の大波が襲っていた。1 Q1 V' e6 g- l% I) j6 h
( {, W& r# E% w5 ?7 u その波の影響を受けた「国内の小気候」を武力で押しつぶしたことは、米国世論の猛反発を呼んだ。「暴乱」平定後、中国国内各地では、反対派の摘発と相当数の処刑が続き、その映像が米国人をさらに刺激した。& m4 S3 N' r$ y0 [6 `' b
7 h3 M; Z. e3 ^* l! b 米中双方にとってやっかいな事件が起こったのは6月5日だった。反体制派天文物理学者の方励之(ほうれいし)夫妻と長男が北京の米大使館に駆け込み、保護されたことだ。中国側はそれを知ると、夫妻を反革命扇動罪で全国に指名手配(10日)、大使館を武装兵士が包囲し、引き渡しを要求した。' T+ D- }) _: s, T
+ r* _% Q3 |6 }: t 米側が当然拒否すると、人民日報など主要なメディアが方励之夫妻を攻撃するキャンペーンを開始、夫妻をかくまう米政府を内政干渉と批判した。中国側はさらに14日、AP通信とVOAの米人記者を国外追放処分にした。' K7 W8 V9 t6 e. s5 |( y
# J) c7 b0 O7 \; ?$ I7 x 米国内で反中世論が高まる中で、米政府は6月20日、高官交流の停止などの追加措置を発表した。 & H$ H/ ?6 l+ J # y4 p6 e8 ]& M6 V3 P: f 79年1月の国交正常化以来、米中関係が最大の危機を迎えつつあったときに、スコウクロフト特使が訪中したのだった。( h5 U& _# z- }
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弾圧も正当化される + w' T1 ?9 C, f3 p 3 i( V$ x1 V4 ? 外相、副首相などを歴任した銭其●(せんきしん)氏の著書「外交十記」によると、1989年7月のスコウクロフト訪中は、71年7月の電撃的なキッシンジャー訪中時よりも、厳重な秘密保持措置が取られたという。しかし、この2人の米大統領補佐官の訪中には、根本的な違いがあった。; e& r! V1 B A+ j3 R; ^
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後者は訪中1カ月後、ニクソン大統領自身が劇的な発表をして世界を驚かせ、米国内はむろん同盟国からも高く評価された。しかし前者は89年12月にスコウクロフト氏が公に訪中した後、CNNテレビが暴露するまで、完全に秘密にされた。 $ n' z0 Q# }( A; k& d! W5 V . H- B) Y) I; |4 q6 z 理由ははっきりしている。89年6月の天安門事件後、米世論と議会は中国非難一色になり、米政府自身も武力行使を非難し、制裁措置を発表していたからだ。ブッシュ大統領(現大統領の父親)がトウ氏に親書を送った日に、高官交流の停止も発表したばかりだった。 , U" ]( `8 {, h! U M 8 N; Z8 T2 f# e- W2 ]5 D! G 「血の弾圧」の最高責任者であるトウ小平氏の元に特使を派遣し、妥協を求めたことが発覚すれば、大スキャンダルになったろう。それだけのリスクを承知で、ブッシュ大統領が決断したのは、72年のニクソン(大統領)訪中以来の中国との戦略的関係の重要性にあった。8 b( h9 l: W3 b( N9 _
2 V* i* i1 x+ a3 o$ w そのニクソン氏自身が89年10月に私人として訪中してトウ小平氏と会談した後、米国が対中関係を重視すべき理由を、こう備忘録にまとめている(王泰平氏ら編「新中国外交50年」、北京出版社)。 2 q" T& h3 l( T0 e+ M8 X$ \- Q3 O
(1)ソ連が中国カードを握れば米国に不利(2)核拡散防止で中国の協力が必要(3)強大で安定した中国は東アジアにおけるソ連、日本などの影響力とのバランスをとるのに有利(4)アジア太平洋地区での中国の役割の重要性(5)将来巨大になる中国市場を確保する必要性(6)21世紀に軍事大国化する中国を敵にしない(7)地球規模の環境問題などでの協力が重要-。% @* ~8 v* r9 l& p
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これは、ニクソン氏の年来の主張であり、ブッシュ政権の対中外交に強い影響を与えてきた。 % U6 E( w" C* B! D5 e7 v( E y; S' s) z) V
理由はどうあれ、西側のリーダーである米大統領が秘密裏に妥協の余地を示したことは、西側との協力による経済建設推進へのトウ小平氏の懸念を払拭(ふっしょく)したに違いない。それだけでなく、「血の弾圧」正当化を強めさえしていく。 ; L$ Q6 f% ^3 d \8 L- k2 v7 {+ _! e* `% A+ S) B) O* W
天安門事件後の情勢に影響したスコウクロフト訪中を次回も続ける。(中国総局長 伊藤正)/ g! o) }. i( n3 M" O" W
3 F1 o4 n8 c y% J■3中総会 1978年12月に開かれた共産党10期中央委員会第3回総会のこと。毛沢東のイデオロギー重視の階級闘争路線から経済建設重視の近代化路線へ転換、改革・開放の原点とされる。毛沢東時代に失脚した多数の老幹部の名誉を回復、復活させた。この総会でトウ小平氏が実権を掌握、毛沢東路線継承を主張する華国鋒党主席ら文革派指導者排除の起点になった。本文中の第13回党大会の政治報告は、3中総会路線を継承、発展させたと評価された。 ' i$ u( j, r0 w, N% E. @/ ?0 w2 G9 P% j- n# ^$ K6 M
9 h; \4 B3 I/ |●=深のさんずいを王へんに * M. O& d% B1 b2 X' v2 ^ 7 x% Z, Z) j+ J, U天安門事件直後の1989年6月8日、ホワイトハウスでの記者会見で、「中国政府が民主化運動を認めないなら、正常な米中関係には戻れない」と強調したブッシュ米大統領(当時)! d7 D, q+ u1 v* b+ c* l5 U
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' A7 k6 q* I n5 x9 o: o' N( U3 n1989年6月10日、米サンフランシスコ市庁舎前で行われた中国の民主化を支援する集会。天安門広場にあった「民主の女神」にふんした女性が登場した
【トウ小平秘録】(37)第2部「南巡講話」 米中秘密外交9 }0 N( Z4 U6 B/ Q' G8 w+ H* W; K* I
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■へたな妥協はできない ' V2 t D5 J4 a V5 c4 Y / ^, M$ V }2 m/ e3 i9 _- G1 P. T 米国の対中政策は、ダブルスタンダード(二重基準)とよくいわれる。1989年6月4日の天安門事件後、ブッシュ米大統領(現大統領の父親=肩書は当時、以下同)による対中秘密外交も例外ではなかった。共産党政権による最悪の人権蹂躙(じゅうりん)を声高に非難しながら、その政権と陰で手を結ぼうとしたのだから。 4 E+ ]$ j; d# O ! _3 Q! l) i& f y3 s, S* t, C1 j 当時、中国外相として対米折衝の全過程にかかわった銭其●(せんきしん)氏は著書「外交十記」で、89年7月のスコウクロフト米大統領特使訪中に始まった秘密外交を詳述している。% s8 x% [! Y4 s6 F. h3 D
: s, D" Y' F! o4 k1 X' l8 e 銭氏は、米国が密使を送ってきたのは「中国を制裁し、孤立させることは、自国の世界戦略と長期的利益に合致しないと認識していた」ためと見抜く。しかし対中制裁は中国に重くのしかかっていた。 # W2 a5 ]+ G# D" C* m3 N5 u " x+ H5 Z6 t+ G& U, [' V スコウクロフト氏とトウ小平(とうしょうへい)氏が人民大会堂で会談したのは7月2日午前。トウ氏はその直前、李鵬(りほう)首相と銭氏に「今日は原則問題だけにし、具体問題は話さない。米国の制裁は気にしないし、われわれを脅し倒すことなどできない」と話す。 ) C; q. |6 {/ X, D7 a' _! f9 E7 k) K# ]/ \$ O
銭外相が、7月中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)でどんな制裁が決まるか分からないと話すと、トウ氏は語気を強めて言った。( p/ H, l0 [* B7 C0 Q3 |( l" O& y; M
- z' n C$ a9 d7 n r 「7カ国といわず、70カ国でも(制裁は)無駄だ。中米関係はうまくやらねばならないが、恐れてはだめだ。中国人の気概と士気を持て」- R, B$ d" i. S) ?
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トウ氏はスコウクロフト氏との会談を極めて重視していた。対米関係の修復なしに、改革・開放の未来はない。しかしそのために原則問題では絶対に譲れなかった。 ) f- ~' E, N# q; X % l: S' X# o4 q トウ氏は、会談で「中米関係は危険な段階にある」と切り出し、米議会の強硬な動きを「米側にはそれが破滅的方向に発展するのを止める兆しがない」と話す。' s `6 d& ~4 m ^+ [9 J
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トウ氏は、「幸いにも米側にはブッシュ氏、中国側には私らのような冷静な指導者がいる」とし、双方の利益に立って主張し合い、決着させようと述べた。だが、「問題は米側にある」と指摘し、こう続ける。6 m; y5 a* `$ s0 F& }5 {
) ~& b% A: V9 f( h1 s% ~9 D 「中国は米国を傷つけてはいないが、米国は広範囲で中国の利益と尊厳を傷つけた。中国には『鈴を付けた人が鈴を外さねばならない』という言葉がある。米国は、実際行動で中国人民の信用を得、火に油を注がないようにしてほしい」 ) o9 ~. k' C/ Y6 k' c6 n ! V' r+ I/ T" J# |1 Q- f 「鈴」とは、対中制裁を指す。トウ氏にすれば、天安門事件は中国の内政問題であり、それに対する制裁は内政干渉にほかならなかった。 . Z* R2 k0 Q" V. J7 G/ X3 w( F 4 G6 q: |6 |3 c0 i 中国は6月23、24両日、党中央委員会総会を開き、天安門事件を正当化する総括をし、趙紫陽(ちょうしよう)総書記を解任、江沢民(こうたくみん)指導部が発足したばかりだった。それを決めたトウ氏がへたな妥協をする余地はなかった。 & p$ |7 u, ]6 h8 L$ k% N ( V- e) V* p7 c+ u/ c 「中国はいかなる内政干渉も許さない。どんな結果になろうと、中国が譲歩することはあり得ない。確固として独立、主権、国家の尊厳を守る」 n# D9 ^5 `+ F. ^2 ?# x% Q$ L6 e2 S- v9 l1 ?
トウ氏は、冒頭の話をそう締めくくった。7 Y0 s5 P2 Z! |2 C1 Q0 S7 z
/ L2 j: \0 H4 T# M, m8 E ≪3度密書を送った≫ ( a) U# P1 V) D( x8 E% N4 m$ K5 V$ t( L! {6 x7 a
1989年7月2日、北京の人民大会堂でトウ小平氏と会談した米大統領特使のスコウクロフト補佐官は、ブッシュ大統領(現大統領の父親)が「中国人民の真の友人」であり、「偉大な中国、中国人民と密接な接触をしてきた点では歴代大統領中唯一無二」と述べ、訪中の目的を話す。' ^% _$ a) k! l: P
" m- q4 M( X6 b 「大統領は、ニクソン訪中(72年)以来かつてなかった風波を深く憂慮している。中国指導者と接触して困難を克服、米中関係を回復・強化させようと私を派遣した」; ]9 C# A5 q' c$ g- [7 k8 p: Z( n
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関係の危機をもたらしたのは天安門事件だったが、スコウクロフト氏はそれには触れず、関係改善に中国の協力を求める。米国内では、反中世論はますます高まり、議会はより強力な制裁決議を準備していた。! f& `6 z8 T5 y6 t' g' m
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「大統領はそうした厳しい制裁議案には反対だし、今後も反対する考えだ。しかし、もし議会が全会一致で決議し、(大統領が)拒否権を行使する事態になれば、大統領の立場は極めて困難になる」 . U8 D+ X/ j; h1 n 9 I: P! J: J! }) o 大統領は世論の反発を受け、疑念をもたれかねない。スコウクロフト氏の言葉には、民衆弾圧の緩和▽北京の米大使館で保護している反体制派学者、方励之(ほうれいし)氏夫妻らの出国▽早期の戒厳令解除-などで米世論を和らげるのに中国側の協力を求める意図が込められていた。 " Q1 X6 d9 A( A d2 h" l3 i4 A: ? D" `6 A) p
それに対し、トウ氏は反発し「貴殿の話には同意できる部分もあるが、相当部分はわれわれと考えが違う」と言い、米側が「不愉快な状況」を終わらせる行動をとるよう要求して席を立った。& A) [0 c; |, b4 ~
. |) a0 O/ H# X0 `, {
この秘密外交について深く取材したロサンゼルス・タイムズのジェームズ・マン記者は著書「米中奔流」の中で、「中国指導部に誤ったメッセージを送り、失敗だった」と評した。中国側が米中交渉の主導権を握り、強硬姿勢には変化がなかったからだ。 4 `$ K/ I0 I; F; i 6 e4 d6 i- t' N2 {/ V( s その後の4カ月余の間に、ブッシュ氏は3度、トウ小平氏に密書を送り、トウ氏が返事している。7月28日の最初の書信で、ブッシュ氏は特使訪中受け入れへの謝辞に続きこう書いている。 . [9 u, Q7 f1 C9 U0 H 2 c$ P9 A" w/ r* E0 J1 w! _2 V- N2 F" Y 「過日のアルシュ・サミットで米国は日本とともに、中国を非難するコミュニケの中から、人の激怒を呼ぶ表現をカットさせた」/ ^/ R! U! U* q
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しかし、トウ氏にすれば新たな「鈴」が付けられたにすぎなかった。ソ連・東欧の変化が顕著になる中で、中国国内では強硬派が発言力を増す一方、米国も「ゴルバチョフのソ連」へ接近、米中関係の危機は続いた。(中国総局長 伊藤正)/ L2 g; E+ H$ Y, q/ Q* [
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◇ 2 X j, h: S5 E' J/ Z& K9 E$ i + }) E8 X' \: K5 |2 S- T【用語解説】アルシュ・サミット : p: q+ }2 K: u3 [- O3 S/ R+ W6 O# q+ k _
89年7月中旬、フランスのアルシュで開かれた第15回先進7カ国首脳会議のこと。日本からは宇野宗佑首相が出席。15日に採択した政治宣言で、民衆を武力鎮圧した天安門事件を非難、中国との閣僚級以上の高官交流や武器取引の停止という制裁措置を決めた。中国問題だけでなく、ソ連・東欧で変化の動きが始まったことを受け、東西関係や社会主義国情勢をめぐる討議が焦点になった。 : `% X( n3 _: l% @, ` + L* S5 X; e9 H( |' Q ' |6 O6 p+ Q) ^1 u7 Q3 c0 z天安門事件をはさむ1988年から2003年の間、外相、副首相として中国外交の最前線にいた銭其シン氏。著書の「外交十記」(邦訳名「銭其シン回顧録」)は最近、日本でも出版された=2000年6月1 J8 X0 b9 L$ L o
' c l+ _9 V* N. n ; t# E+ \) v) C: W! s2 \ # ^1 \5 b9 O8 l9 x* F1 t, s4 m2 E1989年7月、アルシュ・サミットの記念撮影に応じる各国首脳。左から4人目がブッシュ米大統領、その左はサッチャー英首相' {* C* A. N' \: s" W