邓小平秘录:杨尚昆承认64事件犯下大错 8 u+ e& x* y0 u6 h : V' p- p" T" ^0 Y日本产经新闻今天开始连载“邓小平秘录”,首先锁定一九八九年六月震惊全世界的“天安门事件”。文中指出,邓小平至死未对武力镇压一事留下反省或悔恨之词,但是,当年参与开枪命令的现职国家主席杨尚昆则在生前表示反省之意,承认共产党犯下最严重错误,早晚必须加以纠正。 , U* A$ y. ^$ A/ v3 S* @7 e2 {/ I8 k8 H7 \7 n X4 {# h3 X
文中指出,二零零四年二月,暴露中国在前一年隐瞒国内发生的严重急性呼吸道症候群(SARS)的军方医院医生蒋彦永致函给温家宝总理等人,要求重新评价天安门事件,信中提到的新事实引起瞩目。9 U; E, U6 l4 t1 C/ `$ [% |
* k0 G# }* J1 M报导指出,天安门事件发生当时,参与开枪命令的国家主席杨尚昆在一九九八年死去以前,曾向蒋彦永说道,党(在天安门事件的武力镇压)犯上历史上最严重的错误,早晚必须加以纠正。杨尚昆表示反省之意似在一九九六年左右。 3 u7 q' q% R- }8 ^2 i # _7 O1 I" K7 N( j- w当年学生运动领袖之一的吾尔开希(事件后逃出中国)曾向产经指出,邓小平的长男邓朴方曾为避免流血事件而行动。北京在一九八九年五月二十日发布戒严令之后很快地,邓朴方担任主席的“中国残障者联合会”有四名职员前往天安门广场访问学生运动指挥总部,指出邓朴方为避免流血,希望和学生对话,要求派遣学生领袖出面。) l; I8 P7 j: B$ C* s D! R& G! S' O' D1 O
7 a$ M5 O! U( W“联合会”一名职员被留下来作为人质,吾尔开希本人则在一名学生的陪同下前往“中国残障者联合会”。应对的“联合会”干部向吾尔开希表示,政府势必动武,若想避免流血,将安排和主席的会面。吾尔开希是由于邓朴方表示想见学生领袖才出面,这名干部的发言与此有违,结果他未和邓朴方见面而离去。 H% X5 b, ~: L3 `/ p+ f* k/ Y0 ^, p' {1 i7 t
吾尔开希表示,邓朴方派遣职员向学生运动总部转达的意见应是真的,但很快地改变主意。他猜测邓朴方是判断流血已不可避免。邓朴方虽未曾作何表示,但或许已知道他父亲的坚定决意。 8 t4 F, R. g. ^& T7 d6 N1 R9 s n) M5 t* J
文中指出,一九八九年六月三日晚上至四日凌晨,中国戒严部队对学生和市民开枪,造成三百人以上死亡的事件震惊全球,中国领导阶层完全孤立,改革开放停顿,中国陷于混乱和分裂的危机,这也是在武力镇压扮演中心角色的邓小平的危机。 5 D: ?) ~8 L1 F7 k) m 5 Z. y+ |( u0 W中国后来的发展使得事件后的政权都肯定邓小平当年的决断,至今中国国内除公式的见解外,不准谈天安门事件,要求对该事件重新评价的人士都被置于严厉的监视下,当年支持学生运动而被解职的前党总书记遭软禁至死。一名中国老记者被引述指出,事件遭全面封锁是由于政权内部有看法认为大量杀害人民是作得过火。 2 g2 p. P6 C) @$ ]+ v G) t' n: T) V( _0 e文中指出,天安门事件后,中国虽经济发展,但为贫富悬殊和腐败的蔓延等严重的矛盾而头痛,该事件是政治改革受挫的主因之一,胡锦涛政权背负着邓小平留下来的正反两面的遗产。 + F( U- {# X: A% ] 1 c$ H8 j4 V+ |3 K; l8 f; S, e/ s中央社东京十五日专电 + |7 @0 U+ d% M9 ` 1 j: {& G* d) u- G; h------------------------------- , v# j4 x# S+ q4 l `( ^; ~# c1 n/ \1 n4 o2 [* A& n4 T& d$ U7 z( m
日本产经新闻5 K* e7 Q2 g K) B& {9 z
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【トウ小平秘録】第1部 天安門事件 格差と腐敗の中華振興5 E% y0 Z9 B! l) ]: l. U
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トウ小平(とうしょうへい)氏の死去から7年後の2004年、中国各地でトウ氏の生誕100周年を記念する行事が催され、大量の文章や映像が公開された。トウ氏の波乱に満ちた人生や人柄、思想について、さまざまな分野の関係者が証言し論じたが、決して触れられないことがあった。0 g* [0 r" _! G8 Q: a
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武力鎮圧の残影 * c9 ?% Q/ P6 j( f0 M& t- s7 A( z
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その年、15周年を迎えた天安門事件である。3 @6 P+ g% h: F g; l( R& ^7 l
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1989年6月3日夜から4日未明にかけ、戒厳部隊が学生、市民に発砲、300人以上の死者を出した事件は、世界に衝撃を与えた。中国指導部は完全に孤立、改革・開放は頓挫し中国は混乱と分裂の危機に陥るとみられていた。! ~ ^0 Z, R7 l, J0 g
6 |( C2 f! K2 `6 B) u' ?+ {+ F それは、武力鎮圧で中心的役割を演じたトウ氏の危機でもあった。 U! R4 ?; [( ` \$ v8 Z- Y* L5 [: B4 c2 O+ o
が、中国は事件後ほどなく驚異的な発展を始めた。01年には08年北京五輪の招致に成功、世界貿易機関(WTO)加盟も遂げ、国際社会で重要な存在になった。事件後発足した江沢民(こうたくみん)政権も、その後を継いだ胡錦濤(こきんとう)政権も、トウ氏の当時の「決断」を評価し続けてきた理由だ。! k0 s) w2 M, @3 q+ u: f
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04年8月22日、北京の人民大会堂に6000人余を集めて開かれたトウ氏の生誕100周年記念大会で、胡錦濤国家主席はトウ氏を賛美する演説の中でこう述べている。 w3 o4 O( W( @4 [: N2 y }. o0 a + P. |" k' O/ M2 p 「80年代末から90年代初め、国際国内の政治的風波が発生した際、トウ小平同志は他の老同志とともに、党と政府が人民に依拠することを断固支持、旗幟(きし)鮮明に『4つの基本原則』((1)社会主義の道(2)プロレタリア階級独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)を堅持、国家の独立、尊厳、安全と安定を守り、経済建設という中心と改革・開放を堅持、中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持した」 ; c5 N1 g4 L! _' _. t F ! D# Y3 k+ t2 H; Z, T% [ k$ } 同年3月、全国人民代表大会(全人代)閉幕時の記者会見で、温家宝(おんかほう)首相も同様の見解を示し「政治的風波から15年たち、中国の改革・開放と社会主義現代化は巨大な成果を収めた」と述べた。今日の繁栄は武力鎮圧で改革・開放を守ったおかげとの響きがある。- B* d7 }% b7 \/ R7 c
7 {! m) L1 C- H; B 中国国内では今、こうした公式見解以外に、事件を語ることはタブーであり、事件の再評価を求める人びとは厳しい監視下に置かれてきた。 6 ~$ [: c/ ^$ ?2 M, x( {1 P. i0 H- M% r
天安門事件で学生らの行動を支持したとして解任された趙紫陽(ちょうしよう)元総書記は05年1月に死去するまで軟禁を解かれなかった。1 q/ ]7 U0 |3 V1 u% c. R
3 Y- v0 H8 ], s1 Q3 |; ]) y# i なぜか。「人民の大量殺戮(さつりく)はやりすぎだったとの思いが政権内にもあるため」と中国の老記者はいう。; w! y8 ~3 G5 \7 E
: f! C: S6 z7 ^1 q* u* }% L 2004年2月、前年の中国内におけるSARS(新型肺炎)隠しを暴露した軍病院の蒋彦永(しょうげんえい)医師は、温家宝首相らに天安門事件の再評価を求める書簡を送った。そこで明かした新事実が注目された。 ) p$ |, p" M% v/ @6 i # G2 G& U6 d5 S6 h: N+ H0 S 天安門事件当時の国家主席で、発砲命令に関与した楊尚昆(ようしょうこん)氏(98年死去)が生前、蒋氏に、「(天安門事件での武力鎮圧は)党が犯した歴史上最も深刻な誤りだった。いずれ正さねばなるまい」と話したというのだ。楊氏の「反省」は96年ごろだったらしい。 0 ]& ~$ r% q+ e& b( @7 s# U, W/ j& m/ h' A( m1 q0 q1 F& n, i
事件の前、北京に戒厳令が布告(89年5月20日)された後、武力鎮圧への不安が高まり、妥協を探る動きが起こった。トウ小平氏の長男、トウ樸方(とうぼくほう)氏も流血回避に動いた一人だったと産経新聞に語ったのは、当時の学生運動のリーダー、ウアルカイシ氏(事件後中国を脱出)だ。# W5 S/ R% M& f4 K+ X
8 j' h* I5 v* [( M; a* B 同氏によると、戒厳令布告直後、樸方氏が主席を務める中国身障者連合会の職員4人が、天安門広場の学生運動指揮本部を訪れ、「主席(樸方氏)は流血回避のために、話し合いを望んでいる」と学生指導者の派遣を求めた。 8 l- f+ a" y5 M: R. b0 ?$ n9 Q6 ^/ r4 j5 Q1 a7 a: d
職員1人が人質として残り、ウアルカイシ氏自身が学生1人を伴い身障者協会に赴いた。( q# a- N/ W g
6 L @' o8 z! U! O4 L% U 応対した協会幹部は「武力行使は必至だ。流血を避けたいなら、主席との面会をセットする」と言った。樸方氏が会いたいというから来たのに話が違う。で、ウアルカイシ氏は樸方氏には会わずに辞去したという。 2 U" H7 V% T- \ o, ~# ]6 ]" g/ O0 l+ \, d' n/ \
ウアルカイシ氏は「樸方氏の協会職員らに託した意思は本物だったが、急に翻意した」とし、流血は不可避と判断したためではと推測する。樸方氏は何も語っていないが、父親の固い決意を知ったのかもしれない。 5 ^- V( O# q" J: S7 o4 Y4 [2 }, x0 {) [6 R$ R/ h; L R
天安門事件における武力鎮圧は当時84歳のトウ氏の人生をかけた決断だった。「中華振興」の夢実現に、一党独裁下での経済建設が必要との確信に基づく。97年2月の死去まで、武力鎮圧への反省や悔恨を示す言葉は残していない。 * i& q3 C, C w3 d4 z5 `- l7 A3 r4 ?9 x7 c
事件後、中国は経済発展の一方で、格差拡大や腐敗の蔓延(まんえん)など深刻な矛盾に悩む。事件で政治改革が頓挫したことも要因の一つだ。胡錦濤政権は、トウ氏の正反両面の遺産を背負っているのである。(中国総局長 伊藤正)% b: y+ V* i5 T& ^! }' D/ h
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【用語解説】政治的風波' S5 m/ t0 x- Z9 f# b# x, T+ f
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天安門事件の中国当局側の呼称。事件後しばらく使われた「反革命暴乱」は国際的イメージが悪いため、90年代初めから、鎮圧が完了した日付をとった「六四(事件)」が一般的表現になり、当局側では「政治的風波」が定着した。「80年代末から90年代初めの政治的風波」は冷戦終結やソ連・東欧の社会主義崩壊という国際情勢の激変も加えた表現。/ y* z1 p4 h6 e. @2 O6 k$ {- a
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/ @8 G; o( \# H/ v. { X(2007/02/15 08:03) 4 f- y$ J3 x. X# N . z; x/ G. l! ?, d6 p- e + J9 c2 F. X' Y& M1 L & w; v G( w p: m" i5 v, x- l) Z) F/ v+ \& |% J& g6 ?
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1981年9月、中国人民解放軍のパレードを検閲する軍服姿のトウ小平氏(AP)0 t/ M9 k% b- m% J! z3 Q
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[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-15 10:57 编辑 ]
8 E8 y' X e; d: I# H天安門事件で強硬路線をリードした8大長老の最後の1人だった。1980年代、中国政治の支配者は、トウ小平氏を中心にした8大長老であり、87年1月の胡耀邦(こようほう)総書記解任劇も彼らの合意による。そのとき、薄氏も解任を積極支持している。1 u, l& u" ^; X) K5 ^) K
1 R7 N/ v% r7 n4 u: S2 J! `" a 胡氏の解任は、86年12月に安徽省合肥で始まった中国科学技術大学学生らの民主化要求デモに関し、「ブルジョア自由化を放任した」ことが直接的罪状にされた。背景には開明的な積極改革派の胡氏と保守派長老らとの確執があった。 s- O |1 }- ?) L ' S7 U& X/ l5 y$ |; M 当時、貴州省書記だった胡錦濤(こきんとう)氏は、部下に「(処分は)あまりに不公平だ」と語ったという(「亜州週刊」07年1月7日号)。 + X. [8 r7 ]5 ~/ y2 `% p8 v6 Q8 K6 b/ C
そうした思いは学生や知識人の多くに共通していたが、解任に対する抗議行動は起こらなかった。後任に、改革派の趙紫陽(ちょうしょう)氏が選ばれたことも一因だった。( | q% a0 `- P3 @: ]4 K# }
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89年4月15日午前7時58分、その胡耀邦氏が死去した。8日の政治局会議中に心臓発作を起こし、入院先の北京病院での急死だった。「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したことを、当時「人民日報」副総編集長だった陸超祺(りくちょうき)氏は香港で06年に出版した「六四内部日記」(卓越文化出版社)に記している。1 v \$ d5 ?: {9 Y0 g
+ w: W4 {2 H1 a- M; R 予感通りに事態は展開していく。. n" M2 ^- ]; n0 K* F9 ?$ C
2 O2 @2 n. f$ b. V% F; L* u 訃報(ふほう)が伝わった15日夜には、北京大学など一部の大学に胡氏を追悼する壁新聞が張り出された。16日になると、壁新聞は少なくとも20大学に拡大、長老政治を批判など政治的内容のものも増えだした。天安門広場の人民英雄記念碑では花をささげて、胡氏を追悼する一般市民も現れた。9 |) q) H5 ^3 x, K
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そして17日午後、中国政法大学学生らが天安門広場までデモをしたのを皮切りに、各大学が競ってデモを組織、規模が大きくなると同時に、その性格も胡耀邦追悼から、保守派攻撃へと転じていく。 * l! V8 m. C: ~/ r% a3 c2 J+ p- L( h2 Z# n" [) F9 U1 g
胡氏の急死は、指導者たちにも衝撃を与えた。2001年に刊行された張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、温家宝(おんかほう)中央弁公庁主任(現首相)から報告を受けた趙紫陽総書記は、政治局緊急会議を招集、訃告の内容や葬儀の手はずを整え、午後、トウ小平氏に報告に行った。トウ氏は既に訃報を知っていてかなり平静だったが、政治秘書の王家瑞(おうかずい)氏は後にこう語ったという。3 V, J0 q% V2 q8 z e$ L
! {) [$ l7 j; T* s攻撃の矛先 民主運動へ4 ~0 O) \+ k1 }
胡耀邦氏が1978年に開始した(毛沢東の言ったこと、やったことはすべて正しいとする)「2つのすべて」派への攻撃は、青年層の強い支持を受け、民主化要求の壁新聞運動に発展した。それは同年末の党中央委総会(3中総会)で改革派を勝利に導く「院外活動」の要素があり、トウ小平氏も当初は壁新聞を支持していた。2 m+ Q/ R/ t: \) K+ P
ところが、当時、過激な文章を次々に発表していた魏京生氏がトウ氏に批判の矢を向けると、トウ氏は逮捕を指示する。- W5 i Z/ F( n6 N! b
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当時、胡耀邦氏のブレーンで、毛派との理論闘争に活躍した阮銘(げんめい)氏(台湾在住)は、魏京生事件について、産経新聞の取材にこう話している。 9 r* @9 b) `5 C7 s9 Y5 \7 M- c7 [2 F7 T1 E
「魏京生逮捕後、胡耀邦は厳罰は望んでいなかった。懲役15年の判決と聞いて驚き、胡に問いつめると、資料は直接、トウの元に行き、トウ小平自ら(量刑を)決めてしまったので、なすすべがなかったと言っていた」 4 V F- g* t) q" s: a; A1 Z/ V ( L' I/ S+ z, U7 i トウ小平氏の政治理論の神髄である「4つの基本原則」は、魏京生氏逮捕と時を同じくして打ち出された。トウ氏の言葉によれば、その核心は「党の指導」、つまり一党独裁体制の堅持にある。「独裁か民主か」と問い、トウ氏を「新たな独裁者」と攻撃した魏氏が、4原則を生んだともいえる。, a5 M9 e% T Q& I. @" l
/ A2 P- S7 `. B. K t7 C 天文物理学者の方励之氏の公開状は、改革派知識人を刺激、政治犯釈放や民主化要求の公開状が相次ぐ。その背景には、前年秋、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が価格改革の失敗を理由に実権を失い、保守派の李鵬(りほう)首相らによる引き締めが強化されたことがあった。: s8 M7 b& d. C' s% U( R7 Z- ^) d
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それより前、知識人が警戒心を持つ出来事があった。テレビドキュメンタリー「河殤(かしょう)」問題だ。 * B3 q+ I" h/ e' T2 _+ v. S6 M0 `! R ) X* V! D' Z9 g/ N) T; E* O 中華文明の封建制や暗黒面を描き、改革を訴えた作品(全6回)で、国営中央テレビが6月中旬に放映、大反響を呼んだ。 & ` A) d, g% N2 J& d2 C$ e9 }$ ?8 p- R/ ^( J# `2 H
中国のメディアも絶賛したが、7月に入ると、風向きが変わり、批判が始まる。保守派の王忍之(おうにんし)氏が部長を務める党宣伝部の指示で、再放映申請は却下されたが、趙紫陽氏は作品を絶賛、ビデオ作製を許可し、上海テレビなど地方局の放映を黙認した。 / d. s% x7 d% W( ^. {; E) I6 v- l& k' |$ h) m1 D$ l! ~' @
これに激怒したのが保守派長老の王震(おうしん)国家副主席だった。王氏は「中華民族への侮辱」などと攻撃、趙紫陽氏を「総書記の資格がない」と罵倒(ばとう)した。王氏の趙氏攻撃は9月以降、さらに激しくなった。 # J) p, A8 a, n# o 8 f$ _3 C: F$ z- p6 Q5 _* j中国では、文芸作品はしばしば論争の種、政争の道具になる。河殤問題は知識人層に危機意識を募らせ、政権批判へと発展した。そして方励之氏の公開状は、保革対決への導火線になるのだ。(伊藤正) 6 h Q3 J- i6 n% x9 e5 K◇" z$ u8 j5 r# _7 u1 `
【用語解説】文化大革命2 ^3 \0 s% K+ f, k6 K' f: L: m
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1966年、毛沢東中国共産党主席の主導で始まった政治、思想、文化闘争。古い文化を破壊、理想社会を目指すとのスローガンを掲げて大衆を組織し、あおられた学生や労働者が古参幹部、知識人らを迫害する弊害を生んだ。毛死去(76年)に伴い終了。81年の党中央委総会で「災難をもたらした内乱」と位置づけられた。 : l) |# J1 D) v) s# [ # a+ [4 I& n& Q+ w◇ 5 _9 V r4 h9 ~& y【用語解説】魏京生事件, E$ Q j: ]$ C1 x+ l8 h
3 f( b' f2 f' r" O2 N 1978年秋、北京市西単を舞台にした民主運動の旗手、魏京生氏が79年3月に逮捕され、後に反革命扇動罪などで懲役15年の判決を受けた事件。壁新聞による極左攻撃が主流で、トウ小平派を援護したが、トウ氏が権力を握った後、魏氏は「毛沢東と同じ血にまみれた独裁者」と批判、トウ氏の怒りを買った。魏氏の逮捕で運動は下火になり、壁新聞もその後禁じられた。 , K/ q% i n- p3 Q( j' ^& q2 D' w3 B, Z" F. X! \; J# W% Z
(2007/02/17 08:18)
. I$ X8 @1 V' t N* L 李锐在信函中除指出邓力群是一贯反对改革开放的极左主义者之外,并暴露他在延安时代曾私通自己太太的恶行,反对邓力群担任中央的职务。邓小平经由赵紫阳获得此信后指示:一,解除邓力群的职务;二,让邓力群成为政治局后补委员;李锐不要对邓力群进行报复。 } g7 n# T( K3 b
邓小平改变了整个世界 - \+ ^9 M5 t# R$ d& Q8 |$ r- |# r 6 O4 R0 V8 F( C- D, s0 a英国《泰晤士报》驻京记者发自北京,题为《中国缅怀改变世界的人》 0 Q8 t3 p E. Y上世纪70年代邓小平复出的时候,中国最高的建筑物是18层的北京饭店。如今,53层的京广中心高耸入云,而且,到了2008年,高330米的国际贸易中心将超越京广中心,成为北京最高的建筑物。要不是邓小平决心实行对外开放和透过进行经济改革摆脱贫困的话,中国的建筑物或许依然不会很高。 . @5 i; `1 a# G6 ~' S ( Z# ^2 I' y2 ]2 T" E, V 不过,尽管邓小平在改变中国的过程中起到了如此关键的作用,但对邓小平逝世10周年的纪念很可能会像他本人一样低调。今天是邓小平逝世10周年纪念日。 , z: M1 z6 J% F: d& d! u5 E' B; q8 k0 W
她的女儿邓榕回忆说,父亲不茍言笑,沉默少语,但是他非常疼爱孙子孙女,孩子们放学后,他有时会让他们到办公室一起看动画片《猫和老鼠》。 # q' g1 g- e, d/ T5 n; }
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邓榕在接受本报记者采访时说,她的父亲话不多,但总是面带笑容。邓榕说:“在看见孙子孙女时,他高兴得都笑眯了眼睛。” + F& T& j& t9 N/ ~ * P% G2 d' b1 q" D h( c 生前,邓小平就表示不喜欢举行追忆活动。在他逝世后,家人把他的骨灰撒入了大海。 9 L4 X4 q" E* f! _! D: ?
; Z+ I4 z: R% Q+ U6 I/ E/ | 邓小平有5个孩子,邓榕排行老四。 & t& Q5 a. C8 V J
% b* V2 M9 a c+ c* U) G6 K' ^+ B 她认为,父亲当年最大的困难是让很多同事明白中国到了该改革的时候了。 4 N7 {! E" @! M6 l1 P
' V- q8 \# }& Q& [- A0 c 她说,邓小平解放了人们的思想,这非常重要。过去,中国闭关自守,不接受市场经济。“今天我们以为这很容易,但当时确实很难。” 6 {7 b1 Y2 ` ?; B S8 U! a; ?/ a# i. b
在三次政治运动中起起落落的邓小平,是一个务实主义者。当时,他曾被下放到江西省一个偏远地区的拖拉机厂劳动。 6 y. H8 ]9 ~+ ?: B c3 P 0 k0 D* W0 X9 {: `3 k$ L8 H- ^3 \5 t 邓小平把自己的政策描绘为“有中国特色的社会主义”。10年前,悼词说他是中国社会主义改革开放和现代化建设的总设计师。如今,他作出的从指令性经济转变为市场经济的大胆决定正在改变整个世界。 ; @5 ], ?, p( p2 r- }+ g B. M7 o, p; o
香港科技大学中国问题专家崔大伟说:“他使中国对外开放,并把中国纳入迈向21世纪两个大国之一的轨道上。这是邓小平留下的惊人遗产。他是一位坚毅的人。”) d5 N8 }/ T* I$ h& e* T
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他说,邓小平作出的选择或许并非总是最佳的,但他作出了使中国变成今天这样的选择。 + B1 M& U: Q, ^% @8 b% w2 w # P' ]" g: g$ L2 {: F! D# J7 w5 J 在邓榕看来,与其说父亲是一位决策者,还不如说他是一位设计师。 & n% t, X, Y2 J( b% b' @& y& T8 f
邓小平说自己是乐观派。他喜欢中午喝一小杯白酒,这有助于午睡。因为年轻时曾在法国勤工俭学,因此他喜欢羊角面包和法国红酒。 4 J) ]; U! S9 z) E 9 v$ g9 |+ G8 W5 B8 }7 [, I4 l- t; D2 W# `$ [* D3 u
9 G1 N z' b" ?9 l6 Y* uChina honours man who reshaped world * w% G: z' Z) m) E& k7 \4 t: b8 nWhen Deng Xiaoping came to power in the late 1970s, the tallest building in China was the 18-floor Beijing Hotel. Today the Jingguang building soars to 53 storeys and by 2008 will be eclipsed by the 330-metre China World Trade Centre. 0 C2 T6 [$ x5 N% ~5 e . I0 k: U0 n9 y2 Q) L/ B# tChina might still be low-rise but for Deng’s determination to open the country after decades of isolation, and to try to end grinding poverty by forcing through market-style economic reforms. ) ~. j/ D7 s J% W; k ~0 D0 e
) Z0 [( m) z3 x4 LBut despite his role in reshaping the nation, the memorials for Deng today, the tenth anniversary of his death, are likely to be as low-key as the man himself. 9 P" [" @. d" c* } % K$ K" ^6 a' R; h5 x$ R) |! F9 UHis daughter reminisces about a father who was restrained, almost taciturn, but who loved to invite his grandchildren into his office to watch Tom and Jerry cartoons after school. . s1 Q1 d, d/ D% H; N o( O0 U) O- A
“He spoke little, but smiled a lot,” Deng Rong told The Times in a rare interview. “Whenever he saw his grandchildren he smiled so much that his eyes crinkled up with delight.” E* e9 K. f3 \1 d8 z9 f( X7 {8 B" R
Memorials were anathema to a man who, before his death at 92, had seen at first hand the damage wrought by Chairman Mao’s cult of personality. He told his family they might as well flush his ashes down the lavatory. Instead, they were scattered at sea to frustrate plans to use his name as a rallying point. * o b$ ]. S5 ]# ^; z; D
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Ms Deng, 56, the fourth of Deng’s five children, believes that his toughest task was to convince his left-leaning revolutionary colleagues that it was time for China to change. , I7 A! P' Y! t( p0 U5 a3 ?/ W0 `% q4 A( c( |$ P$ x' E% A
She said: “He liberated their ideas. This was fundamental. In the past, China was closed and walked with bound feet. It couldn’t accept the market. Nowadays we think that this was easy, but then it was really difficult.” & b4 Y' r: O/ c# x% q, y
3 W) }/ M7 _) [6 a% {
Nicknamed the Rubber Ball for bouncing back to power from three political purges, Deng was above all a pragmatist. Mao branded him the “No 2 Capitalist Roader” during the ultra-leftist Cultural Revolution of 1966-76 when he was banished to a remote part of Jiangxi province to work in a tractor factory. But Mao may have been right. . p" N. W' w4 q8 [# k - t, g* C# F1 y! ]9 N4 B# f' J: MDeng described his policy as “socialism with Chinese characteristics” — effectively a euphemism for capitalism Chinese-style. A decade ago, obituaries described a leader who changed the face of China. Today, his daring decision to transform his country from a Soviet-style command economy is reshaping the world. ; Q' S3 b: X! w5 Q; [
/ t6 S% Q. ?7 y
David Zweig, a China expert at the Hong Kong University of Science and Technology, said: “Here is a guy who opened up the country and put it on course to where it will be one of the two world powers of the 21st century. That’s an incredibly strong legacy. He was a gutsy guy.” / {9 U3 ?/ Q0 R& p8 Z( { & D* j7 z* J2 p! V2 s% R1 LHe understood that his decision to send in troops to crush the 1989 student-led Tiananmen Square demonstrations would lead to international opprobrium, but calculated that the world would be back. 3 n5 \8 G+ G m5 t% E
5 C- s" C7 q/ W$ o9 }" iMr Zweig said: “He may not have made the best choice always, but he made the choices that helped to turn China into the power it is today.” & n, i3 \% j! P / ?) }' I1 l0 A O& a2 QMs Deng sees her father as more of an architect than a policymaker. ; O5 K/ W- B& J4 W* O
) g: ^/ X+ `; b+ K: q8 O9 L
But he described himself as an optimist. He was never averse to a glass of strong grain liquor at lunch — it helped him to nap — and he retained a love of croissants and French red wine acquired when he studied and worked near Paris in his late teens. 1 H+ W2 T: {4 F& S1 E8 _! s9 I8 a" [
His daughter says that his most difficult task was to overhaul the system of lifelong tenure for the elite. “He ended power-for-life for leaders, replacing government by man with government by law. I’m very proud to say that my father was the first leader in Chinese history who retired while he was still in power.” 6 J' a/ N3 q) C* G1 s 0 i; D% o0 R' x" X: MLong road to riches B: k" R5 V% |: M 1 X) {$ j. x$ ~ ]Now & j H% J5 G7 S' d3 n$ p" Q! z * t) s+ v, P( s4 W, Q! X* bPopulation in cities: 550 million % l$ H& O9 s2 G* D: V; R7 Y9 P) ~( c# @
Gross domestic product: $10 trillion 1 v6 g5 {$ e1 L G* ~
/ z4 x8 L0 Q8 P# o* }7 E1 O9 F5 K) U
Oil consumption: 6.5 million barrels a day 9 p) f3 _( U0 e5 O" r
+ B0 H3 D- _7 ?7 d
Exports: $954 billion 9 }3 Y& B# r. `) ~1 h7 Y" i( N. c$ q' i4 ?
/ F. s* X; |& {5 W4 EPopulation below the poverty line: 130 million " ~# |5 f2 T3 w) T
* ^- P" D1 r& A( L) ~Ten years ago 9 ]4 S3 t9 C. F' W8 @) x : A' r6 q1 n. S' s& z0 jPopulation in cities: 370 million # g% g$ o3 I8 N* i0 Y" l
% ^; h/ g2 T4 |8 k. h
Gross domestic product: $4 trillion & @% B' T; N) n! `4 b7 `# o
( m+ z0 A' `, V5 W7 w8 {$ i+ |Oil consumption: 3.9 million barrels a day / z+ R( f' c7 z3 u* r ; {* T8 `2 V& ^9 }Exports: $182 billion : o9 w+ ]( [; u/ y4 Q" X8 O" A5 f! J r, X
Population below the poverty line: 120 million # \ D, F1 k _3 c
9 ^) a5 T, r. H) zSources: CIA, World Bank, Earth Policy Institute, news agencies 2 {4 @: D, \' ^7 T+ C' y $ ?0 g8 y) }- S" f5 `- y0 z( Y' D& p
“要不是邓小平决心实行改革,中国的建筑物或许依然不会很高...”图为92年邓小平南巡。 % A5 z: C$ J e7 ` ) n5 i; o" M4 w9 T[ 本帖最后由 日月光 于 2007-2-22 09:47 编辑 ]作者: 日月光 时间: 2007-2-22 09:46
邓小平秘录:赵紫阳认为中国需民主政治 Q- }/ _; j3 r7 Z( x
7 a _* Q: `+ \4 K: c- Y' D
(中央社记者张芳明东京二十二日专电)日本产经新闻连载中的“邓小平秘录”今天报导,赵紫阳对于中国的政治改革,认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根,邓小平表示同意,只反对引进西方国家的三权分立,后来由于物价改革引发的风波,造成担任党总书记的赵紫阳失去实权。文中指出,赵紫阳担任党总书记时代的政治秘书鲍彤由于一九八九年天安门事件而系狱七年,出狱后曾向二零零四年十月在美国哥伦比亚大学召开的“赵紫阳与中国改革”研讨会提出文章,文中指出赵紫阳曾在政治局常务委员会上向与会者请教“何谓社会主义?” : J) h" a. D+ g6 g! d& o- e/ E6 Y, q
赵紫阳这项发言显然是针对保守派重镇陈云嫡系的副总理姚依林而发。他的发言受到以马克斯主义作为后盾的保守派干涉而表示不满,发言加以讽刺。 0 e# }2 f1 F0 ?6 Y. Q+ F9 w s6 \# J0 L) t9 P3 p* s
赵紫阳由于一九七零年代后半在四川省农村改革展现实绩而于一九八零年被提拔为总理,他和邓小平在推动改放,保障人民衣食住丰足的看法相同,但两者在政治改革有微妙的不同。 s4 ?; C5 Q( f, P . }0 ^' K/ q0 v( o" w1 A鲍彤在前述的文章中指出,邓小平曾于一九八六年询问赵紫阳对政治改革的看法。邓小平主张在党政分离、机构精简化和官僚主义等的改革只限于提高效率和增加生产作为目的,赵紫阳则认为为了国家长期安定,有必要确立民主政治和根除文革重现的根。 7 n' p" T9 Z3 p/ X# L4 G) ?. z; i/ c! t& J1 C5 A2 [
鲍彤在文中指出,邓小平对赵紫阳表示同意,但是,加上一句话“不要有西方国家的三权分立。”赵紫阳在十三届党大会的政治报告加上邓小平的这句话,其余内容则完全未加以修改。3 j, z6 k( k5 ^
% |% n, y! g. X M, p* q7 `赵紫阳以邓小平的信赖作为后盾,全面推动改革开放,一九八八年三月召开的全国人民代表大会,就任总理的李鹏的活动报告内容清一色是改革开放,并提到物价改革的必要性。当时,中国有国家的统制价格和市场价格的双重物价制度,引起日增的不满,邓小平决定加以自由化。 2 m2 I! E) Y+ z, X/ j: m9 x& R. Q+ [! V/ f' N
一九八八年五月,中国开始肉类等四种食品的价格自由化,结果引起抢购的现象,不过,邓小平还是示意推动。八月十五日至十七日,党政治局召开大会,完成有关“价格改革和工资改革初步案”,十六日赵紫阳还自信满满地对一个日本媒体代表团表示物价改革的决意。 / n% C7 _+ t: B$ f& `2 o1 @/ v 7 z. R7 g2 l& H7 u% m未料,十九日国营电视台播放政治局的决定后,全国出现抢购的情形及大量前往银行领取存款的举动,赵紫阳为此全面负起责任,在九月下中旬的党中央委员会大会把经济政策的权限交给李鹏总理和姚依林副总理,此事发生在他被选为党总书记还不到一年。 + e7 H& ~) j# P# [- E2 |" q7 c3 Y# E9 q) d% R
【トウ小平秘録】(9)第1部 天安門事件 劉トウ路線 「社会主義とは何か」 , c* E8 L1 M. C 0 T0 T0 c. C2 z! c, V# p趙紫陽(ちょうしよう)氏の総書記時代の政治秘書だった鮑●元党中央政治体制改革研究室主任は天安門事件(第2次、1989年)後、刑事罰(懲役7年)を受けた唯一の党高官(中央委員)として知られる。釈放後しばらく沈黙を守っていたが、数年前から海外メディアなどに「真相」を語り始めた。/ y1 q4 S; w w
4 `# S2 p8 e" N* z2 m! X% }
2004年10月、米コロンビア大学で開かれたシンポジウム「趙紫陽と中国改革」に寄せた文章で、趙氏について「分からないものは分からないと言う、徹底的な実事求是(事実に基づき真実を追究する)政治家だった」と、次のようなエピソードを明かしている。 ' c9 q3 C0 t1 \; H! u0 _1 b$ b h, p 5 G* g- R/ h/ L7 R/ l' U$ c$ ~ 「(87年10月の13回党大会で総書記に就任した)趙紫陽は政治局常務委員会で、『社会主義とは何か。だれかはっきり言ってくれないか』と教えを求めた。そして大まじめで言った。『私にははっきりしないのだ』」(陳一諮ら編「趙紫陽與中国改革」明鏡出版社、05年) 3 s0 n! M" @! z" o+ ]1 t 5 s; h1 z/ n( O) x# E4 z& ^: B この言葉は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任直系の姚依林(よういりん)常務委員(副首相)に向けられたに違いない。ソ連にならった社会主義が失敗、その経験を教訓に改革・開放に転じたのに、なおマルクス主義教典を盾にあれはいかん、これはだめと干渉する保守派への皮肉だった。 6 r" }! h% G/ C$ | U+ P: t0 t, c( N2 a' {
趙紫陽氏は70年代後半、四川省党第1書記時代に同省の農村改革で実績を上げ、80年に首相に抜擢(ばってき)された。それまではずっと地方におり、とりわけ前後二十数年に及んだ広東省時代に、趙氏の改革理念を形成する経験を積んでいる。その中にはこんな例がある。6 o. [: e3 A) w, u+ I @* I8 |' I
: ?) x2 D9 H7 F" n 中国が空前の食糧不足に陥った60年代初め、広東省の農民らが香港に不法越境する事件が相次いだ。英国政府の抗議を受けた中央政府が取り締まり強化を指示した。9 g( h) i& m5 W3 b0 F6 \$ G6 N
% Y6 G5 B+ [* y D5 D しかし同省第1書記だった趙紫陽氏は、農民を食わせられない自分たちにも責任があるとして、香港から送り返されてきた越境者を処罰しなかった。そして農民の労働意欲を引き出すため、62年に「3自1包」と呼ばれた個人生産奨励策を積極的に推進、食糧危機を克服した(趙蔚「趙紫陽伝」中国新聞出版社=89年=による)。1 a- c G2 S0 E5 A
4 l: G: S2 v4 U* j# Z& T この3自1包を打ち出した中心人物が、当時の劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とトウ小平(しょうへい)総書記だった。66年からの文化大革命で、資本主義の道を歩む劉トウ路線と攻撃され、趙紫陽氏も批判されている。国民に衣食住を保障し、豊かにするのがなぜ悪いという考えこそ、トウ小平氏と趙氏の共通点だった。 3 S" \% o N3 h% D# U# B9 c# z& h. n F
しかし、政治改革では両者には微妙な違いがあった。 ' J% @1 q" w' R2 ?0 K5 W) c# h, C+ k! ?* |2 L$ ~; A7 k3 t
≪パニック買いが起きた≫( L$ q8 b% i# R1 L4 K
3 \% R$ Q9 c5 Z1 C9 n
ともに改革・開放を担ったトウ小平氏と趙紫陽氏の微妙な違いとは何か。- l( g" _6 n$ ^4 s2 S
: L' |" {5 p/ T( ^( f4 w9 V. _ 趙氏の政治秘書だった鮑●氏の先の文章によると、1986年に政治改革についてトウ小平氏が趙紫陽氏に考えをただしたことがあった。トウ氏は党政分離、機構の簡素化、官僚主義の克服などの改革を、効率を高め生産を向上させる目的に限定していたが、趙氏は国家の長期安定には、民主政治を確立し、文革再発の根を絶つ必要があると考えていた。 1 x8 {4 J1 f1 V* F# [$ K " l2 f! h6 s- f5 k1 m 「トウ小平はそれに同意したが、一言付け加えた。『西側の三権分立はやるなよ』と。紫陽は(13回党大会の政治報告に)それを加えたが、それ以外は一切修正されなかった」(鮑氏)& F0 `5 K* b9 m
! `+ p$ x7 K9 H U+ E! X* W
トウ小平氏の信頼をバックに、趙紫陽氏は改革・開放を全面的に進める。88年3月に開かれた全国人民代表大会(全人代=国会)で、首相に就任した李鵬(りほう)氏の活動報告は、改革・開放一色の内容だった。その中で李氏は価格改革の必要に触れていた。 e0 U3 b: N9 F. P7 d; W7 T" E6 v! j7 E
1 [4 |0 H2 J+ ]1 g
当時、中国国内では物価上昇への不満が募り、また「官倒」と呼ばれる官僚らのブローカー行為が社会問題になっていた。その要因は国家の統制価格と市場価格の2重価格制にあり、それを解消するため、トウ小平氏は価格の自由化を決断する。! Y, a1 p& Y; ]$ K; {9 R
2 a8 y: Z* G J6 L R3 F7 l* G
5月に第1弾として肉類など食品4品目の価格が自由化されたが、人びとは買い占めや買いだめに走り、市場では商品不足と物価の急騰を招く。しかしトウ氏は、その月訪中した北朝鮮代表団に「通り抜けねばならない難関であり、危険を恐れず、大胆にやれと同志たちに告げた」と話した(「トウ小平文選」第3巻)。 # h, t& ^; f: T, x+ m! B1 l . ]' d, `0 K0 i. }# V% e4 ^: A 当時は毎年夏、河北省の避暑地、北戴河に長老を含め指導者が集まり、重要な会議が開かれていた。その年の北戴河会議は物価問題で議論が沸騰した。8月15~17日に政治局の全体会議が開かれ、「価格改革と賃金改革に関する初歩案」がまとまる。" O- w- W( g$ n! n4 z: [
! [, D! Z) n4 W7 a# F/ A% h その最中の16日、私も加わった共同通信代表団と会見した趙紫陽氏は「価格改革は断固やり通す」決意を表した。趙氏はリラックスし、満々たる自信をのぞかせていた印象が残る。 - m/ {3 F1 Z2 _( C9 z1 ?( A9 b' q& {/ H& u$ E2 o/ n# n
ところが19日に国営テレビが政治局の決定を放送したとたん、全国でパニック買いが起こり、銀行には預金引き出しの人びとが殺到する騒ぎになった。 5 o H6 [+ s9 D; w+ X & ?. p, e1 y% ^- W0 U# d 趙紫陽氏はその全責任をかぶり、9月下旬の中央委員会総会(3中総会)で、経済政策の権限を李鵬首相と姚依林副首相に引き渡す。それは趙氏の実権喪失を意味していた。総書記に選出された87年秋の13回党大会から1年もたっていなかった。(伊藤正) # C* P; C4 l, q" g, `( M 6 _! n( E" g9 c/ q% W' S ◇ $ a, ~7 G+ F9 c O% D ! ?- \# N5 R% X/ M【用語解説】3自1包% x3 q6 u, E3 K; T! b2 y$ }
5 |1 ?2 N7 w" U* T: N
自留地(農家に与えられた小規模の土地)、自由市場、損益の自己責任制と農家ごとの生産請負制のこと。集団所有の人民公社制度の下で労働意欲が減退し、深刻な食糧危機を招いた1961年、劉少奇氏らが打ち出した生産回復策。農民のやる気を引き出し、大きな効果を上げたが、文革で資本主義路線と批判された。; u/ n) H. Y, q3 U! N1 C
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◇8 [0 K" P( {" K- k
2 i9 C9 l* H% X P0 x) v* |: n/ x
【用語解説】北戴河会議 % O+ q* q" C) L' a4 N: O/ c4 H! U / k% I( ?5 x( d( L* z 北戴河は渤海湾に臨む河北省のリゾート。新中国発足後、新旧の指導者が毎夏、ここに静養をかねて長期滞在、重要課題について意見交換し方針を決める各種会議の総称。9月の中央委員会総会での正式決定に先立つ意見調整の場になった。89年は天安門事件で中止、胡錦濤政権は新型肺炎の影響で03年の会議を中止した後、04年以降も開かないと決定している。# s4 D6 m' S! Y- G8 m
$ E* Y) l" Q; c& ^) e●=彫の周が丹. V1 O b" m; g* { O9 ~) T1 Y
& L5 v- E/ S Q: P, K* C. R
(2007/02/22 )
邓小平秘录:邓对赵紫阳发警语说中国不能乱& q. i1 P [' l9 E
(中央社记者杨明珠东京二十四日专电)1 u- C( [" a, G3 E
( A' {* l, \7 \( ~
日本产经新闻正在连载的「邓小平秘录」今天报导,一九八九年三月四日身为中央军委主席的邓小平与总书记赵紫阳会谈,其中提及「中国不能乱」一事,等于是邓给赵的警讯,这也成了邓、赵两人的最后对话,四十二天后改革派前总书记胡耀邦猝死,引发天安门事件悲剧。 0 F9 F) \, |; N7 [1 Y6 C" g: V + u! q' h, _% v M秘录中提及,中国前外长钱其琛于二零零三年所出版的「外交十记」一书相当出色,其中透露了一九八九年天安门事件(第二次)之后的七月初时,美国总统特使史考克罗密访中国的内幕。文中指出,美国总统布希盼邓小平理解他所承受来自国会的压力,要求邓小平能软化强硬的姿态。 ( D5 Z0 E, ^% x. U3 j& }4 ]2 K$ m ~" f0 d! ~
但是邓小平直言,中华人民共和国的历史若加上抗美援朝的二十五年间,牺牲了两千万人的性命才好不容易获胜,中国的内政不容外人干涉,任何势力都无法取代中国共产党来领导中国。2 T: Q" u7 l/ `* t
4 I) H: w: w' Z8 Z
产经刊载的秘录说,这是邓的绝对信念,与中国保守派元老看法相同,所以必须镇压足以危及一党独裁的要求自由化、民主化声浪。一九八八年秋天以后,改革派因不满赵紫阳失权而动作频频,共产党内于是开始出现将赵拉下台的动作。" |. o3 [0 q! T- F+ b
! l/ r1 B1 v/ Z T2 _3 e) r
秘录中提及,邓小平于八九年一月二十一日从北京出发赴上海,期间与政治协商会议主席李先念密谈。二零零四年出版的「邓小平年谱」写说邓、李于一月二十三日会谈,但未写出内容。秘录中说,邓停留在上海直至二月十六日,期间做了重大发表,亦即苏联共产党书记长戈巴契夫将于五月访中,此事对六四天安门事件具有决定性的影响。 7 H; T& T- O8 c4 t$ V2 f. V( q( O+ A3 M- _0 h' _3 Z
秘录也指出,八九年二月二十六日邓小平与来访的美国总统布希会谈时,表明「压倒一切才能安定」,这也是后来上台的江泽民政权的口号。此事收录于一九九三年出版的「邓小平文选」第三卷,其中言及避免对毛泽东晚年的错误做过度的批评,因为否定毛泽东形同否定他所建立的共产党中国。. V% m# K: y* _0 D9 J, m4 \! G
- l& e' f) t; i5 I E
秘录说,「邓小平年谱」写道当年三月四日邓小平将赵紫阳叫到自家会谈,「邓小平文选」也以「中国不能乱」为题收录,只是注中写的是「与中央责任同志的谈话」。 2 F' b# |2 j7 b# p# F 6 g8 p- j) G1 O7 y; c$ P秘录写道,邓小平是在对赵紫阳发出警语,告诉他说实施现代化也好、改革开放也好,最重要的是安定。邓小平说,中国不能乱,若三百六十五天搞示威,什么事都做不了,外资也不会进来。2 B4 {% m; f/ K! v0 f3 g
% P" d6 X, @% I# b# a6 H
秘录说,邓小平并非对赵紫阳完全失去信赖,但这番话却成了两人的最后对话,在这四十二天后,改革派的前总书记胡耀邦猝死,悲剧就此开始。2 ^' M9 |/ z6 [
% X5 R3 X2 Q, E: V, c6 ?【トウ小平秘録】(11)第1部 天安門事件 最後の会話 1980年代以降の中国外交を担った銭其●(●=王へんに深のつくり)(せんきしん)元副首相が現役引退後の2003年に刊行した「外交十記」(世界知識出版社)は、内容の豊富さにおいて、元高官の回顧物では出色だ(以下、肩書は当時)。 : U# i; P8 i( t( b) p' p0 P' `3 L% g1 S
その中で、天安門事件(第2次)直後の89年7月初め、スコウクロフト米大統領特使が極秘訪中した内幕が明かされている。ブッシュ大統領(現大統領の父親)は、対中制裁実施を要求する議会の圧力を受け、中国側に強硬姿勢を軟化させようと特使を派遣したのだ。 ; z5 d, D" M4 i$ N* m ' G, ]2 \. P, _' L , L- ]- E3 r. e& k$ p「中国は乱を許さない」6 _+ B K( i7 P: ^& o7 G0 f- k/ [
7月2日、スコウクロフト氏と会談したトウ小平(しょうへい)氏は、大統領が置かれた厳しい状況の説明を聞いた後、きっぱり言った。4 q9 Z( q' \+ [8 D8 r2 q# B1 J
& v" E. P% E* S% D7 r 「中華人民共和国の歴史は、中国共産党が人民を指導し22年間、抗米援朝を加えれば25年間戦争をし、2000万人以上の犠牲者を出してやっと勝ち取ったものだ。中国の内政にはいかなる外国人の干渉も許さない。中国ではいかなる勢力も中国共産党の指導にとって代わることはできない」- t5 K$ ~! J, J/ e
5 Z! Q7 P4 m6 q/ o! Z8 i 「共産党の中国」はトウ小平氏の絶対的信念であり、保守派長老との共通点でもあった。一党独裁を危うくする自由化や民主化要求を抑圧してきた理由だ。% n r& j! ^* _, t
+ N2 p3 ~+ { l1 v1 R 88年秋以降、趙紫陽(ちょうしよう)総書記の失権に反発、改革派の活動が活発化する中で、趙氏降ろしの動きが始まる。* D' Z* k3 F! J f
! ~2 M( T Y( H" N$ m 89年3月6日付の毎日新聞朝刊は1面トップで次のように報じた。 3 i6 a- ~( w& l/ T0 P' _ ( E1 O+ |9 p* V' @& i, ^1 Q" c 「北京の消息筋は5日、今年2月の春節期間中に上海で最高実力者、トウ小平・中央軍事委員会主席と李先念(りせんねん)・政治協商会議主席が秘密会談し、李主席が趙紫陽総書記の退陣を迫ったことを明らかにした。李氏は『趙総書記のやっているのは資本主義だ』『陳雲(ちんうん)顧問委主任の考えが正しい』と述べたが、トウ氏は不快感を示したという」 ) D4 g. P4 U. K& C9 t$ q& v; W s: r
私もしばらく後、ほぼ同じ情報を入手したが、トウ・李会談の事実さえ定かでなかった。それが04年に刊行された「トウ小平年譜」で確認された。 2 X, W: u6 {& @$ L9 ^ . v: O% I+ i. U$ p' G$ } それによると、トウ氏は89年1月21日、専用列車で北京を離れ、22日上海に到着。春節を上海で過ごすのは例年のことだった。「年譜」には翌23日、「李先念と会話」とあるだけで、内容には触れていない。 8 ~; j7 y: [/ L ^3 d t: U& }8 l4 S+ s; ]; S
当時の取材よると、トウ小平氏は李先念氏が「長老の一致した意見」として要求した趙氏の解任に同意せず、「代えるべき適任者がいない」と擁護したという。李氏との意見対立も、趙氏擁護も公表には不適と判断されたと思われる。. p6 f; q f5 M0 B
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トウ氏は2月16日まで上海に滞在した。その間に、4カ月後の天安門事件(6月4日)の展開に決定的な影響を与える発表があった。 [6 p+ [4 L$ ^4 Q! C, y3 g$ ?1 r* P3 d/ T9 E- {6 Z* u5 |
ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の5月訪中である。2月4日、トウ氏がシェワルナゼ外相と会談した後、やっと合意に達した重大事だった。 " C9 {" Y' p3 ~4 f& {7 F! ~9 G, ^* H 9 `/ J7 c: f K! a, K/ ]. Q 「外交十記」は、82年3月のブレジネフ書記長のタシケント演説にトウ氏が着目し交渉が始まった経緯を詳述している。トウ氏の中ソ関係正常化への熱意は強烈で、ゴルバチョフ訪中による正常化を花道に、完全引退する考えを固めていた。# P; E. G9 Z/ ^( q# i- r' o
; u4 e0 s7 S6 _" n E
89年1月初めに天文物理学者の方励之(ほうれいし)氏が民主運動家、魏京生(ぎきょうせい)氏の釈放を要求する公開状を出して以来、知識人や学生の民主化要求の動きが強まったことや、訪中したブッシュ米大統領の夕食会に方氏夫妻が出席を阻止されたことは本連載の前半で書いた。. _+ w/ V% F, i& S! s6 i! r
/ o$ T- w6 n8 w) A9 h2 G3 O 夕食会のあった2月26日の午前、トウ小平氏はブッシュ氏と会談した。そこでのトウ氏の発言は、後の江沢民(こうたくみん)政権のスローガンになる「一切を圧倒するのは安定」とのタイトルで93年に刊行された「トウ小平文選」第3巻(人民出版社)に収められている。" d: }+ o0 A, }( ?
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その中でトウ氏は、毛沢東晩年の過ちへの「行き過ぎた批判」を戒めている。その理由は「このように偉大な歴史上の人物を否定することはわが国の重要な歴史を否定することを意味し、思想の混乱を生み、政治的不安定を招く」からだ。" O( a# ?! ~/ t' z
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それはトウ氏の持論である。毛沢東を否定することは、毛がつくった「共産党の中国」、つまり一党独裁を否定することなのだ。しかし、毛沢東遺制の変革を目指す知識人たちは、批判の矛先をトウ氏にも向けていく。 . ]4 q5 O0 K' ~' |. q! I0 ~0 T $ Y8 m) Q. B. S 3月4日、トウ小平氏は自宅に趙紫陽氏を呼んで話す(「トウ小平年譜」)。「文選」には「中国は乱を許さず」のタイトルで収録されているが、注には「中央責任同志との談話」としている。 7 x4 K0 _$ a6 d2 N. i) ` k& `8 V. j) n* y4 X6 Q: a
「現代化も改革・開放もカギは安定だ。ブッシュに話したが、一切を圧倒するのは安定の必要だ。安定を妨害するものにはすべて譲歩したり妥協したりしてはならない。中国は乱を許さないとの信号を発しろ」 : M% j* D6 l+ x( B- u) t7 S, S% [3 n; U5 c: d
「違法デモを取り締まり、気ままにデモをするのを許すな。365日デモになれば何もやり遂げられない。外国の資金も来なくなってしまう」# y( j* q9 A# j1 ]( O! P" y3 E
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それは趙氏への警告だった。趙氏の改革派ブレーンたちの影響が知識人や学生のサロン活動を導いているとみられたからだ。トウ氏の趙氏への信頼が完全に失われたわけではなかったが、2人だけで会話したのは、この89年3月4日が最後になった。 1 \* N# ?5 M6 ~7 g3 I( h$ j/ \) _7 @
その42日後、改革派の胡耀邦(こようほう)前総書記が急死し、悲劇のドラマが始まる。(伊藤正) - h! T( N! {% [1 d& d& g0 [ {% K: ?2 ?) H
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5 n c' |9 y" \* D' k【用語解説】抗米援朝 3 y) } G+ m `2 ~; b4 h% }- t: O4 x. O / L$ S' r" Q. n. Q 1950年6月勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争の中国の呼称。米国に抵抗する北朝鮮を支援するという意味で、同年10月に中国軍が参戦、義勇軍を派遣すると同時に、反米・愛国意識を高揚する抗米援朝運動という大衆運動が組織されて以来、朝鮮戦争の呼称として定着した。現在でもよく使われる。朝鮮戦争は53年7月に休戦協定締結。 3 e9 w8 \3 ]! {8 E: G6 v$ B- C5 t, M0 Y& o
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2 B$ F1 x" L+ j1 y, E1988年12月、モスクワで会談する中国外相(当時)の銭其シン氏(左端)とソ連外相(同)のシェワルナゼ氏(右端)。中ソ関係正常化はトウ小平氏の長年の懸案だった
邓小平秘录:中共掌握王丹与李淑娴「谋议」 3 ?+ {" m% J2 u% }' Q9 z, i5 B/ N# L中央社 9 [9 x b' C9 y4 V3 O' n0 f ' i4 }* X5 k4 A G9 m 日本产经新闻连载中的「邓小平秘录」今天报导,中共保守派在学生发动示威至爆发天安门事件期间都一直认为学生背后有黑手在操弄,计画颠覆社会主义政权;中共资料显示,公安当局严厉监视学生运动领袖王丹的行动,并掌握中共宣称的王丹与方励之夫人李淑娴之间的「谋议」。 , W- \" j+ @' C) ]+ K 4 r! P9 W. n1 ?2 S: k 连载文中指出,在一九八九年四月十八日示威学生与中共警卫冲突的新华门事件后,中共保守派元老对学生极为愤怒,他们的不满传至最高领导人邓小平的耳内,邓氏虽告诉当时的总书记赵紫阳将出席胡耀邦的追悼大会,但视情势变化有可能缺席。结果,邓小平后来现身二十二日上午在北京人民大会堂举行的追悼大会。 ; y9 h9 s/ f9 r# |# U9 n. [9 b / O( O- E7 D. F9 h% y 中共保守派在学生展开示威运动后至六月四日的天安门事件期间,都一贯认为学生背后有黑手,有意利用学生来颠覆社会主义政权。但是,被指名为「黑手手下」的知识份子中有许多是在五月以后才参加运动的,而且是为了要求学生停止绝食抗议等行动,他们的行为和主张「有关当局捏造(不实指控)」大致是一致的。 , U$ a# x: V1 z! t! G4 w* _ 3 T D' g- c2 ]7 w9 W( D! D" a 秘录指出,四月二十日,党政治局员宋平和副总理姚依林面谈时指出,过去数天的学生示威已有明显的征候,天文物理学者方励之的行动非常活跃,学生的背后有部分另有居心者在操弄。 . v3 I7 l) Q+ t! m" ~0 }7 E0 A9 V! l/ z% r1 t# n
文中接著指出,当天为止,方励之并未有与学生示威直接关联的行动,公安当局掌握的是方励之夫人、北京大学副教校李淑娴和北大历史系学生王丹「谋议」。 ]2 m7 W y6 R% B q2 p0 }
. u- L! J. z B: e, h2 P# e! [8 d 北京市党委会在天安门事件后发表的「制止动乱纪要」中指出,胡耀邦死后两天的十七日,李淑娴在北大和学生讨论,呼吁发动示威,示威组织的中心人物是王丹。王丹于十八日上午在天安门广场演说,拟订包括恢复胡耀邦名誉等七项要求交给中国人民代表大会事务局,这些要求是事前和李淑娴商量后才决定,且事后王丹和李淑娴还相互联络。 / _ b/ ~) q' x/ m9 A+ H) M : j3 `' m* Q; {# b1 ]+ g, P 秘录指出,王丹和方励之夫妇的交情很深,包括一九八八年设立「民主沙龙」等,王丹受到方励之夫妇很强的影响。由「纪事」可看出,王丹受到有关当局很严厉的监视,但是,他并不在乎,继续发表演说呼吁示威、罢课和成立北京各大学的联合组织奔走,而成为学生运动的领袖。特别是二十日以后,随著大学之间的合作而提高保守派的警戒。* ~8 ?- L4 v0 i
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赵紫阳和保守派相比则显得乐观。张良编著的「中国六四真相」指出,赵紫阳的改革同志田纪云副总理在二十日上午和赵氏见面,指出不仅北京,连地方都有不稳定的情势,建议将预定二十三日的北韩访问加以延期。4 @- O" k6 Q. B( |* o( l
6 X$ v H \8 ] 赵紫阳回答表示,他虽曾考虑延期,但若改变日程,将会让外国怀疑国内政局不安定,因此决定照原定计画访问。赵氏于二十三日下午如期搭乘专用列车启程前往平壤,到三十日返国期间,中国国内情势已出现重大的变化。 / ^) J- }4 H1 @3 p' Y7 Q) a: c N
【トウ小平秘録】(14)第1部 天安門事件 追悼大会+ K: }! S5 j. m' T/ Y! {& ?5 S& L0 C
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. T3 x) b5 x' @8 N' U% f 1989年4月22日午前10時、北京の人民大会堂で故胡耀邦(こようほう)氏の追悼大会が挙行された。トウ小平(しょうへい)氏はじめ党、政府、軍首脳や各界の代表ら4000人が参加、楊尚昆(ようしょうこん)国家主席(肩書は当時、以下同)が司会し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記が追悼演説をした。& t* v$ _4 X6 T. C
3 m" t, r0 P8 i! \7 K9 T: N 演説は胡氏を「偉大なプロレタリア革命家」と呼び業績をたたえたが、「偉大なマルクス主義者」は使わなかった。2年3カ月前の解任事件にも触れず、学生たちが要求する胡耀邦氏の名誉回復はなされなかった。「ブルジョア自由化」の罪状は重かったのだ。' S8 E4 {6 f- y. T0 @* l: I
8 @! I8 c9 Z8 }/ W/ m8 H( s [ 北京市はその日午前4時以降、天安門広場への立ち入りを禁じていたが、学生たちは前夜から数万人が広場に入って座り込み、胡氏の遺体への告別を要求した。当局側が大会の実況放送を流すことで折り合ったが、胡氏のひつぎは学生たちの待ち受ける東門ではなく西南門から八宝山革命公墓に運ばれた。" Z+ x3 n" G5 ^" x
E6 e& m- E1 O3 u 「(周恩来(しゅうおんらい)追悼大会に欠席した毛沢東のように)トウ小平同志は来ないと思っていたが、トウ小平は毛沢東ではなかった。夫人や子女たちも一緒で、とても上機嫌に見えた。が、大衆の間の声望は以前の高さには遠く及ばなくなっている」 % M+ Y; C* V1 {- ~5 {$ t% F 7 `6 B5 B) y; o/ z5 F" [! b トウ氏は、追悼大会出席の意思を趙紫陽氏に伝えていたが、その後の情勢急変から欠席する可能性があった。張良編著の「中国『六四』真相」(明鏡出版社、以下「真相」)によると、学生デモが拡大するきっかけとなった4月18日の新華門事件以降、保守派長老たちの怒りはすさまじく、その声はトウ氏の耳にも達していた。6 s9 G8 F( s" Q; @( w. y
; Q3 b2 J. u$ @9 m) ~ 長老たちは「学生たちの背後に黒幕がいる」(彭真(ほうしん)前全人代委員長)「学生を利用する下心のある連中を暴くべきだ」(トウ穎超(えいちょう)前政治協商会議主席)などと、学生運動の背後関係に注目していた。姚依林(よういりん)副首相は20日、宋平(そうへい)政治局員にこう話している。 1 t/ H1 T$ r4 A& y" q 4 G. `/ g& z/ e3 }9 ^ 「今度の騒ぎは一部のブルジョア自由化分子が早くからチャンスをうかがい、(社会主義政権転覆の)計画をあたためていたものだ。彼らは学生の愛国の熱情を利用している。ここ数日の動きから、学生デモが動乱に変じる可能性がある」 8 t+ [6 Q/ a( `: ~( _6 S * B6 b1 H8 i& B9 h- Z これは、89年6月4日にクライマックスを迎える天安門事件の全過程で保守派側の一貫した認識だった。事件後に当局側が主張したように、社会主義政権転覆の陰謀はあったのだろうか。 # h! H: k- f1 Q i- m7 e; g % w& H" t- r2 v# L+ c 「黒い手先」と名指しされた知識人の多くが運動に参加するのは5月以降であり、それも学生たちにハンスト中止などを説得するためだった。知識人たちは「当局側のでっち上げ」との主張でほぼ一致している。 & i5 U; T$ M( L$ i! f2 L+ R4 P6 i9 e0 N3 q- m
この時の姚副首相との会話で宋平氏は「ここ数日の学生デモにははっきりした兆候がある。方励之(ほうれいし)(民主派の天文物理学者)らの動きは非常に活発だ。学生の背後で一部の下心のある者が操っている」と述べている。 9 [8 D. ~. [' E M- B5 ]3 F% X! ] & z, e1 y" D% z& ?6 ~ しかし4月20日の時点で方励之氏自身は学生デモに直接関与した動きはしていない。公安当局がキャッチしたのは、方氏夫人の李淑嫻(りしゅくかん)北京大助教授と同大歴史学部生、王丹(おうたん)氏との「謀議」だった。 * ]% E+ F2 g6 n9 Q " W& I. w, T3 E 北京市党委員会が事件後に出した「1989北京制止動乱平息暴乱紀事」(北京日報出版社、以下「紀事」)によると、胡耀邦氏が死去した2日後の17日、李女史は北京大で学生らと討論、デモを呼びかけた。デモ組織の中心になったのが王丹氏だった。$ _1 X& O; r. f. U+ F- ^
, ]/ r5 O! |, y9 b8 L8 G x 王氏は18日朝、天安門広場で演説、胡耀邦氏の名誉回復など7項目の要求をまとめ、全国人民代表大会事務局に手渡したが、その要求も事前に李氏と相談して決めてあったという。その後も王氏と李氏が連絡を取り合っていたことが「紀事」には列挙されている。 7 u' f# D& C; p 4 }9 B$ p1 k* k7 f. Y 王丹氏と方励之夫妻の関係は深く、88年に北京大の「民主サロン」を組織するなど、王氏は夫妻から強い影響を受けていた。王氏が厳しい監視下に置かれていたことが「紀事」から読み取れる。 1 Q$ g5 _2 `$ P1 i) o* Y1 {" U, D3 O, m + V, C! r u6 C) ^% N それには無頓着に王丹氏はデモを扇動する演説をし、授業ボイコットを呼びかけたり、北京の大学の連合組織結成を働きかけたりと休みなく動き、学生運動のリーダーになっていく。特に20日以降、大学間の連携が進みだすにつれ、保守派の警戒心が強まった。3 d- E$ N0 B8 M) e# w- C
邓小平秘录:赵紫阳误算保守派学运政策 ; r# m5 ^& m9 a& J 3 h7 Y( W* l# e* k! E, k' W(中央社记者张芳明东京二十八日专电)日本产经新闻今天在连载中的“邓小平秘录”报导,赵紫阳对一九八九年天安门事件前学生运动的看法和保守派形成对立,他认为学运发展有利自己夺回实权,未料到保守派对学运采取强硬对策,他的误算造成了后来自己的下台。 : S& E: ^9 R' L8 n g d8 T; y, J" _
文中引述张良编著的“中国六四真相”指出,一九八九年四月二十二日胡耀邦的追悼大会结束后,赵紫阳总书记在人民大会堂和邓小平站着谈话,他表示将于次日访问北韩,询问邓氏的指示,后者要他好好向金日成问候。% g. @/ n3 T G! O4 J
赵紫阳随后指出,已向政治局提出三项建议,追悼会结束后要断然阻止学生示威,严惩破坏行为,以及对学生主要以指导为主进行各层次对话,邓小平表示同意。赵氏接着表示,访问北韩期间,党中央事务交给李鹏总理负责向邓氏提出报告。 $ y# s" t7 ]! H ' c8 {3 M' E1 U随后,李鹏问赵紫阳是否在出访前夕的二十二日下午召开政治局会议,一旁的北京市党书记李锡铭也指出,党中央有必要作出明确决定,赶快阻止学生示威运动的发展。赵紫阳回答表示,已无时间,学生示威问题应无须召开政治局会议,并指出他已向邓小平说明三项对策并获得同意。 3 R# _; D5 k' [$ t, V' W; x, z; _% Y
赵紫阳对李鹏等重覆三项对策,并加上一句,强调无论如何必须避免流血事件,一旁的国家主席杨尚昆表示赞成赵紫阳的意见。李鹏表示赞成赵紫阳的三项意见,并指出若有重大情况会随时通报。表示没有时间召开会议的赵紫阳却于二十三日下午启程前往北韩之前,前往北京郊外的高球场打球。 ) n7 U% p7 ?6 m7 } - t* ~. R- T5 Y( g2 v赵氏在天安门事件后的六月二十三日召开的党十三届中央委员会第四次大会针对李鹏指控他容忍放纵学生示威辩解指出,学生要求拥护宪法、推动民主及反对腐败等与党和政府的主张基本上一致,学生的热情贵重,社会各界的支持很高,他个人认为要平息骚动有必要回应学生的声音。 7 r+ ^2 I! |4 } 8 h* l& J) Q( y9 d& z' `& }“秘录”指出,在针对学生示威运动是采取“无产阶级自由化”份子用来颠覆社会主义政权阴谋的看法抑或是学生只是为改革开放造成社会矛盾提出异议的看法,赵紫阳是立于后者的观点,和一九八七年一月被解职的胡耀邦是同一立场。 ; [6 c( I- Q1 ^# Q 7 l. a! s( x% s渡过无数权力斗争考验且深知邓小平等元老保守思想的赵紫阳何以作了危险的选择?文中引述赵紫阳于公元两千年五月接受新华社记者访问的发言指出,公安人员针对四月十八日学生前往新华门示威事件拍摄的录影带显示在队伍前面的数百名学生遵守纪律,且二十二日的胡耀邦追悼大会,虽有数万名学生聚集天安门广场,但整体而言是守秩序,并未发生任何事情。 # R! U: F& [/ |8 S8 r( \. _! h6 T2 Q- _/ v, i$ C f1 Y7 J
“秘录”指出,赵紫阳对学生示威情况的看法和李鹏等保守派形成对比,他私下一定认为学生运动是针对保守派而有利于自己,提供挽回一九八八年秋天以后所失去实权的机会,若访问北韩期间,事态能够加以收拾的话最好,否则将是轮到自己表现的机会。5 E7 H4 R, }( r4 I" ~1 h
* c- Y8 k( f7 d3 Q' b Y0 o赵紫阳的误算是他出发前往平壤不久,李鹏总理等召开会议,决定采取强硬方针,封锁学生示威运动,当时最高权力者支持这项方针。" U5 A% s& J% I3 Y) s
1 V8 ^) Q! c( r) E$ w7 B【トウ小平秘録】(15)第1部 天安門事件 危険な選択* v; F& j; u' p' t" `2 |$ D
( L' ~. E9 `9 D$ X5 Z" X見通しが甘かった . b* J7 A& i+ g; {7 n8 d Z / T8 n, c: ~0 }( |6 c 「胡耀邦(こようほう)同志が逝去した4月15日から葬儀が終わる22日までに、追悼活動に現れた明らかな動乱現象に対し、一貫して容認と放縦の態度を取り、動乱の形成と発展を助長した」" e* r$ x2 ] `( L: N! o
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天安門事件後の1989年6月23日に開かれた党13期中央委員会第4回総会(4中総会)で、保守派の李鵬(りほう)首相は、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)が犯した3点の過ちの第1点として、趙氏の北朝鮮訪問(4月23日から)前の対応を指摘した。( @# R# f ]7 F+ m6 P) b6 s* [
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「中央と北京市の多くの同志が何度も事態の発展を制止すべきだと提起したのに、抑制と対話を強調するのみで事件の性質を真剣に分析、討論することを回避し、動乱を制止する時機を失わせた」というのだ。 z$ a) _6 Q/ j/ ^% M
7 |; I6 ?' w( ^" e! f1 i 張良編著「中国『六四』真相」(明鏡出版社)によると、胡耀邦氏の追悼大会が終わった後、趙氏は人民大会堂のホールでトウ小平(しょうへい)氏を見送る際、立ち話をしている。. M3 R( _% r" ^, W/ N) @
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趙氏「小平同志、私は明日、(北)朝鮮を訪問します。何かご指示はありますか」 M- I( x2 O, B. C' j/ {3 Q9 [# x
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トウ氏「金日成(朝鮮労働党総書記)によろしく伝えてくれ」 4 I- V0 K5 L- L5 S1 f0 b, U/ @$ V5 T$ }* A% ~" E
趙氏「今回の学生運動については政治局に次の3項目の提案をしました。(1)追悼会終了後、学生デモは断固阻止し授業に戻らせる(2)破壊行為に対しては法に基づき厳罰に処する(3)学生に対しては指導を主とし各レベルの対話をしてよい」 , I& H/ A3 } _ a3 ^8 t3 U. D5 i ; a9 S' _. m* z( x2 e トウ氏「結構だ」 9 i. I0 a8 y( F3 h* m0 b : L% j2 D ^' O* C6 \2 N 趙氏「私の訪朝中の党中央の仕事は李鵬同志が責任を負い、何かあれば報告させます」 1 M; G5 b+ P& `& C- W: \1 T ; ^5 H1 [5 G2 {: F; T r) W$ j# I! J その後、李鵬首相が趙氏に言う。そばには同じ保守派の姚依林(よういりん)副首相と李錫銘(りしゃくめい)北京市党書記がいた。" Y- g7 f) c# O; h' L( C
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「あす出発ですね。その前に今日の午後、政治局会議を開きませんか」" D3 I7 u- k6 h( ?6 V3 ~5 F
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北京市の李書記が続ける。% z+ R, w, h. g9 F# W! f" b
, p3 b C8 B6 y5 O `+ ]3 I 「中央が明確な方針を出し、早急に学生デモの発展を食い止めねばなりません」 2 M& }, m( b& N3 a! T, @% L / n, A3 l+ b! k それに対し趙紫陽氏は言う。 ! n; r: W* e# w( o * U5 `( U9 [% z7 w5 S 「時間がない。この問題で政治局会議を開くまでもないだろう。これまで通り君たちで対処してくれ。今しがた小平同志に3項目の対応策を説明し同意を得た」 3 f& A7 x( J7 R+ ]! i& b e# n8 |! a8 z g3 e& N! f
趙氏は3項目の対応策を繰り返したが、「どんなことがあっても流血事件は避けねばならない」と付け加えた。傍らにいた楊尚昆(ようしょうこん)国家主席が「紫陽の意見に賛成だ」と言った。: L7 _: ]- H, \! k9 }6 J# i2 P
! [* \5 D( C7 ]. M 趙氏から「留守中の中央の仕事は君に任せる」と言われた李鵬首相は「紫陽同志の3項目の意見に賛成です。重大事があれば、随時知らせます」と答えた。 . x' u* o* c r4 o' n ! m2 k: X& p& [1 s* P% v' k. D 「時間がない」はずの趙紫陽氏は翌23日午後の北朝鮮への出発前に、北京郊外のゴルフ場に行く。趙氏のゴルフ狂いは有名で、日曜ゴルフが習慣化、春節には、深センなどのゴルフ場に足をのばした。. K8 Y {4 b; ~9 q3 L( N. ]
2 W' F' X3 C! Z! f: s* K0 v B 4中総会での李鵬首相の断罪報告に対し、趙紫陽氏はこう釈明した。 ( J/ _# X0 u D6 |: F# f, r! h! J& v1 ^6 T$ S
「憲法を擁護、民主推進、腐敗反対などの学生たちの要求は党と政府の主張と基本的に一致していた。学生たちの改革と反腐敗への熱情は貴重であり、社会各界の支持は非常に大きかった。騒動を鎮めるにはその声にこたえる必要があると考えたのだ」/ L' _: r( E, H
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学生デモを「ブルジョア自由化」分子による社会主義政権転覆の陰謀ととらえるのか、それとも改革・開放が生んだ社会矛盾への異議申し立てととらえるのか。趙氏は後者の観点に立っていたが、それは87年1月に解任された胡耀邦氏と同じ立場だった。* s1 k; R( w( c0 t
. R- c9 D8 j2 P, I 数々の権力闘争の修羅場をくぐり、トウ小平氏ら長老たちの保守思想を知り抜いていたはずの趙紫陽氏が、なぜ危険な選択をしたのか。趙氏は2000年5月に行った楊継縄新華社記者との最後(3度目)インタビューで、こう話している(同記者著「中国改革年代的政治闘争」による)。) I% v( P7 p6 P1 l' s4 @* n& Z# w
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「(4月)18日夜、学生が中南海の新華門に押しかけたときの公安省撮影のビデオでは、前面にいた数百人の学生たちは規律を守れ、過ちは犯すなと叫んでいた。(胡耀邦氏の)追悼会のあった22日、数万人の学生が天安門広場に集まったが、全体的に秩序は守られ、何事も起こらないと思った」 9 Y. A' }) X' e4 h$ m8 R+ V$ O, a h. [# U! |4 Y8 s
李鵬首相ら保守派とは対照的な状況認識だが、その底に、学生運動の矛先が保守派に向けられ、自分には有利との判断もあったに違いない。88年秋以降、失っていた実権を挽回(ばんかい)するチャンスであり、訪朝中に事態が収まればそれでよし、収まらなければ自分の出番だ、と。; C c/ r2 g5 Z7 \" @7 M
" `+ i# r5 c5 }, R 趙紫陽氏の誤算は、趙氏が平壌に出発して間もなく、李鵬首相らが会議を開き、学生運動を封じ込める強硬方針に出たことだ。それを支持したのが最高実力者、トウ小平氏だった。(伊藤正) . g- g0 L2 j' s+ A" I9 r, a7 y Q0 R' Y, e5 C5 G
■4中総会 1989年6月23、24の両日、北京で開催。天安門事件後初の中央委員会総会で、李鵬首相の報告を承認した後、(1)趙紫陽総書記を解任し、江沢民上海市党委員会書記を後任に選出(2)胡啓立政治局常務委員、●杏文、閻明復両書記を解任、江沢民、宋平、李瑞環政治局員を政治局常務委員に補選-した。総会での趙紫陽氏の発言は未公表(その後外部に流出)。; U: c" k* }( i& ]3 g/ U) C* n
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●=くさかんむりに内 + t \3 M$ \! t9 @& h5 I ' l+ ]' U1 g+ i. b$ u(2007/02/28 )5 g3 F+ v; D9 ^% E2 U. t, x
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天安門事件3カ月前の1989年3月16日、北京市郊外でタイのチャチャイ首相(左=当時)とゴルフを楽しむ趙紫陽氏
* L u: F) r. [- [. k1 {. _7 U6 h3 f趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)は1989年4月23日午後、専用列車で北京を離れ、北朝鮮公式訪問に出発した。その直後に、留守中の総書記代行を託した李鵬(りほう)首相ら保守強硬派が主導権を握ってしまう。; n& O8 g G9 I, x7 B# \# I
1 G2 R1 v# c* K, R* O 趙氏はのちになって、新華社の楊継縄(ようけいじょう)記者とのインタビューで、訪朝前、政治局常務委員会内には4月15日の胡耀邦(こようほう)前総書記死去後に起きた学生デモへの対応で「意見の食い違いはなかった」と話している(2004年出版の楊氏著「中国改革年代的政治闘争」、以下「楊書」)。! w7 ?+ X# h- M @
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その根拠の1つには、胡耀邦氏の追悼デモが始まった後の常務委員会(4月18日とみられる)で趙氏の分析と方針が承認されたことがあった。 : u( _0 n. J& q; P( J 3 G. j/ i9 n N2 Y/ |7 L- \7 w8 L& A2 M 趙氏は学生デモの背景を(1)清廉潔白な胡氏のイメージは高く、腐敗への不満と結びついた(2)87年の胡氏解任のやり方や反ブルジョア自由化闘争への不満がある(3)88年秋以降の調整策で、政治改革や経済改革が停滞した-と分析。6 v0 w9 K }. Q; Y! q) k6 @, C& j
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その上で、大半の学生は、胡氏追悼の形で改革深化への願望を表現しているとして、追悼デモは規制せず破壊行為だけ取り締まる方針を打ち出し、常務委の賛同を得た。19日にトウ小平(しょうへい)氏に報告、支持されたという。& a' e/ Z. I3 m3 S( O6 \7 w
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22日に胡氏の追悼大会が終わったのを機に、趙紫陽氏が打ち出したのが「3項目意見」だ。指導と話し合いで学生たちを教室に戻らせるという柔軟策だった。% O: t$ s: N# B0 A" E0 c
- i0 U; i! F- F5 c' ^5 e6 v 北朝鮮へ出発する際、見送りの李鵬首相から「何か意見は」と聞かれた趙氏は、3項目意見を改めて伝えた。李首相はそれをトウ小平氏に報告、トウ氏も「紫陽の方針でやれ」と指示したという(以上「楊書」による)。9 k4 S+ T- T' z/ M5 y8 C1 l A' ^
7 \# h- v% y9 h ところが、趙氏が出発した翌24日、状況は一変してしまう。その前日、北京の21大学の学生40余人が市西郊の公園「円明園」で会合、「北京市学生臨時準備委員会」結成を決議し、授業ボイコットや地方へのオルグ派遣などを相談した。 , |# h8 |9 a, }! \( V% H k# q7 b; H( [6 y3 H" O# t& Q! C それを聞いた北京市の李錫銘(りしゃくめい)書記と陳希同(ちんきどう)市長は、中南海(党中央・政府機関)に報告し、早急に手を打つ必要があると判断。陳市長のテニス仲間の万里(ばんり)全国人民代表大会(全人代)常務委員長に相談する(張良編著「中国『六四』真相」。以下「真相」)。9 M/ B! {! G) c! f% ^
5 q: u& N Y9 G! q 「学生運動はますます重大化しています。既に39大学がストに入り、約5万人が参加してます」(陳市長)「最も凶暴な北京大学生の一部は、方励之(ほうれいし)(天文物理学者)の女房の李淑嫻(りしゅくかん)が指図しています。方励之は学生と外国メディアを結ぶ仲介役をしています」(李書記)6 W4 s' T! ? Z: M8 U% R& i; ~
1 W9 I: S! K0 B+ i- v
報告を聞いた万里氏は驚き、李鵬首相に会いに行くよう指示。李首相はその晩、政治局常務委の非公式会議を招集し、北京市党委と国家教育委の報告を聴取、意見交換する。「真相」は発言を紹介しているが、強硬論一色で改革派の万里氏や田紀雲(でんきうん)副首相の発言は伝えていない。沈黙するほかなかったのだろう。 2 y2 A- T$ k7 @- M; b- e( j8 u. Y9 p( G4 }
天安門事件後の6月30日に陳希同氏が全人代で行った報告によると、この会議は「ごく少数の者の操縦と画策の下で、計画もあり組織もある反党・反社会主義との政治闘争に直面している」との認識で一致、党中央に「動乱制止小組」を設置して終わる。 2 n e, ]- _5 {; W3 W1 \0 ?, h 6 G- f \0 R5 J- Q そのとき、李首相が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に「小平同志に、常務委の報告を聴いてもらい、意見をうかがえないでしょうか」と言う。 L+ _- ^9 L* j2 T. `! @* }" k 2 ~( m& M B; s3 V8 Y 楊氏は「小平に話して、明日午前中に彼の所に行くようにしよう」と請け負った(「真相」による)。 ; U: o4 ]0 n' B5 |1 h5 [$ a9 J% f . _7 `# f: J# K! D3 ` 25日午前、楊尚昆氏と李鵬首相がトウ氏宅を訪れ、前夜の常務委会議の内容を報告した。トウ氏は常務委の決定に「完全な支持」を表明、講話を始めた(「トウ小平年譜」による)。 - w0 m/ a6 i$ M( m9 J. ?0 r' _& _8 |3 W3 `' v" y# h* K7 {7 t' @& u+ l
「これは通常の学生運動ではなく動乱だ。旗幟(きし)を鮮明にし、強い措置をとって動乱を制止せよ。国際的な反応など恐れるな。中国が発展し、4つの現代化を実現してこそ、真の名誉を得られる」 / d4 }+ x D6 p1 V; d & Q/ l$ v; q# B: m* z 「4つの基本原則の堅持が必要だ。人民民主専制の手段を使え。社説を出せ。立法も必要だ。全国的な闘争の準備をし、断固動乱を制圧せよ」 + C4 l# x. t2 e) x8 l% z2 R! w! c, [( C* b& ^ k, f, O
「この動乱は完全な計画的陰謀活動であり、そのポイントは共産党の指導と社会主義制度の否定にある。背後には黒幕や黒い手先がいる。方励之夫妻は典型だ」' V6 z/ C D$ X% B
$ r. c7 A8 c# g `" g, C7 f, U 後に「反革命陰謀の黒い手先」とされた独立系改革派シンクタンク「北京社会経済科学研究所」の中心メンバーだった王軍濤(おうぐんとう)氏(天安門事件後、懲役13年)は2004年に刊行された「浴火重生」(明鏡出版社)への寄稿文で、こう回想している。 H" B. ]" c- d7 F g S$ F : R0 w8 ~- s2 o, C 「当局側が強硬措置に出、政治的粛清になった86年のデモのときと同じ事態は防止しなければならないと思っていた。胡氏追悼デモには、直接関与を避けていたが、27日のデモの前、北京大の学生リーダーから求められ、アドバイスした」' l; j/ S9 K$ s S# V
' d2 t1 {! @+ \% V' Y4 m; e4 g7 R 王氏は「運動の秩序を保持して鎮圧を避ける」必要を指摘、「スローガンに注意し、ピケ隊を設けデモ行進の秩序を守るよう」忠告したという。それを機に王氏ら研究所のメンバーは学生運動に対し、「観察」から「支援」へと転じていく。5 |1 T5 e6 l6 x/ B
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その背景には、上海の週刊紙「世界経済導報」弾圧事件があった。 6 |$ c8 e2 P. C1 i& s g: A' q/ A, s- i, n
老ジャーナリスト、欽本立(きんほんりつ)氏(故人)が総編集長(社長)を務めていた同紙は、当時最も進歩的な新聞として知られ、北京の中心部にあった支局には、改革派知識人や外国人記者が自由に出入りしていた。北京社会経済科学研究所との交流も深かった。; w2 s- a D% @; q: @. q! ^
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同紙は、4月24日付紙面で胡耀邦氏追悼の特集を企画、その柱として19日に月刊誌「新観察」と共催で、胡耀邦氏追悼の座談会を開いた。著名な知識人20人以上のほか、胡氏の長男、胡徳平(ことくへい)氏(現党中央統一戦線工作部副部長)も参加して故人をしのんだ。 ! T# A5 i, d1 ~' x- `) }* F8 {4 ]# d3 a- K# C {0 @
問題になったのは、中国社会科学院前政治研究所長の厳家其(げんかき)氏や「光明日報」紙の戴晴(たいせい)記者らが、87年1月の胡氏解任決定を批判、名誉回復を要求する発言をしたことだった。0 C5 ?9 t# o9 [; t8 i. K
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それを上海市党宣伝部は23日午後、校正刷りで知る。陳至立(ちんしりつ)宣伝部長(現国務委員)から報告を受けた江沢民(こうたくみん)同市党書記(前国家主席)は、宣伝担当の曾慶紅(そうけいこう)副書記(現政治局常務委員)に、問題部分を削除させるよう指示する。# V3 g2 L6 H$ S! c+ z
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しかし、欽本立氏は拒否する。輪転機が回る中で、やりとりが続いた末、市側は24日付同紙の発行禁止を決定したが、既に一部は発送済みだった。江沢民書記が欽総編集長を解任したのは、人民日報の強硬社説と同じ4月26日だった。 - `6 _6 q) D9 ?. c D% B) M! d; V9 q8 p- G
この事件は、江沢民氏が天安門事件後に総書記に抜擢(ばってき)される重要な理由になる。トウ小平氏ら長老が解任した胡耀邦氏の名誉回復を決然と拒否する措置を取ったとして信頼を得るのである。 * f: a5 n5 _3 o" O7 G( j U. w: b1 ]( b2 r7 c; e- f$ f% a! P
しかし欽氏解任当時はそうではなかった。知識人とジャーナリストの強い反発を招いたのだ。厳家其氏ら知識人33人、北京のジャーナリスト数百人がそれぞれ署名した上海市党委あての抗議文が28日に発表される。 - {' u0 V+ @6 \1 S0 ]# F8 @0 ~ 5 }7 I: D" H' A9 _. S2 d そうした知識人層の危機感は、追悼デモ報道に不満だった学生たちの「報道の自由」要求と結びついていく。人民日報社説も世界経済導報事件も、事態を収拾する意図に反し拡大させてしまったのだった。1 H z( t6 @- K5 [4 Q! j* K7 W" e1 o
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それはトウ小平氏にとって大きな誤算だったに違いない。6 b2 v& n% U3 B& y! U5 Q* a: i3 w" A- j
3 \: E3 {' x9 ]0 n9 ]* A t 趙紫陽氏が2000年5月に楊継縄(ようけいじょう)新華社記者に語ったところによると、戒厳令発令と趙氏の事実上の失脚が決まった89年5月17日の政治局常務委員会で、トウ氏は李鵬首相にこう話したという(楊記者著「中国改革年代的政治闘争」)。 7 Q: J! y: S! `7 `6 H7 o7 H9 X% ]" \1 o$ Q
「わしに戒厳令を発動させるようなことは、二度とするなよ」 ( ]8 l4 W9 `& Q, a0 \* o6 W7 Y' p# ~$ n4 z
人民日報社説後の情勢は、長老たちをも動揺させた。趙氏によると、彭真(ほうしん)・前全国人民代表大会常務委員長は党中央弁公庁(主任は温家宝現首相)に、「党中央は自制し、矛盾を拡大することはするな」と電話したという。1 l" B( x1 \, U# @
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当局側は28日、学生との対話に応じる姿勢に転じる。しかし29日に袁木(えんぼく)国務院スポークスマンが行った対話は、デモの主体となった学生側を刺激しただけだった。参加した45人の学生中、43人は政府の息がかかった官製学生会のメンバーだったからだ(陸超祺(りくちょうき))著「六四内部日記」) 3 I5 ^* P: @. u# j2 ^; o" J1 S& R- M, Z/ l0 X/ L1 C# o
李鵬首相ら保守派が守勢に追い込まれる中で、趙紫陽氏が北朝鮮訪問を終え、4月30日、北京に帰着する。そこから激闘のドラマが始まる。(伊藤正) 6 j1 @5 d' @* W, K, q, F. _+ u( i! o- [8 V0 g
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【用語解説】世界経済導報1 L- U# u2 u5 O/ w( C& x
# }9 t. b5 Y7 u●=彫の周が丹! o2 A, ~) d; N& m) E' i) g' K
) C7 r7 r8 b. U, s E' j) X' F- Z9 p% }
★=示へんに其 ' `, A: G( Z& Z( V( t+ r. O: R; M' G4 X1 F) \" X9 m
(2007/03/08)
4 |- _6 w8 F! f' {7 p, l 「秘录」指出,五月中旬学生开始绝食后虽发展成为整个社会的运动,但参与运动的知识份子领导能力有限。二十日宣布戒严令后,大半知识份子主张应撤出广场,结果却未能如愿。 ; m" F2 ~! y. K4 o U% s& Q% n1 n- H" y 中国社会科学会历史研究所副研究员包遵信曾在天安门事件后为文指出,北京社会经济科学研究所副所长王军涛本有机会说服学生撤出广场,但负责广场总指挥的柴玲突然改变心意,拒绝月底撤出广场。柴玲的先生封从德则在「天安门之争」一书中指出,五月二十五日晚上开始的民运领袖会议,九成七对撤退投反对票,柴玲只是加以宣布。 ) Q4 h/ K x K' R/ f& i5 c4 Q3 g1 M" Z2 e' p
在学运扮演军师角色的王军涛认为学生若不撤出广场,中共行使武力已是不可避免,开始着手学运遭镇压后,主要学生领袖逃往海外的准备。天安门血腥镇压后,王军涛、王丹和包遵信在国内逃亡,三人在十月底以前都被逮捕,但多数民运领袖逃到海外。* C( D( R6 i% A# J5 V; i* F7 p9 w( x; k
. D, m% L# g' ~# q8 ~ 中共当局在天安门事件后指出反革命暴动的黑色打手「三所一会」,包括中国经济体制改革研究所等三个研究所和一个学会,它们都被视为是赵紫阳的智囊团。「三所一会」直接的罪状是五月十九日晚上发表的声明,中共断定它们和鲍彤关系很深,后者泄露戒严令等情报造成学运对抗政府的行动。但是,鲍彤事后一贯否认这项指控。 + J s3 t, [7 O! P" O o5 v: |8 b/ f* {" d
鲍彤于五月二十八日突然遭到逮捕,被送到北京市北部的政治犯监狱「秦城监狱」,这是邓小平等元老和李鹏总理等保守派决定武力镇压而进入具体性作战的一个信号。 4 |& }& J; I; K' I# Z
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【トウ小平秘録】(28)第1部 天安門事件 撤収拒否# [$ W$ L( d- }
1 f; d* t" A$ e, _" k0 v
■必至だった血の鎮圧 ( T3 s/ ?% h/ n2 i. g$ p# o3 e1 B4 v* I. \6 E) E: w- ]
「血の鎮圧」を回避する方法はなかったのか。1989年5月下旬の時点で、当局側の武力行使が切迫していた以上、流血を避ける唯一の方法は学生が天安門広場から撤収することだった。それが難しかった。6 B- _" C& v7 z8 C+ A7 {3 m
7 ?. _) o* H/ K* V
5月中旬の学生の絶食行動開始後、全社会的な運動に発展、権力闘争の様相を深める中で、知識人グループが運動に参加したものの、彼らの指導力に限界があったのも要因だった。/ q+ L; L) L& r4 R
* ]7 R3 x7 ^" x; _8 l+ g1 \ 5月20日の戒厳令布告後、知識人の大半は広場撤収を主張した。中国社会科学院歴史研究所の包遵信(ほうじゅんしん)副研究員(肩書は当時、以下同)もその1人だった。包氏は「六四的内情」に、25日午後、北京社会経済科学研究所の王軍濤(おうぐんとう)副所長と交わした会話を記している。' X% v" ? J1 T& {5 Y' F
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包氏「何とか学生たちを撤収させないと」 ( O6 I5 C- a7 m5 ]& z" [# P2 K3 E, L' c
王氏「解決した。今晩広場で発表することになっている」 7 h1 [; {% s7 ~ ^/ U: d. ^2 ^/ V 包氏「(撤収は)いつ?」' {( g. j* I8 ?$ C2 b
+ B' C. j6 X p2 \! Z6 I2 i 王氏「今月末だ」 3 U; d$ a; Q& m! V5 K . \% V) e* h$ Y- D1 d2 I 王軍濤氏は学生運動の軍師的な存在で、特に「北京市大学生自治連合会」(以下「高自連」)の王丹(おうたん)(北京大生)、劉剛(りゅうごう)(北京大研究生)らリーダーに強い影響力を持っており、撤収の説得に成功していたはずだった。& j" L1 l% n% O% h: k# @. c
; W7 h4 Q/ k% Z% g7 K- f 張良編著「中国『六四』真相」によれば、楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委副主席(肩書は当時、以下同)は「武器の使用を極力避けよ」と指示していた。それがなぜ発砲する事態になったのか(以下は各種資料、証言による)。) F+ T; h: @. w. q
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第38軍(河北省保定)を中心にした北京軍区主力が、装甲車を先頭に天安門前に1番乗りしたのは4日午前1時すぎだった。3日夜9時すぎ、西長安街西端の公主墳付近を出発、天安門までの約8キロを進むのに4時間を要した。激しい市民の抵抗を受けたためだ。 # U% M( q. }/ m1 X* V6 @- } 2 ?% e% a+ P( x) F$ s q$ e' ]7 Q Z 最初の「衝突」は公主墳の東2キロ余の木●(もくせい)地で、市民側はバス、車両を並べてバリケードにして放火、火炎瓶やレンガ片などを投げて抵抗した。 ; z l5 X: [6 ^$ [8 K& X $ u. n* [6 ^5 ? 部隊側は、午後10時20分ごろから発砲を始めた。以後、復興門、西単、六部口で市民側の抵抗を受ける度、発砲を繰り返し、天安門前でも同様だった。 % [7 s$ S; T& F3 S9 s, g' S1 n% d* Z& j( ^8 ~; N) G9 U$ w
一方、やはり激しい抵抗を受けた南部方面部隊(済南軍区第54軍)は、空に向けての威嚇発砲がほとんどで、市民に向けた発砲は少なかった。北部方面(北京軍区第24軍)や東部方面(瀋陽軍区第39軍など)は抵抗に対し発砲せず、入城を断念している。, Z) K6 h5 N. S
# y1 a1 c) \8 q/ Q) O 第38軍など西部方面部隊に発砲許可が出た経緯は、今も分かっていない。「万やむを得ない場合には一切の手段を行使してよい」とのトウ小平(とうしょうへい)軍事委主席の事前の指示があった(「真相」)とすれば、現場指揮官の判断が各方面の対応の違いになったとみてよいだろう。- l6 u$ i2 Y: p1 g6 d. a
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天安門広場とその周辺は4日午前3時までに、戒厳部隊がほぼ制圧、午前4時には「これから清場(占拠者の一掃)を実施する」と最後通告を発した。しかし学生側総指揮部のある人民英雄記念碑壇上や周辺にはなお地方の学生を中心に3000人以上がおり、決死の覚悟で頑張っていた。' T/ t+ Q- n* r0 h
+ n$ \+ r/ i2 P8 G; n: a9 Y6 f5 Q1 l$ ^ それより前、広場で2日夜に絶食行動に入った歌手の侯徳健(こうとくけん)氏、北京師範大講師の劉暁波(りょうぎょうは)氏ら4人の知識人は学生らに撤収を呼びかけたが、激しいやじに遭う。4人は相談し、侯氏ら2人が戒厳部隊指揮官とひそかに交渉、無抵抗撤退への安全の保証を得ていた。7 U4 c$ L+ d: w% a% s
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午前4時半、いったん消えていた広場の明かりがつき、銃を構えた数千の兵士が記念碑を取り囲んだ。侯氏が演説、学生の同意なしに行った軍側との交渉結果を明かし「もう血は十分だ。これ以上流血はやめよう」と訴えた。 % G. _$ e, q, M1 a 7 P$ p4 }( Y- h* J/ u$ ~ 学生たちから一斉に怒号が飛ぶ。0 J% g/ g; v! t" y5 L4 e4 b
+ i7 d) z) J" Y 「天安門広場では一人も殺すな」とのトウ小平、楊尚昆両氏の指示は守られた。当局側は広場での「虐殺」を繰り返し否定、現場にいた記者らも犠牲者を目撃していない。ただし広場周辺の死傷者は多数に上った。2 r: J3 l0 ^- m1 l
+ O: Z m, L" K5 G 天安門広場は学生らに代わった数十台の戦車が占拠した。北京では6月4日以降も市民の抵抗は続き、ときどき銃声が響いた。抗議デモが各地で起こり、外国政府の非難声明が相次いだ。! M: R) T& a2 x& { Q
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トウ小平氏は5月16日のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長との会談を最後に公開の場から消えたが、6月9日、戒厳部隊幹部と会見、健在ぶりを示した。笑みを浮かべ、将官に言葉かけるトウ氏は上機嫌に見えた。9 }) n0 w% c B5 P0 c
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しかし「心の底では痛みを感じていたはず」と楊継縄記者は、上層部に近い友人から聞いた話を「中国改革年代的政治闘争」に書いている。! W7 a* `* V2 T% H1 g
$ o' r! T; U( F# K$ \. ^ 「天安門事件後、トウ小平は家では、一日中もんもんとして話をせず、数年前にやめたたばこを吸い続けた。卓琳(たくりん)夫人がいさめると、『わしにはたばこを吸う自由もないのか』とどなった。毛毛(マオマオ)(三女トウ榕(とうよう)氏)が『自由が欲しいですって? 学生は自由を求めて天安門前に座り込んだのよ。あなたも座り込みに行きなさいよ!』と揶揄(やゆ)した」4 `; A7 g7 x4 p/ H" R
) l4 I+ N0 F/ ~% f$ Q* D! U その時、84歳。トウ小平氏は政治からの「完全引退」を決めていた。「武力鎮圧以外に選択の道はなかった」と自らに言い聞かせながら。0 `; o/ e- }9 \8 B5 o- F- A
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(伊藤正) 2 p v, d. U# g/ t! h. |; s; O8 ]+ B" T8 _% Y- K, q) D
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邓小平秘录:六四悲剧是学运卷入权力斗争 ) w" @' H" Q# r# k' q% q( P4 L) w( p ) o' s8 h8 p, ](中央社记者张芳明东京十八日专电)日本「产经新闻」连载中的「邓小平秘录」今天报导,邓小平推动改革开放,但坚持共产党独裁的毛泽东遗训,天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败运动被卷入中共保守派和改革派之间的权力斗争,而招致最后的血腥镇压。 ; q/ j- j) S/ w! g7 W0 _ + I* V. ]& r5 L$ `- B' w- J「秘录」指出,一九八九年六月的天安门事件今年将届满十八年,中国不知道「六四事件」的世代增加,北京市民也将当时的体验关闭在记忆的抽屉里,中国媒体在上个月刊登邓小平去世十周年的特别报导都未提「六四」,有关人士指出这是中国报导管制的结果。 $ ?4 W& h8 `' v9 a) L2 _7 k" A' Q- Q
邓小平在天安门事件后的一九八九年六月九日接见戒严部队干部致词时指出,这次的风波迟早要来,那是由国际的大气候和中国本身的小气候来决定,不是人的意思可以改变。 . v# U' D. I( {) X" j# L' T2 N# U" X% q5 ^
邓小平所提的「大气候」是指一九八零年代后半,戈巴契夫的上台加速苏联和东欧的民主化及政治变革的潮流,「小气候」则是指中国自一九七零年代末期改革开放以来,政权内外升高对同样改革的要求。' E( } D5 j9 C% D1 T
* [5 o7 n) R7 L一九八九年东欧的社会主义政权相继崩溃,一九九零年苏联也放弃一党独裁,次年苏联瓦解,但是,邓小平与内外潮流背道而驰,以武力粉碎民意坚守一党独裁的社会主义。他在接见诺贝尔奖得主李政道时强调,中国包括共产党领导的四项基本原则,指责胡耀邦和赵紫阳未实行而犯错。 2 o6 U7 o% f# h+ Q/ e4 h( h) X . c3 B9 s5 q: N4 l, T邓小平推动的改革开放政策是以市场经济化和国际化为基本的经济建设,与毛泽东路线是不相容,但是,他坚持的四原则就是毛路线,特别是核心的「共产党领导」的一党独裁是毛遗训,成为保守和改革斗争的种子。 * k. F- H8 G4 k" L V. [+ K6 M+ T: S# Y! @
一九八零年代,中国的经济和社会出现激烈的变化,人民意识思想倾向欧美,但是一旦发展成为对党的批评,邓小平和保守派联手以四原则为盾牌展开镇压,为的是坚持政治权力和生活特权的金字塔型党统治制度。, O, w; n" Z7 ?/ p
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在一党独裁的制度下,一九八零年代官僚腐败大增,一九八九年四月胡耀邦去世后引发的学生运动除要求民主化,也反对腐败,邓小平等元老和李鹏的保守派将之视为企图颠覆党领导体制的挑战。 9 g* V$ @ ^3 t0 [3 | J4 W9 d9 Q, z1 u8 D/ u1 @5 P
天安门的悲剧在于赵紫阳支持学生,造成学生要求民主和反对腐败的运动被卷入保守派和改革派之间的权力斗争,不少人认为邓小平是被保守派的谋略所利用。邓小平为何对民运决定使用武力?尚有值得检验查证之处。 * j5 w6 ^/ `2 B" t5 Q9 |0 L; D: p5 f5 }4 u. x+ U+ B8 c! D5 K
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【トウ小平秘録】(32)第1部 天安門事件 独裁堅持 - D& C+ A0 @5 F, w' J4 t5 A _6 Q7 Y
1989年6月の天安門事件から間もなく18年。中国では、「六四」という事件の通称も知らない世代が増え、北京市民も当時の体験を記憶の引き出しに閉じこめたままだ。中国のメディアは先月、トウ小平(とうしょうへい)氏の死去(97年2月19日)10周年で特集報道をしたが、「六四」に触れた記事は1本もなかった。報道規制の結果と関係者は言う。 + B% X+ h0 }8 C- ~( G 4 X% y; m+ {6 m% b5 l" O! l 胡錦濤(こきんとう)国家主席(党総書記)が2004年8月のトウ小平氏生誕100周年大会の演説で、「80年代末から90年代初めの内外の政治的風波」発生時に、トウ氏が果たした貢献を指摘したことは本連載記事で既に書いた(2月15日付朝刊)。 V* i! S) `, O9 \. F 1 Z% r) `# b+ O2 ]) g9 g7 y トウ小平氏自身も89年9月16日、ノーベル賞受賞の米国籍物理学者、李政道(りせいどう)氏との会見でこう述べている。; {7 j: W/ p( y7 t% C
* ^; ]8 u3 B' X; O5 @ 「今回の動乱(天安門事件の学生運動)では、趙紫陽(ちょうしよう)は自ら(ブルジョア自由化支持の正体)を暴露し、動乱側について党を分裂させた。しかし幸い私がいたので、問題の処理は難しくなかった」(「トウ小平文選」第3巻) 2 P2 j4 Q2 ~3 @$ j. ]* ^: A ( R B) e4 l$ Q6 X/ ~& n その結果、「中国の特色ある社会主義の正しい方向を堅持」(胡錦濤演説)し、「今日の発展がある」(温家宝(おんかほう)首相)とはいえ、天安門事件は消し去るべき過去になっている。当時の特殊な状況は再来しない、と。 X, ^+ C9 o, ?7 `# Q1 Q/ b5 W0 S0 Z- {! E- z6 U- e0 h* V: h$ S' b _0 a
トウ小平氏は事件後の89年6月9日、戒厳部隊幹部と会見した際の講話をこう切り出した。 + q. Q. R& E( ~- n# e- D) I" ?5 s5 I: R: j7 F6 i0 E3 x$ d5 I
「今回の風波は遅かれ早かれやって来るものだった。それは国際的大気候と中国自身の小気候によって決定されており、人びとの意思で変えることはできなかったのだ」 ' p, \2 v$ p0 P$ Q( N : j! ]- _) v; V2 M6 ?0 H/ l 「大気候」とは、80年代後半、ゴルバチョフ氏の登場で加速したソ連・東欧の民主化と政治変革の潮流であり、「小気候」とは、70年代末以来の改革・開放の進展とともに、中国でも同様の要求が政権内外で高まったことを指す。 & \! q( E5 M$ _0 o3 b3 u9 [+ }' n2 h- S# ?- X. [3 Y! G+ T( `
89年には東欧の社会主義政権が相次いで崩壊、ソ連も90年に一党独裁を放棄、翌年には連邦を解体した。しかしトウ小平氏は内外の潮流に逆らい、武力によって民意をつぶし、一党独裁の社会主義体制を守り抜いた。: j) ^+ L( n! q) @4 I e3 z
: P, ]9 ~5 m+ P# B: { トウ小平氏は先の李政道氏との会見でこう話す。: z$ u2 h: Q* X; V4 l
9 ?7 Z" r! H) m, a; Y 「過去2人の総書記(胡耀邦(こようほう)、趙紫陽両氏)を選んだのは間違いではなかった。しかし彼らは後に4つの基本原則((1)社会主義の道(2)人民民主独裁(3)共産党の指導(4)マルクス・レーニン主義と毛沢東思想)の堅持という根本問題で過ちを犯した。4原則と対立するのはブルジョア自由化だ。私は何年もそのことを言ってきたのに、彼らは実行せず失敗した」 3 n& o: c4 U. P 4 M) @1 f) p! @' ~3 M8 a◇% @4 `2 v. r$ i
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毛沢東遺制は守った6 ]& w" n2 Q9 W1 q
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トウ小平氏は天安門事件(1989年6月)後も、87年秋の第13回党大会で趙紫陽氏(天安門事件で失脚)が読み上げた政治報告は一字一句も修正してはならないと強調した。報告は、中国の社会主義を初級段階と定義、経済建設を中心目標にし、改革・開放と4原則堅持を基本にするとのテーゼを打ち出した。これを「1つの中心、2つの基本点」と呼ぶ。 5 |8 ~+ J1 b# @ 5 s" |- Z: f0 \! V5 z 改革・開放は市場経済化と国際化を基本に経済建設を図る方策だが、それは毛沢東路線とは相いれない。ところが4原則は毛路線そのものであり、トウ氏が4原則の核心として挙げる「共産党の指導」、つまり一党独裁は、毛遺制だった。相矛盾した2つの基本点を並立させたことが保革抗争の種になった。! C3 ?; u% r7 H$ b
" k% q3 V3 K. n( | 張良編著「中国『六四』真相」によると、学生、市民のデモが「老いぼれ独裁者はやめろ」と叫んでいた89年5月19日、トウ小平氏は楊尚昆(ようしょうこん)氏にこう話した。7 r; `0 X7 P6 N. x; k
! ]2 n* V* h3 H 「わしは年を取った。老いぼれといわれてもかまわない。だが、この年にしては思想が保守的だとは思わない」7 y% C; z, n) X( ]/ O# c
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今日の中国人がトウ小平氏を尊敬するのは、改革・開放を推進、国民を毛沢東思想のくびきから解き放ち、豊かさと自由をもたらしたことにある。80年代には、急激な変化が経済や社会に起こり、人びとの意識や思想も欧米志向が強まった。5 B8 L% u" }8 p! H+ p
1 O5 K2 t/ C- d% u6 h/ m. p しかしトウ小平氏はそれが一党体制批判に発展すると、4原則を盾に保守派と手を組み弾圧した。彼が守ろうとしたのは、政治権力から生活上の特権まで、地位に応じて享受するピラミッド型党支配制度=毛沢東遺制にほかならない。$ ~: ] l! m1 u: T. Z
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その制度の下で80年代には、官僚の不正や腐敗が急増、「官倒」という官僚と結んだ闇ブローカー行為にトウ氏や趙紫陽氏の子息の関与もうわさされた。 # }' ~6 G# ?$ m4 Z/ L6 P l% [; l2 E, f$ g
89年4月の胡耀邦氏死去をきっかけに始まった学生運動が、民主化要求とともに「腐敗反対」を掲げたのは、そのためだったが、トウ氏をはじめとする長老や李鵬(りほう)首相ら保守派政治家は党体制の転覆を目指す挑戦と受け止めた。 " u- |9 T0 K' R' e0 G4 Q& }# e0 v* { V! m. F$ j1 u# H
天安門の悲劇は、趙紫陽氏が学生らを支持した結果、運動が権力闘争に巻き込まれたことにあった。保守派の謀略に、トウ小平氏は利用されたとの見方も少なくない。- L- l b' T, n( R+ I8 O
; i/ y- |6 O' R5 H: e トウ氏がなぜ武力行使を決断したかは、まだ検証すべきことがある。第2部以降の課題にしたい。$ W$ Q: ?* W/ Z8 d; X
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(伊藤正). Z& x9 [5 ^& f+ k
3 _& _( i3 X. |# K5 {5 L7 G =第1部おわり 9 C; I. ^2 S2 b/ n3 G( O( m' p0 H/ S
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) N; z$ x9 k. A3 [0 v【ニクソン訪中】 冷戦さなかの1972年2月のニクソン米大統領訪中のことで、「歴史を変えた1週間」と呼ばれた。対ソ戦略やベトナム戦争終結などでの一致が背景にあり、米中の戦略関係の起点になった。71年7月のキッシンジャー大統領補佐官による秘密訪中で基本合意していた(米中の国交樹立は79年1月)。ニクソン、キッシンジャー両氏は現役引退後も、歴代米政権に対中関係の重要性を訴え、ブッシュ大統領の特使派遣も両氏の進言があったとされる。 ' f1 T, v. x! N1 Y p0 S/ V2 z. N6 M' |+ u8 X! Z. \& S
●=深のさんずいを王に+ t4 P' j9 ]/ e/ U
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- _. P# P: l1 Z 米側が当然拒否すると、人民日報など主要なメディアが方励之夫妻を攻撃するキャンペーンを開始、夫妻をかくまう米政府を内政干渉と批判した。中国側はさらに14日、AP通信とVOAの米人記者を国外追放処分にした。 $ R6 f* Q4 j. K6 q+ D: E% j) Z * J% T X/ _5 m. K, g) }; ~4 U 米国内で反中世論が高まる中で、米政府は6月20日、高官交流の停止などの追加措置を発表した。6 y1 @6 o$ i. |- e/ c0 c5 o8 T. X